落日の嵯峨野 第5話

 ふと、那智は俯いていた顔を上げ、じっと向かいの壁を見た。

 壁の向こうが気になった。部屋を二つ挟んだ先は那智たちが通ってきた廊下がある。妙に騒つく胸が不安を煽り、言い表せない違和感が大きくなっていく。

 何が気になるのかわからないまま、那智は前を向き続けた。しまいには肌が騒つくような不快感も現れ、思わず両腕を摩った。

「どうかしましたか?」

 那智の異変に気付いた青年が声をかけてきた。

「ちょっと、嫌な感じがして……」

 どう言葉にすればいいかわからず、口を噤んだ時だった。ぞわり、と全身の毛が総毛立つような悪寒が足元から這い上がってきたのだ。思わず那智は正面の壁を見詰め、息を呑んだ。

 廊下から何か来る。ゆっくりと何かを探すように近づいて来る。

 感じた違和感、不快感が危険を知らせてくる。ここにいては危ないと、逃げろと伝えてくる。

 那智は立ち上がると、青年の前に片膝をついた。

「嫌な予感がする。早くここから離れよう」

「予感って、どうしたんですか?」

 訝しむ青年に、那智は困惑しながらも続けた。

「説明できないけど嫌なものが近づいてきてる」

「嫌なもの……」

 言って、青年は少し考え込むように俯いた。数秒、思案するように俯いていたが、何かに気づいたのか驚いた表情を浮かべると慌てて立ち上がった。

「巡回ルートが変わった。気づくのが遅れるなんて! 走れますか?」

「もちろん」

 頷き立ち上がると、静かに部屋の外を伺い、異常がないことを確認してから廊下に出た。

 屋敷の奥を目指すことになり、廊下を一つ曲がった。外から見ても大きな屋敷だと感じたが、実際に中を歩いてみて改めてその大きさに驚かされる。わかるだけでも既に十部屋以上確認できている。広大な屋敷はどこか迷路のように複雑で、似たような廊下ばかりだ。しかも日差しが屋敷内の奥までとどかず、薄暗く不気味だ。場所によっては何かと争った痕が壁や床、襖などに傷として残っている。

 あたりに目を配りながら、那智は前を歩く青年に聞いた。

「あの部屋以外に隠れられる場所はある?」

「いくつかあります。一番近い場所がこの先の廊下を曲がった先ですが……」

 青年は険しい表情で前方を見据え、悔しそうに呟いた。

「駄目ですね。酷く淀んでいる」

「あの靄みたいなの?」

 青年の後ろから廊下の先を見て、那智は怪訝な表情を浮かべた。

 日差しが入り込んでいる廊下なのに黒い靄の様なものが薄っすらと漂い薄暗い。あまりいいものではなく近づくべきではないと直感的に感じた。

 青年は那智の言葉に驚いた表情で訊ねた。

「見えるんですか?」

「黒い靄だけどね」

 那智の返答に青年は何か気になるのか、考え込むそぶりを見せたがすぐに首を小さく横に振った。気を取り直した様子で、前後を確認すると険しい表情を浮かべた。

「戻ってあれと鉢合わせするのは避けたいですね。前に進むにしても、貴女の体にどう影響するかわからない」

「部屋を通り抜けて別の廊下にでることはできない? 日本家屋って襖で部屋を仕切ってることが多かったと思うけど」

「できますが、この近くにはその間取りの部屋はありません。それに、室内で別の怪異と鉢合わせの可能性もあります。明かりがないので暗いですし、かなり危険だと思います」

「なるほど。仮に進んだ場合、どういった影響がでるの?」

「人にもよりますが気分が悪くなったり体が急激に重くなったり様々です」

「あなたには影響はでる?」

「俺は気分が悪くなる程度ですけど……」

 背後を気にしつつ那智が訊ねたことで、青年も気づいたのだろう。

 すっと気配が研ぎ澄まされたのがわかる。場の空気が一気に緊張感を伴い張り詰める。物音一つしない静寂が浸り漂い、息苦しささえ覚えるほどだ。早鐘を打つ心臓が耳の奥で脈打つ。身動ぎすることすら憚れ、息を潜めて呼吸をしなければ自分の呼吸音が響きそうだった。

 キシッ、と床板が軋む音を耳が拾う。那智がたてた音でなければ青年でもない。通ってきた廊下、陽光に垂らされた外廊下の床板に影が落ちる。

 那智は振り返ると青年の腕を掴んだ。

 青年は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに那智の意図に気づき、淀んでいると言った廊下の先に足を踏み入れた。

 躊躇している暇はなかった。身を隠しながら安全な場所に移動できるのが最善だが、それができない以上、現状最も生存率の高い方法を選ぶしかない。

 黒い靄の影響で視界が悪くなり、那智は思わず目を細めた。靄に入った途端、嗅覚がおかしくなりそうな異臭が鼻を突く。重苦しい空気が体にまとわりつき体が重い。重労働を強いられたような息苦しささえ覚えながら、庭に面した回り廊下に出た。

 雨風の影響で劣化した廊下は所々床板が変色し歪んでいる。大広間と思われる部屋も障子や襖が折れ曲り、床の畳は波打っている。庭も本来なら見事な日本庭園だったはずが、今では雑草が多い茂り、池を挟んだ対岸の桜の巨木は幹の中央が裂けるように割れている。本来なら澄んだ水を湛えている池は濁り、異臭は池から漂ってきているようだった。

 思わず那智はその光景に足を止めてしまった。眼前に広がるのは見覚えのない荒れ果てた庭なのに、脳裏には鮮やかに咲き誇り風に揺れる桜の木と澄んだ池の日本庭園が重なる。

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