第五話 工部尚書、蔡水木

 思わぬ事件と再会に複雑な心境になりつつも、花音は皇城をかけ回って本の返却を着々とこなした。


 伯言に昼餉を持って帰らねばならないため、遅れるわけにはいかない。


「これえっ、文殿の回廊を走ってはいかーん!」

「ひぇえええ、す、すみませーん!!」


 時折、すれちがう老官吏に叱責されつつも立ち止まるわけにはいかないので、ひょこひょこと奇異なお辞儀をして走り去る。


「あとは……工部へ行って、本の返却と、蔡尚書にお会いしないと」


 花音は最終目的地、匠殿の工部へ向かった。



 蔡水木は尚書、花音のような下級官吏には畏れ多い。

 が、「鳳次官の使いで来ました」というとすぐに尚書執務室に通された。


「うわあ……すごい」


 その室は、花音が見たことのある皇宮のどんな部屋とも違っていた。


 四角く切った天井からは、玻璃はりを通してさんさんと陽が降り注ぐ。

 執務卓の後ろにも大きな玻璃の窓があるため、部屋中が書架や雑多な部品類で埋まっていても、暗さや圧迫感を感じない。


 石や紙などの素材から書類まで種々雑多しゅしゅざったな物が積み上がった執務卓は、まるで要塞。戦場を思わせる。

 その片隅に、硯と筆、煙管道具がその場所だけぽっかりと独立したように置いてある。

 どことなく、懐かしい匂いのする部屋だった。


 部屋は持ち主を語るという。

 この複雑怪奇にして斬新、それでいて懐かしい匂いのする居心地のよい空間が、蔡水木その人を物語っていると思うと、花音の緊張も少しほぐれた。

――と思った矢先。


「なんだい、独り言かい?すまないねえ、退屈させてしまって」

「ひゃ?!」


 いきなり執務卓の脇にある扉が開いたので花音は椅子から滑り落ちそうになった。

 扉というか、何か倉庫の戸だと思っていた場所から作業着姿の女性がひょっこり顔を出したのだ。


(誰???)


 蔡尚書の部下かと思いきや、女性は化粧っ気のない顔を手拭で拭きながら花音の正面に座った。

 色素の薄い髪を簡単に一つのたぶさに結い、そこに一粒、不思議な光を放つ玉の付いたかんざしを差している。大きな瞳にそばかすの散った顔は、美人というより愛らしい。


「ちょっと作業に参加してたもんでね。遣いを出せって言っときながら待たせて申し訳ない」

「あの、まさか……」

「あたしが工部尚書、蔡水木だ」

 花音はあわてて頭を下げた。

「お仕事中すいません!あたし、華月堂の司書女官を拝命しました、白花音と申します!」


 すると女性は豪快に笑った。


「あんたが噂の呪本の謎を解き明かしたっていう新人か!」

「は、はあ……」

「長年、後宮の中にくすぶっていた火種を見つけ出して、後顧こうこの憂いを断ったと聞いた。新人司書にしちゃあやるじゃないか。たいしたもんだ」

 蔡尚書の賞賛に、花音は身を固くした。


「いえ……司書として――力及ばずでした」


 その花音の様子に蔡尚書の笑いが止まる。


「いろいろな事情があったにせよ、司書として本を本の形で残せなかったのは、あたしの力不足です」

「……ふうん?」

「あたしが司書としてもっと力があったなら、『花草子』を違う形で後世に残せたかもしれないんです」


 蔡尚書はいきいきと輝く色素の薄い瞳で、遠慮なく花音を観察した。


「……悔やんでいるか?」

「今の自分の最善を尽くしたと思っていますが、悔いが残っていないと言ったら……嘘になります」


 蔡尚書は腕を組み、大きく頷いた。

「そうか。ならば、まずは目の前の仕事をしようか?前へ進みたいなら、後悔よりも行動だ」


 言われて花音はハッとする。

(そうだ、工部への返却本!)

 蔡尚書の言う通りだった。後悔は何も生まない。


(悔やむヒマがあったら仕事仕事!)


 花音は気合を入れ直し、平包から大判の本をそうっと取り出し、応接卓の上に置いた。


「貴重な資料をありがとうございました。龍王朝初期から残る陶器の写実絵は珍しいので、貴妃様たちからも好評だったと聞きました」


 すると蔡尚書は軽く目を見開いた後、卓子に身を乘りだした。


「あんた、なんでこれが龍王朝初期の写実絵集だってわかったんだい」

「え……?」

(なんでって言われても見たままだし……けどそのまま伝えるのもなんだかなあ)

 花音はたじろぎながらも答えた。

「ええっと、紹介文が龍昇国古語ですし。こういう美術関連の本で紹介文や説明が龍昇国古語なのは王朝初期から中期までなんです。それに、絵の中に使われている鮮やかな青は、龍王朝初期に晶峰山で発見された鉱物特有のものだったはず、なので……」

「……正解だ」


 なぜか嬉しそうに言って、蔡尚書は給仕された茶を美味しそうにすすり、花音にも勧めた。


「飲むといい。龍黄茶りゅうきちゃだ」

「ありがとうございます……って、ふわあ!」


 思わず花音は歓声を上げた。

 黄金のような輝きを讃えた茶から上がる芳香は、日当たりのいい花畑のような匂いがする。


「こんな綺麗なお茶、初めて見ました!いただきます!」


 美味しそうに茶をすする花音を、蔡水木の琥珀色の目がじっと見つめる。


「あんた、あの性悪男のところにいるのはもったいないい。工部に来る気はないかい?」

「へ?」


 花音は目をしばたく。


(性悪男って伯言様のことだよね?! あ、あの伯言を性悪男って……蔡尚書って一体……)


「工部でちゃんと働くにはね、礼部や吏部と違って、学問だけできればいいってもんじゃない。物を見る確かな目が必要なんだ。そして、そういう人材は育てるか、天性の才能を持っている者を勧誘するか、どちらかだ」

「は、はあ」

「花祭りの一件を聞いても、あんたは育てがいもありそうだ。才能もある。なんなら、上に掛け合って給金も上げてもらおう。どうだい?」


 狙った獲物は逃がさない――肉食獣のような蔡尚書の眼差しだ。

 だが、花音は怖気ることなく首を横に振った。


「ありがとうございます。身に余る光栄です。でもあたし――本が好きなんです」


 花音はにっこり笑った。


「華月堂の司書女官として、これからもがんばっていこと思ってます」


 蔡尚書は一瞬花音をじっと見つめ、ぷっと噴き出した。


「そうか、本が好きだから、か。ますます気に入ったよ白花音」

「あ、ありがとうございます」


 蔡尚書は立ち上がり、要塞もとい執務卓の様々な物の山から小さな箱を引っ張り出し、花音の目の前で開けた。


「あの性悪男に、これを付けて仕事に励めって言っときな」


 箱の中に入っていたのは、手袋だ。


 伯言が、工部に依頼してあると言っていた、本を扱うときに使う作業用の手袋だろう。

 黒い光沢のある細身の手袋。作業用というより宴会の衣裳という風情だ。


「ったく、見てくれがちょっといいからって、着道楽なんだよ、あいつは。綿でこの光沢を出すのがどれほど大変なことか……あの野郎の耳を引っ張って大声で説明してやりたいくらいだ」


 その姿を想像して花音は思わず笑ってしまった。蔡水木が決まり悪そうに肩をすくめる。


「すまない。心の声がダダ漏れに」

「いえ、いいんです。お気持ち、わかる気がします」


 どうやら、伯言が傍若無人なのは花音に対してだけじゃないらしい。蔡尚書が笑った。


「ふふっ、気も合うねえ。華月堂が嫌になったらいつでも工部にくるといい。歓迎しよう」





 華月堂に戻ると、伯言が事務室の長椅子でダレていた。

「遅かったじゃないぃ、もうお腹が空きすぎて動けないわよう」


(こんのぐうたら鬼上司!!)


 怒りがこみ上げるのを深呼吸でなだめ、花音は青スジを立てつつ微笑んだ。


「……これでもかなり急いで走りましたからっ。後宮厨でも皆さんお忙しいのに急いで用意してくださったんですよっ」


 どん、と蒸籠せいろを応接卓に置くと、点心の匂いがぷあん、と鼻腔をくすぐる。

「んんーいい匂い! 早く食べましょ!いただきまーす」

 伯言はころっと態度を変えていそいそと蒸篭の蓋を開け、きゃあきゃあ言いながら箸を取った。


「伯言様、これ、机の上に置いておきますよ。蔡尚書からです」

 手袋の入った箱を伯言の卓子の上に置くと、伯言はチラ、とその箱に目をやった。


「水木はどうだった?」

「どうって……気さくで、お優しい方ですよね。お茶を出していただきました」

 伯言の美しい眉が片方上がった。

「なんですって?」

「龍黄茶というお茶を。とっても美味しかったですよ。淹れ方がいいのかなあ」

「へえ……」

「そのお茶には及びませんけど、あたしもお茶淹れますね」


 花音は衝立の奥へ入り、茶の準備をする。

 伯言は箸を動かしつつ、一人呟いた。


「あの水木が、龍黄茶をねえ……気に入った者にしか出さないのに。やるじゃない、うちの新人も」

 すると衝立の向こうから声が上がる。

「すいません伯言様、よく聞こえなかったですけど何か言いましたー? お皿足りませんかー?」

「なんでもないわよぉ、お皿じゃなくてお茶早くしてちょうだーい」

「……今、蒸しているところですっ」


 まったく、と衝立の向こうで悪態をつく部下に、伯言はくすりと笑う。


「急いだほうがいいわよぉ~。あんた、午後は爽夏殿に行くことになってるんだから~」

「えっ? なんですか? 午後がどうしたんですか?」


 茶器を持って現れた花音に伯言は片目をつぶった。


「ま、とりあえず食べなさいな。海老焼売、冷めるわよ」









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