第十三話 水明殿にて ~紅壮の思考


「――という流れです。今日の予定のご報告は以上です。紅壮様?」

「ああ、聞いてる。わかった」


 本当は聞いていなかった。

 というか、頭に入ってこなかった。


 水明殿の露台で朝食の後のお茶を飲み、柊から今日の予定の流れを聞く。

『花草子』の一件で玉座と向き合うと決めて以来、日常となった風景だが、今朝の紅壮はどこか上の空だった。


「紅壮様、体調がお悪いようでしたら、午前の予定を変更いたしますが」

「いや、いい。大丈夫だ」


 氷の美女のおもてに珍しく心配の色が浮かぶが、紅壮はそのまま立ち上がり着替えるために室内へ入る。


(七夕仮装大会か)


 皇城から後宮まで、この宝珠皇宮に仕える者たち皆が楽しみにしている行事だというのは知っている。


 泰平門前広場が色とりどりの紙灯籠かみとうろうや、短冊たんざくがすずなりの笹の木で埋め尽くされる。その合間に、七夕料理の載った円卓が並ぶ。

 いつもの広場がまるで別の場所のようになっていく様子が不思議に楽しくて、お忍びでよく見に行った。

 暗くなると紙灯籠に火が入り、幻想的な明かりの中、楽しそうなさざめきが絶えない。東宮の侍官や後宮の女官たちが軽めの仮装をし、楽しそうにしているのを見て、自分もいつかこの仮装大会に参加したいと思った。


 参加して、願い事を短冊に書いて、天界の織姫と牽牛に祈るのだと。


 幼い頃の話だ。

 星に願えば、なんでも叶うと信じていた幼い頃の。


 今では、七夕というのは子どもの無邪気な行事とは別の面を持つこともわかっている。

  それを知ってから、七夕仮装大会を見に行くことがなくなった。


 龍昇国の年頃の男女にとっては、七夕は特別な日。

 花音もそれはわかっていると思うのだが。


(あいつ、鈍感の天然だからな)

『花草子』の一件でわかっていた。花音は周囲には気が回るくせに、自分のこととなるとあまりにザツな対応になる。

 見ているこちらがハラハラするほどに。


「だから放っておけないんだよ」


 紅壮は泰平門前広場での光景を思い浮かべて苦笑する。

 花音はただの幼馴染だと言っていたが、林簾とかいうあの十五衛の兵士には別の想いがある可能性が大いにある。

 再会を喜んだついでに、七夕仮装大会に誘いたいかもしれない。遠回しに誘ったかもしれない。花音が気付いていないだけで。


(でも、そうか)


 だとすると、花音が紅に七夕の宴のことを参考に、と聞いてくるのは不自然だ。

 林簾から七夕仮装大会に誘われていたとしても特別なことと思っていない可能性が高いし、特別だと思っていたら立場の同じ女官に相談するのではないだろうか。

 しかし、ではなぜ七夕の宴のことなど聞いてきたのだろうか。


「あいつ、一体何が言いたかったんだ」


 紅壮は憮然ぶぜんと呟く。

 せっかく久しぶりに会ったから、一緒に本の話をしたかったのに。


『花草子』を天へ帰す儀式の後からずっと、忙しい合間を縫って読書はしていた。

 華月堂はもちろん、外の蔵書楼に行く時間もなかったから、東宮の蔵書や取り寄せた本を読んでいて、花音にその話をしたかったのに。


「……そういえば」


 仕事を手伝う、と紅壮が言った後だった。花音が七夕の宴のことを「教えてほしい」と言ったのは。


「仕事か!」

 それで七夕の宴のことを聞いてきたのなら、辻褄が合う。

「四季殿から何かの仕事を依頼されたか」


 七夕の宴に関係した依頼なら、紅壮に言えないこともあるかもしれない。

 思い返してみると、何かを隠している様子にも見えた。


「そういうことかよ……男女の仲を深める会話の参考に、とかややこしいこと言うなっつうの」

 花音の言葉につい、ムッとしてしまった。

「てか、あいつ間が悪すぎ。あんな場面を見せつけられた後じゃ、あいつとなんかあるって勘違いされて当然だろうが」

 まさか四季殿からの仕事だとは思わない。


「だが……」

 四季殿が華月堂の司書女官に頼む仕事とは、一体何なのか。


「――本か。貴妃と何を話したいか、とか言ってたな」


 大方、四季殿のいずれの女官長あたりが気を回したのだろう。

 七夕の宴で双子の皇子のどちらかの目に留まるよう、話が盛り上がるような話題を見つけるための本を探してほしいとでも言われたのだろう。

 七夕の宴がいわゆる「皇族と貴妃の距離を縮める対面の場」だというのは紅壮も承知している。


「そうすると……爽夏殿か」


 今いる貴妃、三人のことを思い浮かべたとき、紅壮の目から見て最も女官長が気をもみそうなのは夏妃・宋華憐だ。


 南方三州を掌握する武門の名家、宋家。その末の娘が宋華憐だ。

 禁軍大将軍の父・宋祥が目に入れてもいたくないほど可愛がっているというだけあり、その美貌は相当なものだ。


 しかし入内してきた時の挨拶の様子、その後見かけたときの印象、どれを取ってもほとんど何も思い出せない。


 宋華憐とは、そういう貴妃だった。


 紅壮にとっては、それは美しい女人が気になるというのではなく、何か得体の知れない化物に対する不気味さのような感情に近かった。

 それ以上知りたいとも思わないし、美貌には最初から興味が無い。


「だが、花音が絡んでいるなら話は別だ」

 花音を悩ませているのが夏妃のことならば知りたい。


「花音が七夕の宴に際して爽夏殿に仕事を依頼されたのだとしたら、厄介なことを押しつけられたにちがいないからな」


 それを一人で抱えているのであろう子猫のような姿を脳裏に浮かべ、紅壮は舌打ちした。


「ったく、もっと頼ればいいのに」

 花音は、何か理由があってあんな遠回しな言い方をしたのだろう。それを思うと切ないが、もっと自分を頼ってほしいという勝手な願いもある。


「よし、決めた」

 宋家が送りこんできた得体の知れない化物・宋華憐のことを調べる良い機会でもある――紅壮は即決した。


「柊」

「はい」


 着替えを手伝っていた柊が顔を上げた。皇城に行くため、紅紗こうしゃの袍の帯を締めていたところだった。


「午後の予定の変更は可能か。衣装の変更も」

 すると氷の美女は軽く咳ばらいをした。

「今日は午後は予定がございません」

「そ、そうか」


 聞いていなかったのか、と軽く無言の圧をかけ、柊は衣裳の掛かった棚から、灰青はいあおの洒落た袍を持ってきた。


「こちらの新しく織りあがった袍、これならば皇城でも内廷でもよろしいかと――」

「すまない、柊。いつもの宦官の袍でいい」

「宦官の袍、でございますか」

 柊は弧を描く眉を軽く上げた。

「どちらへ行かれるのでしょうか」

「爽夏殿だ」


 柊の顔色が一気に変わった。常に冷静なこの側近には珍しく、やや興奮気味に早口で言う。

「それでしたらやはりこの灰青の袍がよろしいかと。御渡りになるのにいくら気楽でも宦官の袍というわけには――」

 しかし、紅壮は首を振った。

「いや、正確には夏妃に会いにいくわけじゃない。爽夏殿でちょっと調べたいことがある」


 

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