第十話 こんなはずじゃなかったのに。
「うん、うまい」
紅がもぐもぐと食べる動きが、花音の後頭部に伝わってくる。
(な……なななにこの体勢……)
心臓が跳ね上がってものすごい音を立てる。
耐えきれず、花音は勢いよく立ち上がった。
「お茶! お茶の残りがあったかも! 持ってくる!」
籠を抱えたまま花音は衝立の向こうに走った。
「花音? ずるいぞ、もういっこくれ」
衝立の向こうでのんきな声が拗ねたように言ってくる。
(もうっ、もうっ、やめてほしいっ)
不意打ちをくらって花音は卒倒しそうだ。
身体から飛び出そうなほどドキドキする心臓をなだめ、花音はもうすっかり冷たくなってしまったお茶の入った竹筒を紅に渡した。
「お、気が利くじゃん」
気抜けするほど自然体な紅にちょっと悔しい。
(な、なんかあたしばっかりドキドキしてずるい……身体がもたないわ )
紅といると楽しいけれど、どうにもならないくらいドキドキしてきゅう、と胸が痛くなることもあって、切ないときがある。
(美形っていうのは罪よね……)
こんなに整った容姿の人は初めてで、だからこの初めて感じる切なさも紅の美形のせいだと花音は思っていた。
だから、二人きりにならない方がいい、と思っていたのだが。
(今日のは不可抗力だわ。そこで偶然会っちゃったんだからしょうがないわよ、うん)
なぜか自分に言い訳して、やっぱり花音は勢いよく立ち上がった。
「あたし、もう帰るから!」
「仕事やるんじゃないのか? また手伝うぞ」
楽しそうに紅は言う。
「そんなこと――」
言いかけて花音はハッとする。
(そうだ、仕事)
本人が目の前にいるのだから、聞けるじゃないか。
「あの……あのさ。教えてほしいんだけど」
「なんだ?」
「七夕の宴の時に、貴妃様と何を話したい?」
一拍の間。
コウは、何度か
「なんでそんなこと聞くんだ?」
う、と花音は言葉に詰まる。
「そ、それは」
尚玲に、このことは内密に、と言われた。
(それに……紅や藍悠様に知られたら、夏妃様が嫌な思いをなさるわ)
藍悠皇子や紅は、夏妃にとっては未来の夫。
そんな大事な人に、勉学が嫌いで教養がなく、故に司書女官から選書してもらうのだと知られたら。
(きっと、夏妃様が傷付くわ……)
あの自分より年下の、人形のように愛らしい貴妃が傷付いて泣くところを想像するだけで、花音はつらくなる。
「おい、花音。聞いてるか?」
「あ……」
「なんでおまえが七夕の宴のことを気にする?」
紅はじっと花音を見る。
その熱のこもった視線に、花音の心臓はなぜか再び高鳴る。
早くなる鼓動を打ち消すように花音は明るく笑った。
「ほらっ、ええっと七夕仮装大会?っていうのが、あたしたち下々の者には開催してもらえるみたいなんだけど」
「……ああ、そういえばやっているな、毎年。泰平門前広場で」
「そうっ、それ! それでね、その……そういう場所でどんな会話したらいいのかなって、思って」
「それでなんで七夕の宴なんだよ」
なぜか紅の声が不機嫌そうに低くなる。
「ええっとそれは……ほらっ、紅は皇子様、だから、七夕の宴を貴妃様たちとお楽しみになるでしょ、そういうとき、どんな話をしてるのかな、って参考にさせてもらおうかと……」
だんだん紅の顔が険しくなる。
(ひええ、なんで? なんかこわい!)
紅の表情の険しさに、花音はあわててしまって口がすべっていく。
「ええと、ほら、男女が仲良くなるために会話が弾むにはどうしたらいいのかなって、ええと……そりゃあたしと紅では住んでいる世界が違うから聞いても仕方ないかもしれなくてええっと、いや、ううん……」
なんとか紅の表情を元通りにしたくて言い募るが、逆に紅の表情は水も凍り付くような冷気を発し始めている。
「なんだよ、それ」
さっきまでの輝くような笑顔はどこへやら、地獄の魔王のような冷え冷えした表情になった。
「住む世界が違うってどういうことだよ」
「いや、あの」
「行くのか、七夕仮装大会」
「え? あ、う、うん」
特に行く気はないが、話の流れからして行くというしかない。
「あの男と行くのか」
花音は目をしばたいた。
「あの男?」
「その、十五衛の兵士。幼馴染の。簾とかいう」
「はあ?! なんでそうなるの?!」
「幼馴染だもんな。抱き合うくらいだから、仲いいんだろ」
そのトゲのある言い方に花音はムッとした。
「なによそれ……あれはなんでもないって言ったでしょ! だいたいそんなこと、紅に言われる筋合いないわ!」
簾とは、ただ再会を喜び合っただけだ。
この広い皇宮で、偶然同郷の者と再会した喜びを。
それをこんなふうに嫌な言い方をされるなんて。
「ああそうか。そうだな。だったらオレが七夕の宴で貴妃と何を話そうがおまえには関係ないな」
「なっ……」
「住む世界も違うしな」
「……!」
水筒を卓子の上に置く音が、カツン、と冷たく響いた。
「楽しんでこいよ、七夕仮装大会」
低く呟いて、紅は事務室を出ていってしまった。
「なんで……」
言葉が出てこなくて、花音は呆然と紅の座っていた場所を見つめる。
住む世界が違う。
そんなことはわかっている。
けれど、紅の口から言われた瞬間、胸が張り裂けそうに痛んだ。
息が苦しくて――花音は思わず胸元を押さえる。
(仕事だから……)
花音にはわからない雲の上の世界の会話。その会話のネタ作りが仕事だから、紅に意見を聞きたかっただけなのに。
自分と紅の間にある、どうしようもない隔たりが浮き彫りになってしまったことに、地面が落ちるような錯覚を覚える。
(……こんなこと話したかったんじゃないのにな)
今度、紅と会えたら。
伯言の目を盗んでわずかな時間で読んだ本の話。
後宮厨の尚食女官たちに本を配達している話。
三葉が作ってくれる軽食の話。
後宮の季節の移り変わりの美しさ。
大規模な後宮の更衣に驚いたこと。
蔡尚書の部屋のこと。
他にも、たくさん、たくさん。
紅に、したい話がたくさんあったのに。
「なんでこんなことになっちゃったんだろ……」
ほとんどからっぽになった籠を抱えて、花音はとぼとぼと女官寮へ帰った。
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