落日の嵯峨野 第6話

 一瞬気を取られた那智の腕を青年は引っ張る。

 那智は慌てて現実に意識を向け、走り出した。立ち止まって考えている暇はなかった。だが、この風景に見覚えがあった。

 青年は外廊下の先にある別棟を目指しているようで、背後と周囲を気にしながら廊下を駆けた。

 注意深く周囲を見ながら大広間の上座に差し掛かった時だった。那智は室内で何かが動いた気がし、視線を向け捉えたものに思わず息を呑んだ。

 部屋の壁の一部を墨で塗りつぶしたように黒く、さらに盛り上がっている。盛り上がりから落ちた液体がボタリと変色した畳の上に黒染みを作っていた。染みを広げながら、何かが壁から這い出ようとしている。

 青年も気づき同じように視線を向けたが、反応が違った。掴んでいた腕を那智の腰に回し、抱き上げるとその場から庭へ飛び降りた。

「うわっ!」

 青年の思わぬ行動に思わず那智は小さく声を上げ青年にしがみついた。

 片腕で那智を支え庭に降りると、青年は小さく舌打ちをした。青年の苛立った気配に那智は驚いたが、べちゃりと湿った水音を聞き、はっと顔を上げた。

 二人がいた場所に視線を向ければ、室内から伸びた黒い手が廊下に伸びていた。掴み損ねたように手を握りしめていたが、廊下に手をつくと、今度は膨れ上がり人型を形成していく。骨と皮のような細い体、その中でも両腕が異様に長い。首は安定せず、少し動いただけでグラグラと左右に揺れている。人型を取ろうとして失敗したような有様だ。

 思わず那智は青年の上着を掴んだ。ここまで不気味で悍ましいものを見たことがなかった。

 青年は目の前の怪異を睨んでいたが、不意に右側の廊下を睨みつけた。左手を那智の頭に回すとそのまま引き寄せるように抱きしめる。

 バチン、と何かが弾かれ建物にぶつかる音が間近で聞こえ、那智は体を強張らせた。

 そっと、視線を音のした方に向ければ、翁の能面が壊れた襖の中から起き上がるところだった。先程は面しか認識できなかったが、今は襤褸のような着物を着て実体を伴っている。

「山風をあらしといふらむ」

 静かな青年の言葉とともに、風が駆け抜ける。足元から巻き上げるように駆け抜けたかと思えば、暴風のような風が吹き、二体の怪異を大広間の中へと吹き飛ばした。室内の脆くなった場所を破壊するような暴風に建物が軋む音をたてる。

「ひさかたの雲居にまがふ––」

 青年の言葉が不自然に切れると、びくりと体を強張らせた。

 那智は思わず青年を見上げ、目を見張った。

 真っ青な顔で唇を噛み締めていた。口の中を切ったのか、口の先から血がこぼれる。低い呻き声をこぼすと、がくりと体から力が抜け、その場に膝をついた。苦しそうに胸を押さえ、肩が呼吸に合わせて上下する。

 那智は慌てて今にも倒れそうな青年の体を支えた。すぐに怪我を負ったのかと考え、さっと体を見たが外傷は見当たらない。怪異や靄の影響かと考えたが、それにしては急変過ぎる。

 何かしらの手当てをするにも、ここでは危険すぎる。大広間からは嫌な気配がひしひしと感じるのだ。

 身を隠せる場所はないかと周囲を見回したが、物陰になりそうな場所はない。探しながら移動するしかない、と那智は決めると青年の左腕を首に回し、帯に手をかけた。

「立って、移動する」

 力を込め、立ち上がろうとした瞬間、ぐっと喉を何かに掴まれた。首が締まり、一瞬で体から力が抜ける。

 支えをなくした青年が地面に頽れる。

 首を絞める黒い手を那智は両腕で掴んだ。大広間の中から伸びた手は、徐々に力を込めてくる。那智は息苦しさに爪を立てなんとか剥がそうともがくがまったく歯が立たない。

 のそりと、大広間から翁の能面が出てくる。一歩一歩ゆっくりとした足取りで近づき、廊下から庭へと降りる。

(こんなところで……!)

 生理的な涙で視界が霞む中、近づく怪異を睨みつけた。

 理不尽に一方的に殺されるのを黙って受け入れられるほど大人しい性格ではない。最後まで足掻いて、思いつく限りの方法で戦い、その果てに死ぬのなら諦めもつく。だが、これは到底受け入れられない。

 あの時と同じで、まだ何一つ足掻いてもいなければ戦ってもいない。

 ぐっと、那智は全身に力を入れると吠えるように叫んだ。

「はな、せ!」

 バチリと電気が爆ぜる音が聞こえたかと思えば、黒い手が怯えるように離れた。

 那智は掴んでいた手を振り払い、喉に流れ込んできた酸素に咽ながら青年の上着を掴み、ぐっと引き寄せる。

「こんなところで死ねるか!」

 威嚇するように睨みつけて叫ぶ。

 黒い手は怯えたように大広間の中に引っ込んだが、以前として翁の能面は近づいてきている。

 身構えた瞬間、地を駆けるように風が吹き、竜巻のように捲き上ると那智たちを取り込んだ。桜の香りをかすかに感じるが、見えるのは砂埃だ。視界が失われ、体に浮遊感が訪れたかと思えば一気に落ちていく。

 那智はとっさに青年を抱きしめ目を閉じた。

 そのまま視界は暗闇に閉ざされた。

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