第19話

 斥候との戦闘が終わって行軍してから約1時間弱。亜人の騎士団員が連隊長を止めた。

 小声で何かを話し、その亜人の騎士団員は鎧の音も立てずにひとりで先に進んでいった。

 そうしてしばらくして戻ってくると、また連隊長に耳打ちした。

 そこから連隊長が伝言ゲームのように学生たちに状況を伝えた。

 どうやらこの先に切り立った崖のようなものがあり、そこに洞穴があったらしい。おそらくコボルトの巣はそこだろうと見当をつけたようだ。

 また伝言ゲームで連隊長の話が学生たちに伝わり、この先の洞穴の近くで火を焚き、その煙でコボルトをおびき出すことにしたらしい。ここの巣のコボルトを全滅させればこの遠征は終了だ。静かにするように伝えられ、亜人の騎士団員が再び音もなく進んでいく。

 またしばらくして亜人の騎士団員が戻ってくると、少し離れたところで煙が上がっているのが見えた。洞穴の入り口で火を焚いて戻ってきたのだろう。

 エルたち学生が固唾を呑んで見守っていると、慌てたコボルトたちが洞穴から出てきた。

「迎え撃て!」

 それを見た連隊長が号令をかけ、学生たちは一斉の魔術の詠唱を始めた。

 事態に気付いたコボルトたちは巣に戻るのもいれば、そのまま素手で突っ込んでくるのもいる。しかし、武器も持っていないコボルトなど、歴戦の騎士団員の足下にも及ばない。おまけに出てくる端から学生たちが魔術で攻撃してくるのだからコボルトたちはほとんど恐慌状態で右往左往している。

 「これじゃ手応えがないな」と思いつつも、エルたちの班も主に風の魔術で攻撃を仕掛け、コボルトたちを倒していく。

 そうこうしているうちにコボルトたちを引き連れて、人間の平均身長くらいはあるコボルトが錆びた剣を持って現れた。おそらくこいつがコボルトロードだろう。人間の使う言葉とは違う奇声にしか聞こえない声で叫ぶと、恐慌状態に陥っていたコボルトたちは冷静さを取り戻したようだ。

 だが、洞穴の入り口近くに騎士団が陣取り、その後ろから学生たちが魔術で攻撃する。

 逃げ場のないコボルトたちは無理な攻撃をしかけてくるばかりで、いくら冷静さを取り戻したと言っても地形の不利を覆すまでには至らない。

 巣にはどれくらいのコボルトがいるのかはわからなかったが、すでに50体近いコボルトが倒され、唯一獅子奮迅の戦いで騎士団員に迫るコボルトロードも、堅牢な騎士団員の盾に阻まれ、為す術がない。

 コボルトロードが一際大きな奇声を上げ、騎士団員たちに突っ込んでくるが騎士団員たちの盾と学生たちの魔術で次第に傷が大きくなっていく。

 所詮コボルトロードと言っても地形の不利などを考えると、とてもではないが学生たちの敵ではない。

 楽勝だと思われたそのとき、エルたちの背後から悲鳴が上がった。

 エルが振り向いてみると、そこには少なく見積もっても40体近いコボルトが後方の学生たちを襲っていた。

 襲撃に出ていた一部隊か、それとも何かの理由で巣から離れていたコボルトの群れかはわからないが、おそらくコボルトロードの声に呼応して戻ってきたのだろう。

 騎士団員たちは洞穴の入り口近くに全員が陣取って防戦に当たっている。今から部隊を分割して後方に人員を割いたとしても、後方に陣取った学生たちの被害は大きくなっていくだろう。

 後方にいた学生たちも亜人の学生は素手やライトセーバーなどの物理攻撃ができる魔術を使って、新たに現れたコボルトたちと戦闘を繰り広げているがいかんせんこちらの亜人の数が少ない。

 後ろからコボルトたちが現れたと知って逆に冷静さを失った学生たちはどうすればいいのかわからず、ただ闇雲に魔術を発動させて魔力を消費していく。

「落ち着くんだ!! 落ち着いて対処すればどうにかなる!! 確実に1匹1匹仕留めるんだ!!」

 そんなとき、ルーファスの檄が飛んだ。

 さすがにこういう状況にあっても冷静さを失っていない。

 だが、このままでは後方にいる学生たちがジリ貧だ。騎士団員たちも部隊を分割して駆けつけようとしているが、ほぼ集団となっている学生たちを迂回して後方のコボルトたちに向かうには時間が足りない。その間にも後方の学生たちはコボルトに襲われ、倒されていく。最悪の場合、死者が出ないとも限らない。

 どうにかして後方のコボルトを学生たちから引き離さないと被害は大きくなる一方だ。

 エルはどうすればこの状況を打破できるかを超高速で考えた。

 今まで生きてきた年齢やこの世界で学んできたこと、魔術の使い方、プログラムの知識と経験。

 それらをとにかく急いで考えてひとつの結論に至った。

 だが、これは魔術の相性の問題やぶっつけ本番の賭けになるかもしれない。

 それでも天才プログラマーとして名を馳せ、旋律の重要性を知っているエルだからこそできることだった。

 今は被害を最小限に食い止めるためにもやらないといけない。

 そう覚悟を決めて、またもや超高速で構文を考える。天才プログラマーとしての知識と経験を総動員して考えること数秒。そしてどの旋律を使えばいいかを決めるのに一瞬。

 決めたら後は実行するだけだ。

 旋律はオーケストラがいいが、ここではそれだけの旋律を使うと時間がかかる。とにかく騎士団員たちが応援に駆けつけるだけの時間が稼げればいい。そこで選んだ旋律は弦楽四重奏だった。

 名曲として名高いハイドンの「皇帝」の旋律を思い浮かべ、その旋律に沿って構文を詠唱していく。

「絢爛たる輝きを抱く光のマナよ、堅牢たる大地の息吹を伝える土のマナよ、全てを薙ぎ払う疾風たる風のマナよ……」

 エルを中心に魔力が荒れ狂い、3つのマナを、しかも相性の悪い土と風のマナを同時に扱うと言う暴挙に、他のマナにも干渉してゲリラ豪雨を発生させたときのように空気が渦巻いていく。

 しかし止めるわけにはいかない。

 短い間でもとにかく後方の学生たちを守らなければ最悪の事態になりかねない。

「……風の息吹をもって光と土の盾の加護を与えたまえ! ホワイトフィールドバリア!!」

 詠唱が完成すると同時に、エルを中心に光のベールが周囲に広がっていく。それは瞬く間に後方の学生たちを覆い、襲いかかろうとしていたコボルトたちを押し退けた。

 エルは詠唱が終わって魔術がうまく行ったことを確認するとその場に膝をついた。魔力の使いすぎで魔力切れを起こしたのだ。

「エル!」

 側にいたシェリーが心配そうに声をかけてくる。

「平気…、ただの魔力切れだから……。それよりシャル」

「何!?」

「連隊長に今のうちに分割した部隊を後方に急がせてと伝えて。この魔術、そうは長くは保たない」

「わかったわ」

 シャルはすぐにその場を離れ、連隊長の下へ向かう。

「今のうちにシェリーとフラタルエは後方に向かって。ライトセーバーでも何でもいいから物理攻撃で後方の学生たちを援護してあげて」

「エルはどうすんだよ」

「私は魔力切れで動けないからここにいる。この魔術、いつ切れるかわからないから、とにかく今は騎士団員が到着するまでの間、シェリーたちの援護が後方には必要なの」

 息を切らしながらそれだけ言うと、エルは両手を地面につけて倒れるのを防ぐ。

「エル……」

 心配そうにシェリーが気遣ってくれるが、急拵えの魔術がいつまで効果が続くかわからない。今はとにかく後方で戦える戦力を振り分けたほうがいい。

「私のことはいいから早く行って」

「う、うん、わかった。行こう、フラタルエ」

「おう」

 シェリーが声をかけてフラタルエとともに後方に向かう。それとともにガチャガチャと鎧の立てる音が後方に向かっていくのが聞こえる。

 エルは気を失わないようにするだけで精一杯だった。光と土のマナでホワイトバリアを物理攻撃に強い魔術に組み上げ、それを風のマナを使って広範囲に展開させる。土と風のマナの相性の悪さは旋律でクリアした。もっと時間があればオーケストラの旋律で強固で持続時間の長いホワイトバリアを作ることもできただろうが、一刻を争う状況ではそれはできない。構文もとにかく無駄のないものを心がけたから、魔術の効果がどれくらい保つかもわからない。

 とにかくシェリーたち戦闘ができる亜人たちや騎士団員たちが応援に駆けつけるまでの間保てばいい。それだけで組み上げた魔術だ。

「エル! 大丈夫か!?」

 状況を察したルーファスがエルの元に駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫…、ただの魔力切れ…。それよりルーファス、コボルトロードの相手をお願い…。あいつを一撃で倒せるのはルーファスしかいない…。コボルトロードさえ倒してしまえば後は烏合の衆になるはずだから……」

「わかった。任せろ」

 ルーファスはそれだけ言うと、コボルトロードがいるはずの前方に向かって走っていった。コボルトロードはルーファスに任せれば心配いらないだろう。騎士団員が守っているうちに、その強大な魔力で屠ってくれるはずだ。

 コボルトロードさえいなければ言ったとおり、残りは弱いコボルトの烏合の衆だけだ。

 エルの魔術が発動している間に騎士団員たちも態勢を立て直せれば学生たちも落ち着きを取り戻すだろう。

 とにかく今は休んで魔力が回復するのを待つしかない。

 顔を上げると、部隊を分割してできた騎士団員たちが間に合ったようで後方の守りが堅牢になった。シェリーやフラタルエもライトセーバーなどの魔術を使ってコボルトたちを獅子奮迅の勢いで倒している。

 次いで一際大きな断末魔の悲鳴が前方から響いてきて、ルーファスがコボルトロードを仕留めただろうことがわかった。

 これで残りはただのコボルトの群れだ。落ち着いて対処すれば負けるはずがない戦いになる。

 その頃にようやくエルが使ったホワイトフィールドバリアの効果が切れ、学生たちを覆っていた白い光が消え去った。とにかく態勢を立て直すまでの時間は稼げた。後は騎士団員たちや他の学生に任せて問題ないだろう。

 ぶっつけ本番の賭けだったが、勝ててよかったと思いつつ、次第に数を減らして全滅へと向かっていくコボルトの群れを眺めていた。


 コボルトたちを全滅させた騎士団と学生たちはその場で休憩がてら昼食を摂っていた。

 ただの固い黒パンに水だけの味気ない食事だったが、ないよりはマシだ。

 魔力切れを起こして疲れていたエルは食べ終わってからその場に寝転がろうとしたら、シェリーがその頭を掴んでふわふわの太腿の上に頭を乗せてくれた。

「エル、お疲れさま」

「ホント疲れたよ。被害のほうはどうなった?」

「わたしが聞いた話だと、怪我をした学生がそれなりにいたようだけど、死者は出なかったみたいね。魔力の残ってる学生に治癒魔術をかけてもらって、全員無事だそうよ」

 シャルロットの説明を聞いて安心する。これで死者でも出た日には目も当てられない。

「それにしてもすげぇな、エル。とっさにあんな魔術を使うなんて」

「ほとんどイチかバチかの賭けだったんだけどね。失敗してたら今頃どんなことになってたことやら……。成功してホントによかったと思ってるよ」

「それにしてもあんな魔術、どの先生に習ったの? ホワイトバリアを広範囲に展開させるなんて聞いたことがないわ」

「あー……、説明は疲れるから後でいい?」

「しょうがないわね」

 シャルロットはホワイトフィールドバリアの魔術に興味があるようだったが、今は本当に疲れているのでシェリーの膝枕でゆっくりしていたい。シャルロットも疲れた様子のエルにそれ以上は何も言わず、自分の食事を終えるとその場に座って周囲を見渡した。

「まさか挟み撃ちに遭うなんて思わなかったわね」

「巣があるからそこにしかいないと思い込んだのが原因だろうな。まさかどこかに出ていたコボルトが戻ってくるとは思わなかったぜ」

「でもフラタルエも頑張ってたじゃない。騎士団が駆けつけるまでシェリーと一緒になって戦ってたんだから」

「そりゃわたしはワーウルフだからな。コボルトくらい魔術を使わなくても倒せる」

「わたしもー」

「頼もしい仲間がいる班でよかったわ。もしかしてエル、こうなることを予想してたの?」

「まさか。ぶっちゃけて言うと、シェリーは私にくっついて来たがるだろうから当然入ることになってたし、フラタルエはもしシャルに何かあったら守ってもらえそうと思って誘ったの。もしシャルがコボルトに襲われそうになってもフラタルエがいたら素手で何とかしてくれそうでしょ? 私にはシェリーがいたし」

「なるほどねぇ。でもその人選が思わぬところで生きたってわけね」

「そういうこと」

 そんなことを話していると鎧の音が複数してきた。

「あぁ、君がエル・ギルフォードだね? 小柄と聞いていたが本当に小さいな」

「連隊長」

 ふたりの騎士団員を引き連れて連隊長がやってきた。シェリーの膝枕のままでは礼儀を欠くと思って起き上がろうとしたところを止められた。

「あぁ、そのままでいい。君も疲れているだろうからね。今回の遠征では君に助けられた。礼を言う」

「いえ、そんな大したことでは……」

「いや、君が使った魔術がなければ最悪学生に死者が出てもおかしくなかった。ここ10年以上遠征で学生の死者が出るような事態になったことはない。騎士団に不名誉な出来事になるところだった」

「私も必死だったので。とにかく魔術が役に立ってよかったです」

「さすがシェルザールの学生と言ったところだな。とっさにあれだけの魔術を使える腕前、さすがと言っておこう」

 連隊長に魔術の心得はないのだろう。素直にエルを褒めてくれる。

「たまたまうまく行っただけですよ。それより被害が少なくて私も安心しました」

「そうだな。とにかくコボルトは全滅した。学生たちは疲れが取れたら森を撤収して、森の外で一夜を過ごした後、セリーシェに戻ることになる。それまでゆっくり休んでくれたまえ」

「はい」

 返事をすると連隊長は騎士団員を引き連れて去っていった。

「なになに~? エルったら一躍英雄じゃん」

「よしてよ。それを言うならフラタルエだって後方で学生を守った英雄じゃない」

「ねー、あたしはー」

「もちろんシェリーもね」

「えへへー」

「シェリーは褒めるとすぐ調子に乗る。エル、あんまりこいつを図に乗らせるなよ」

「なんだよー、いいじゃんかー」

 仲がいいのか悪いのか、すぐにいがみ合うシェリーとフラタルエに苦笑しつつ、エルはシェリーの膝枕で存分に休むことにする。

 魔力はほぼ尽きてしまったが、シェリーの膝枕で寝て疲れは大分取れてきた。コボルトは全滅したし、もう魔物が出てくることはないだろう。それに騎士団もいるから、コボルトの残党がいたとしても騎士団や魔力の残っている学生に任せればいい程度のものだろう。

 春の暖かい気温とシェリーの膝枕、そして疲れのおかげでエルはいつの間にか意識を失っていた。


 ルーファスは連隊長がエルに話しかけるのを見ていた。

 連隊長は魔術の心得がないようで、素直にエルの活躍を賞賛していたようだったが、ルーファスは鋭い目つきでエルを眺めていた。

 ホワイトフィールドバリア。

 光の魔術であるホワイトバリアに風のマナを加えることによって広範囲に展開させる組み合わせの魔術だ。

 それ自体は教わったり、知っていればシェルザールの学生ならば使えても不思議ではない魔術に過ぎない。もちろんルーファスも知っているし、使える。

 だが、エルが使ったホワイトフィールドバリアはコボルトの物理攻撃を止めていた。

 ホワイトバリアは魔術の属性に対しては効果を発揮する魔術だが、物理攻撃を防ぐには土のマナを組み合わせる必要がある。

 範囲魔術は風のマナを使い、物理現象を食い止めるには土のマナを使う。

 そして風のマナと土のマナは相性が悪く、おいそれと成功させることなどできない。それどころか、ほぼ確実に魔術を失敗させるくらいなのだ。

 光、風、土のマナと3つのマナを組み合わせた魔術を使うだけでも骨が折れるし、革新派の優秀な魔術師でさえ3つのマナを組み合わせる魔術は難しいだろう。ルーファス自身、ふたつまでなら自在に操ることができるし、それだけの修練を積んできた。

 だが、相性の悪い風と土のマナを組み合わせて成功させるなど、祖父ほどの熟練の魔術師であったとしてもできたかどうかはわからない。

 短い時間だけ効果を発揮していたから、エルとしては騎士団が態勢を立て直すまでの時間稼ぎに間に合えばいいくらいの気持ちで使ったのかもしれないが、ルーファスにはエルの使ったホワイトフィールドバリアの魔術の凄さがわかっていた。

 おそらく他の学生はそんなことには気付いていないだろうが、ルーファスの目は誤魔化せない。

 「歌」と言う概念を得た観察眼と言い、相性の悪いマナ同士の組み合わせの魔術を成功させる手腕と言い、それを即座に実行できるだけの頭脳と言い、祖父が革新派に欲しいと言わしめた才能の片鱗をここでも垣間見た気がした。

 エルの興味は魔術具や古代魔術と言った古式派に近い魔術に偏っているが、こんな逸材を古式派などにくれてやるのは確かに惜しい。

 今回の遠征でルーファスは祖父の意向だからと言うだけではなく、ルーファス自身が革新派に引き入れてその才能を間近で見ていたいと思うほどの出来事になった。


 午後もしばらく過ぎればエルは普通に歩けるくらいまでは回復していた。少しでも寝たのが疲れを取るにはよかったようで、シェリーが「負ぶってあげようか?」と心配そうに訊いてくるのを「大丈夫よ」と返せるくらいにまで元気になっていた。

 もう森にはコボルトはいない。エルたち学生は騎士団の先導で森を歩いて抜け、森の外で一泊してからセリーシェに戻った。

 誰も欠けることなく凱旋を果たした学生たちをセリーシェの町長は再び出迎えてくれて、労いの宴まで開いてくれた。もちろん、こういう宴が苦手なエルは食べ物と飲み物だけを取ってきて隅っこで大人しくしていた。

 誰もあのホワイトフィールドバリアのことは詳しく気付いていないらしく、「エルのおかげで助かったよ」と後方でコボルトに襲われた学生に声をかけられることはあったものの、詳しく尋ねられることもなかった。

 どういうことか訊きたがっていたシャルロットも日付が変わり、宴を満喫しているようでそれどころではないみたいだった。

 それはエルにとってはありがたいことだった。

 何せ相性の悪い風と土のマナを組み合わせた魔術を使ったのだから、その説明には苦労するのが目に見えている。だからまずあの魔術の詳しいことに気付いている学生がいないことは救いだった。

 宴も盛況のうちに終わり、久しぶりのベッドでの快適な睡眠を取り、翌日には「これで1年はコボルトに悩まされずにすむ」と嬉しそうな町長や町の人たちに見送られて、セリーシェを後にした。

 そうして3日の旅程を挟んでシェルザールに帰ってきたエルとシェリーは早速部屋でくつろいでいた。

「1週間以上ぶりの部屋だわ」

「やっぱりここが落ち着くねー」

「そうねぇ。寝袋で寝ると身体が痛くなるし、疲れが取れた気がしないからやっぱりベッドで寝たほうがいいわね」

「あたしは地面に寝転がってお昼寝とか普通にしてたから、野営もそんなに大変じゃなかったよー」

「そういうとこは羨ましいわ。自前の体毛もあって寝るのには苦労しなさそう」

「うん。いつでもどこでもお布団の上って感じだからどこでも寝られるー」

「遠征にはもってこいの身体よね。体力もあるし、魔物との戦いには最適ね」

「実際村ではそれなりに魔物も出たしねー。ゴブリンとかせこいんだよー? 力じゃ叶わないからって夜中に作物を盗んでいったりするんだから」

「魔物が盗みねぇ。まぁそれだけワーキャットやワーウルフが強いってことなんだろうけど」

「うん。亜人は総じて人間より身体能力が高いからねー。あたしだって力はあるほうだけど、それでもフラタルエには負けるし。ホントに強いワーウルフとかになると、素手でトロールとかと渡り合っちゃうくらいなんだって」

「人間には考えられないわ。まぁだから魔術なんてものが発展したんだろうけど」

「そうだねー。人間は自前で武器がないから不便だよね」

「シェリーは爪だっけ?」

「うん。伸ばせばゴブリンくらいなんてことないくらいの武器になるよー」

 となれば亜人の国なんてのもあってもよさそうなものだが、歴史の講義でも亜人の国ができたという話は聞いたことがない。そもそも絶対数が少ないのだろうし、そこまで異なる人種の亜人同士が手を組む、と言う発想がないのだろう。

 魔術がなければ身体能力に勝る亜人が人間を支配する、と言う構図も考えられなくはないのだが、そこまでの発想に至る亜人がいなかったと言うことだろう。

 またエルフと呼ばれる人種もいるらしいのだが、見た目は大人になっても人間の子供くらいの大きさでほとんど人間の子供と見分けがつかないらしい。そのほとんどがSSS以上の高い魔力を有していて、独自の魔術体系を築いているらしいのだが、その魔術で住んでいる村や町を隠してひっそりと暮らしているらしく、人間社会に出てくるエルフはほぼいないそうだ。

 エルフというと現代日本では耳の長い長身痩躯の美男美女というイメージが強かったが、この世界のエルフはそうではないらしい。

 どちらにせよ、今人間が繁栄を築いていられるのは亜人たちが結束して人間を支配しようという発想に至らないからなのだろう。確かにシェリーとフラタルエなどの亜人はよくいがみ合っている。取っ組み合いの喧嘩にまでは発展しないものの、亜人同士で特別仲がいいと言うわけではないようだ。

 魔力は亜人にも発現するから魔術師になった亜人などは人間にとって極めて脅威になりかねないのだが、亜人は圧倒的多数を占める人間と争うよりも、共存する道を選んだと言うことなのだろう。

「明日はお休みなんだっけ?」

「うん。遠征の疲れがあるだろうからってことで一日お休みよ」

「じゃぁどっか遊びに行かない?」

「そんな元気はないわ。シェリーみたいに体力があるわけじゃないんだから、私は明日は一日部屋でゴロゴロしてたいわ」

「むー、つまんない……」

「別にシェリーは他の誰かと遊びに出かけても構わないのよ?」

「エルと一緒がいい」

「じゃぁ明日は私に付き合って部屋で一緒にゴロゴロしてましょうよ。たまには何もせず、まったり過ごすのもいいものよ」

「あたしは遊びたいのにー」

「じゃぁひとりで行ってらっしゃい」

「エルの意地悪。エルがいないと楽しくなーい」

「なら一緒にゴロゴロしてようよ。--あーあ、シェリーの膝枕はふかふかでとても気持ちいいからしてもらいたかったのになぁ」

 これはわざとだ。こう言えばシェリーは悪い気分にならないし、すぐに機嫌を直してくれるだろうとわかっていた。

「しょうがないなー。甘えんぼのお姉ちゃんのために、あたしが膝枕で癒やしてあげるー」

「うん、お願い」

 ほら、釣れた。

 これで明日は部屋でゆっくりできる。

 シェリーは相変わらず騒がしいだろうが、街に出掛けて遊ぶくらいならお喋りするくらいどうってことはない。

 それに本当にシェリーに膝枕は気持ちいいのだ。

 ふわふわの体毛で固い枕なんか目じゃないくらいだし、体温で温かいからすぐ眠くなってしまうくらい心地いい。

 それを思う存分堪能できるのならば多少騒がしいくらい大したことではない。

 明日の予定も決まったことだし、夕飯の時間までゆっくりして、ご飯を食べたら久しぶりのお風呂で疲れを癒やして、早めに就寝してたっぷり惰眠を貪るのがいい。

 大したことはないと思っていた遠征で魔力切れを起こしてしまうくらい疲れることをしてしまったのだ。

 明後日からの講義に備えるためにも、しっかりと疲れを取るほうがエルにとっては有意義な時間の使い方だった。

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