第八話 藍悠の訪問


 華月堂に戻ってくると、扉に「閉堂」の札が掛かっていた。


「まだ終業には早いはずだけど?」


 首を傾げて事務室に行くと、伯言と――藍錦の袍姿と、その脇にひっそりと控える黒装束姿が見えた。


「藍悠様?!」


 花音が事務室に入ると伯言が睨んできた。


「おっそいわよ、花音!」

「あー……ははは、爽夏殿でちょっとお話が長引きまして」

「爽夏殿からは白司書をお返ししましたって遣いがきたわよ。そんでもってあんた、口に黄色いカスが付いてるけど」

「えっ」


 花音はあわてて手拭で口元を拭う。これでもかというほど口元はきれいにしてきたはずなのに。


「はあ……おもしろいほど引っかかるわねえ」

 にやにやする伯言に、花音はハッとした。


「だ、だましましたね?!」

「なによう、上司に隠れて後宮厨でオヤツ食べてくるのが悪いんでしょ」


 う、と言葉に詰まる。事実なので、言い返せない。


「す、すいません……」

「ま、あたしはいいとして、藍悠様はお忙しいのにずっと待っていたのよ?」


 花音はあわてて長椅子の貴人に揖礼ゆうれいする。


「申し訳ございません!」

「久しぶりだね、花音。元気だった?」


 藍悠皇子を見かけるのは『花草子』の一件以来だ。


『花草子』を神龍にお返しするため、帝から神事の詔勅を賜る手続きやら礼部祠部司れいぶしぶつかさと打ち合わせ及び神火の儀式そのものやら。

 あの一件の後、双子の皇子はこのひと月近く、他の公務もこなしつつその対応に忙殺されていると伯言に聞いていた。


「はい、殿下にもお変わりなく――」

 言いかけた花音の手を、大きな手がそっと握る。

「ひどいな。ちょっと合わないうちにもう約束を忘れちゃった?」

「約束……」

「名前で呼んでっていう約束。思い出させてあげようか?」


 そう言って藍悠皇子は、藍錦の胸を開いて花音を抱きしめようとする。花音はあわてて後じさった。


「覚えてますっ、覚えてますよ藍悠様!」

 藍悠がくすくすと笑った。

「思い出してくれてうれしけど、そんなに拒まれるとちょっと傷付くな……」

「え、あのっ、拒むとかそういうわけでは」

「あの男とは抱擁していたのに」


 ねたように藍悠皇子が言うと、伯言がそこに食いついた。


「抱擁? 聞き捨てなりませんな。あの男とは、紅壮様ですか?」

「違うよ。禁軍十五衛の衛兵だ」


(なっ、なんでそのことを?!)


 花音は顔が一気に熱くなった。


「んまっ、なんですって?! 花音っ、あたしはあんたをそんな風に育てた覚えはなくってよ!」

「いえだから違うんですっ、誤解ですっ」


 藍悠皇子の端麗な顔が切なく微笑む。花音の手を握る手に力が入った。


「僕もあんな風に花音に抱きしめられたい……」

「花音っ、どういうことなの?!」


 おかしな方向から同時に責められ、花音は耐えられず叫んだ。


「あれは幼馴染おさななじみなんですってば!!」





「同郷の幼馴染が、禁軍十五衛にねえ」


 ジト目の伯言に花音は必死に訴える。


「ほんとなんですってば!」

「ふうん、すごい偶然よねえ」

「あたしもびっくりしたんですよ。簾もびっくりしてたし……」

「簾?」


 藍悠皇子が眉を上げた。


「はい、林簾っていうんです。実家のお隣の三男坊で」

「ふうん、僕のことはちょっと会わないだけですぐによそよそしく敬称なのに、簾、って呼び捨てなんだ……」

「いやあの、ですから幼馴染なので……」


 困り果てて花音が言うと、藍悠皇子は笑った。


「ごめんごめん、花音を困らせに来たんじゃないんだ。彼が何者なのか確認したかっただけ」

 花音はきょとん、とする。

「え? そんなことのために、こちらへ寄ってくださったんですか?」

「そんなこと、じゃないよ。僕にとっては一大事だ」

「……藍悠様はこのままでは気になって何も手に付かない、東宮に帰れないと仰って。公務を一つ取りやめてこちらへ参りました」


 飛燕の鉄面皮に、珍しく困った色が見えた。

(よほど困ったんだろうな、飛燕さん……)


「でも、同郷というのも珍しいけど、この広い皇宮で出会えるっていうのがすごい偶然ですごいよね」

「まあ、すごいっていうか、簾って昔からそうなんです」

 花音は苦笑する。

「あたしがどこにいてもフラっと現れるんですよ、もう……」


 簾に助けられたというより、完全にこども同然にお守りをされた数々の恥ずかしい黒歴史が脳裏を巡り、恥ずかしさに溜息が出る。


 なので、花音は気付かなかった。


 伯言が呆れたように花音を見ているのと、藍悠皇子の紫水晶の双眸に嫉妬の火が宿ったのを。





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