第九話 紅壮の訪問
あの『隠し扉』を含め、壁も書架になっており、更に、
それらの間を歩きながら、花音はうんうん唸っていた。
「うーん、勉強嫌いの人に読んでもらえる教養の付く本。そんな本あるかしら……」
皇子殿下とのご歓談に、と尚玲は言った。
「つまり、藍悠様や……紅と、会話が弾めばいいってことよね?」
花音は思いめぐらせる。
花音と一緒にいる時の二人は、ごくごく普通の会話をしているように思えた。
「でも……藍悠様も紅も、かなり博識なことは間違いないわよね」
藍悠皇子は言わずもがな、紅もああ見えてかなりの読書家らしい。伯言が、紅はもうずっと前から華月堂を憩いの場としていた、と言っていた。
「そんな二人と弾む会話って言ってもなあ……そもそも夏妃様が勉強嫌いなんだからネタが――」
そこまで言って花音はハッとした。
「そうだ! 夏妃様に聞けばいいじゃない」
勉強は嫌いでも、何か興味のあること。音楽や楽器、詩歌など、貴妃として入内している以上、学問以外にもさまざまなことを身に付けているはずだし、その中で夏妃が最も関心を持っていることを話題にすればいい。
明日、尚玲に夏妃への御目通りをお願いしよう。
「そうと決まれば、今日はもう帰ろうっと」
夜食用にもらった
花音はうきうきと幾何学模様の扉を開けた――とたん。
「きゃ?!」
「おっと」
扉の向こうから来た人物とぶつかり、ふわ、と風が起こる。瑞々しい若葉のような芳香が上がる。
月白の着流した袍に、香に合った涼し気な青緑の紗上衣を羽織って、艶やかな黒髪を無造作に括った立ち姿。
「紅!」
思わず顔がほころんだ花音だが、しかし、瞬時に笑みが固まる。
紅の、超絶不機嫌そうな顔に。
「やっと見つけた」
そう言って、ずい、と紅に顔を覗きこまれ、花音は押されるように華月堂の中へ戻される。
変わらず端麗な顔はなぜか険しい。
というか、ぜったい怒っている。
「あ、あの……何かしたっけ? あたし?」
おそるおそる聞くと、紅は紫水晶の双眸を細めて軽く花音を睨んだ。
「何かというか、あの男は誰だ」
「あの男?」
「おまえが白昼堂々、泰平門前広場で抱き合っていた禁軍十五衛の兵士だ!」
きょとん、とした花音はすぐに合点がいって見る間に顔が熱くなる。
「もーうっ、藍悠様も紅も勘違いしすぎ! 簾はただの幼馴染なんだってば!」
「簾? 幼なじみ?」
「林簾。実家の隣の三男坊で、小さい頃からの幼馴染なのっ」
「なんでそんな奴が皇宮にいるんだ!」
「なんでって、禁軍十五衛に採用されたからでしょうが!」
今度は紅が一瞬きょとんとした後、きまり悪そうに咳ばらいをした。
「む、し、しかし、皇城だけでなく後宮周辺の警備も担当する十五衛の兵士が女官とあんな場所でいちゃつくのは断じて許せん」
「いちゃついてないっ、あれは久しぶりの再会を喜ぶ挨拶なのっ」
「そう、なのか?」
「それ以外何があるっていうのよ、まったく」
花音は腕を組んでぷい、とそっぽを向いた。
「……いい匂い」
「へ?」
紅が花音の周りをくんくん犬のように嗅ぎまわる。
「ちょ、な、なによっ」
「なんかいい匂いがする」
「は?! 気のせいだってば!」
いい匂いなのは紅だ。紅がそばで動くたびに爽やかな香りがふわりと立ち昇り、胸の辺りがきゅんとする。
「ねえ、あの」
「……これだ!」
紅が花音の腕をつかんだ。
籠を下げている腕を。
花音は目をしばたき、ああ、と微笑んだ。
「馬來糕が入ってるの。仕事しながら食べようと思ったんだけど、もう今日は帰ろうかなって――」
「なに?! オレにもくれ、馬來糕。好きなんだ」
◇
「うまい!」
紅はうれしそうに馬來糕をほおばった。
黄色いおひさまの欠片のようなお菓子が、次々と紅の口の中へ消えていく。
「ねえ、ちょっと……あたしの夜食なんだけど」
「いいだろ、たくさんあるんだし」
「あたしの夜食……」
「まさか全部食べるつもりだったのか?」
「…………」
「ウソだろ? こんなにあるんだぞ?!」
「……食べれるもん」
「大丈夫か? 太るぞ?」
紅は本気で心配そうに眉をひそめる。
「失礼ねっ。もうおしまいっ」
花音は籠を卓子から強制撤去して胸に抱えた。
「あ、まだ食べたかったのに」
「太るわよ」
「オレ、甘い物も酒も好きだけど、あんまり太らないんだよな」
「~~~~~~~っ!!」
(そんなの見りゃわかるわよっ)
細いのに鍛えらえた身体には、無駄な脂肪など一片も付いていない。おまけに麗しいほどに整った顔は男性なのに小顔。
異性ながら、羨ましいを通り越してもはや尊い。
「はあ……いいなあ」
呟いた花音を見て、紅はふ、と微笑んで立ち上がった。
「最後のいっこ、くれ」
「!!!」
後ろから花音に腕を回し、紅は花音が抱える籠から馬來糕を一つとって口に入れた。
「な……」
後ろから抱きしめられたような格好になっている。
紅の体温が、首筋に伝わってくる。
ふわり、と鼻をくすぐった若葉の香りに、花音は文字通り身動きできなくなってしまった。
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