第六話 爽夏殿の憂鬱な午後 


「……というわけで、あんたには夏妃様の選書係として爽夏そうか殿へ出向しゅっこうしてもらうわ」


 花音は飲んでいた食後のお茶を吹きそうになった。


「ちょっと待ってください! どういうわけでそうなるのか全然わかりませんけど!」


 伯言は上品にお茶をすすりあげ、しれっと言った。


「夏妃様の選書係を探しているらしいの。そこであんたに白羽の矢が立ったってわけね」

「……わけね、って言われてましても。意味がわかりません。なんであたしなんですか? 貴妃様にはそれこそ、最高の老師ろうしが付いているんじゃないんですか? その方が選書も担当すべきでは」

「すごいわぁ花音、正論じゃなーい」


 伯言はわざとらしく目を丸くして、でもね、と言った。


「尚玲ちゃんがあんたを御指名なのよ」

「しょうれいちゃん……誰ですか、それ」

「爽夏殿の女官長よ」

「女官長?!」


 なんだってそんな高位の女官が伯言に泣きつくのだろうか。


(嫌な予感しかしない……)


 花音の不安をよそに、伯言はにっこりと微笑んだ。


「尚玲ちゃんに逆らうなんて、あたしにはコワくてできないわぁ。午後に爽夏殿へ行かせるって伝えちゃったから、とりあえずお会いしてきてちょうだい」





「勝手に約束をしないでほしいわっ、伯言様め……」


 花音は爽夏殿の玄関先で大きく息を吐いた。



 四季殿の中で華月堂に最も近い爽夏殿は、大輪の花が咲き乱れる華やかな殿舎だ。


 敷地に入った途端、賑やかなほどに大輪の石楠花シャクナゲ薔薇バラ芍薬シャクヤクなどがみっしりと咲き乱れ、門から玄関までの道は花でできた隧道のようだ。


 立っているだけでうきうきした気分になるような玄関先で、花音は胃を押さえた。


「ううっ胃が痛い……どうやって断れっていうのよあの鬼上司っ」


 そもそも伯言が怖がっている女官に、自分ごときがいなと言えるはずもない。

 

「やっぱり伯言様に文を出してもらおう。そうよ、そうしよう」


 回れ右しようとした花音を、よく通る威厳ある声が引き留めた。


「おおっ、もしや白司書ではないか?」


 おそるおそる振り返ると、複数の女官を引き連れた年嵩の女官が嬉しそうに玄関から出てきた。


「よう来てくださった。私は爽夏殿女官長、尚玲じゃ」

「は、はい……華月堂司書女官、白花音でございます」


 とりあえず挨拶をすると、尚玲はがっしりと花音の手を握った。


「先日の花祭りでは遠目であったが、近くで見るほうがより可愛らしいのう。まるで子猫のようじゃ。これならば夏妃様も今度こそ安心して勉学に励むであろう」

「あ、いえ、その……」

「そなたたち、茶の支度を。ささ、白司書、こちらへ」


 まったく花音に口をはさむ余地はなく、言われるままに爽夏殿の中へ手を引かれる。


(あの伯言様が怖がるのもわかるような気がする……)

 このゴリ押し感。伯言とは似て非なる強引さを感じる。


 回廊のところどころに飾られた花も、のきから下がる飾り燈籠とうろうも、室の窓や開け放した広間に下がる花模様の布帛ふはくも、普段であればうっとりするほど華やかな殿舎だが、今の花音はそれどころではない。


(どうやって断ったらいいのよーっ)


 応接室に通されていよいよ逃げられなくなった花音は、内心頭を抱えた。


「白司書、そう硬くならずともよい。改めて、私は爽夏殿女官長、尚玲と申す」

「華月堂の司書女官、白花音でございます。御目通りできまして、光栄にございます」


 用意していた言葉を述べてから、顔を上げる。

 五十がらみの、あまり化粧気のない女官だ。目尻に刻まれた深い皺が厳格な印象を与えた。痩せているが、骨格がしっかりしている。


「お忙しい御身、仕事にさわりなきよう端的に申す。――夏妃様に、本を選んでいただきたいのじゃ」

(き、きたーっ)


 花音はなんとか笑みを作った。


「私にはもったいない御申し出で、身のすくむ思いがいたします」

「では引き受けてくれるな?」

「あっ、いえっ、その……私めなどよりも、もっと優秀で適任な御方がこの後宮にはおられるかと……」


 やんわりと辞意を伝えたつもりだった――が。

 尚玲の表情が固まった。


(ど、どうしよう怒らせた??)


 室に沈黙が下りる。数人の女官が静かに入ってきて、卓子に芳香漂う茶を置いてまた出ていった。


 金細工の施された美しい茶器を眺めつつ、花音がだくだくと冷や汗をかくことしばし。


夏妃かひ……宋華憐そうかれん様のことは存じておろうか?」

 尚玲が、ゆっくりと言葉を選ぶように言った。


「は、はいっ、もちろんでございます!」


 宋家は、花音の故郷予州を含む南方三州を掌握する、武門の名家であり、宋本家当主・宋祥そうしょうは、禁軍大将軍の地位にある。

 宋家の姫君が四季殿に入内したという話は、非常にめでたい話として実家のある鹿河村のような小さな村にも伝わっていた。


「では、もちろん聞き及んでおろうな」

「は?」

 この厳格そうな女官長が何を言い出すのかと花音が手に汗を握っていると、

「夏妃様が、たいへんな美少女だということを」

「……へ?」


 尚玲の厳しい顔が一転。

 満面の笑みになったかと思うと、延々えんえんと自慢話が始まった。


 夏妃・宋華憐がいかに美しいか、という自慢である。


(こ、この人は……)

 目の中に入れても痛くない孫の話をする、おばあさんのようである。

 さっきまでの厳しい表情はどこへやら、顔がゆるみまくっている。


(確かにすごい美少女だった……けど)


 清秋せいしゅう殿のお茶会を思い出す。陽玉から十四歳だと聞いて驚いたし、その美しさにも驚いたが、あまり印象が残っていなかった。

 たぶん、夏妃かひが一言もしゃべってなかったからだ。

 脇にいた女官――おそらく尚玲――が貴妃たちと会話するだけで、夏妃は一切、言葉を発していなかった。


 尚玲は、宋華憐の美しさは月も星も花もすべてが霞むほどだと言ったあと、


「大きな声では言えぬが、皇子殿下がたの間で、華憐様をめぐっての争いになるのではと憂いておる」

 とまで言い放った。


「そ、それは……南方出身の者として、喜ばしいことです。夏妃様のますますの御栄華を祈るばかりでございます」

 社交辞令を述べるしかない花音に尚玲は満足そうに頷いたのち、急に声をひそめた。


「しかし……なにぶん、四季殿の他の妃と比べて、華憐様は幼い」

「左様でございますか……って、はい?」


 尚玲はずいと身を乗り出し、花音に手招きをする。卓子を挟んで、尚玲と顔を突き合わせると、ひそひそと花音に囁いた。


「そなたも存じておろうが、七夕の宴が近い」

「は、はあ」


 存じてはいないが、とりあえず相槌あいづちを打つ。


「そこで、だ。他の妃に引けを取らぬように華憐様におかれては教養を多く身に付けていただきたい。そなたに、短期間であらゆる教養が身に付く本を選んでほしい」


(そんな神業かみわざみたいな本があるかーっ)


 と内心叫びつつ、花音は引きつる顔でなんとか微笑んだ。


「あの、ですから、そのような大役、とても私には――」

「もちろん!私共もいろいろと試みた!」


 突然叫んだ尚玲に、花音は思わず身を引く。


「専属老師ろうしも日々熱心に華憐様に講義をしてきた! しかし結果ははかばかしくない!」

「は、はあ」

「そこで、皇城で才女と名高い範麗耀礼部次官にお越しいただき、手ほどきをお願いした! だが、勉学はおろか、いまだ華憐様は範次官と打ち解けておらぬ……」


(もしかして、このことだったの?!)


 範麗耀のちんちくりん発言を思い出す。

 おそらく知っていたのだ、範麗耀は。花音が爽夏殿へ召されることを。


 尚玲の声が再び低くなった。

 

「簡単に言ってしまうと、実はその……華憐様は勉学にまったく興味がおありにならない」

「な、なるほど……って、ええ?!」


 衝撃的発言に、花音は意を決した。

(本人にやる気がなきゃ無理でしょ!)

 これは到底、引き受けられる話ではない。


「そ、それでしたらやはり! 私ごときに夏妃様の御気に入る本を御薦めできるとは思えませんので、どうか――」


 突然、尚玲が立ち上がった。卓子を回りこんで、ぎょっとした花音の隣に座り、肩をがっしりとつかまれる。


(ひえええ! こ、怖いっ)

 逃がさじ、という剣幕で尚玲は花音を覗きこんだ。


「先日の花祭りでの一件、見事であった」

「お、恐れ入ります」

「それから噂を聞いた。華月堂に、その者の好みの本をぴたりと当てて配達してくれる司書女官がいると。そなたであろう?」

「そ、それは……」

「頼む。老師も範次官も手を焼いていて、勉学以前の問題なのじゃ。まずはそなたが夏妃様のお気に召す本を選定し、持参してはくれぬか。なんとしても七夕の宴までに皇子殿下と御歓談ごかんだんするに足りる教養を身に付けていただかなくてはならぬ。同じ南方のよしみでぜひ、宋家のために一肌抜いでくれぬかっ」


 花音の肩を持つ骨ばった手に力がこもる。


 これは逃げられない――。


 蛇に睨まれた蛙のように、花音はただカクカクと頷くしかなかった。

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