ピアノの旋律、それが始まりだった

        (一)


 扉を開き、外に出る。ひゅう、と吹いた北風。その勢いに思わず目を閉じ、またやんでから開く。前日よりはいくらかましだが、まだ雪が降り続けていた。くしゃみを一度し、マフラーをかけ直す。ランドセルを揺らしながら、西野理恋は学校に向かうために駆けだした。


 マンションを出ると、坂道を下る。理恋の住む二丁目には毎朝、小学生に対してある決まりがある。朝七時五十五分までに、理恋が今下っている坂道の先にある歩道で集合する、というものだ。みんなはこの場所を「集合場所」と呼んでいた。

 そして、集合場所には、毎朝二名の旗当番が子供たちを見守るために立っている。この旗当番は、二丁目に住んでいる小学生の親に順番に回ってくる。五十五分に集合したら、八時に出発だ。出発してからは、旗当番がいない。他の皆と同じように登校する。


 坂道を下り集合場所につくと、声をかけられた。


「よお」


 見ると、竹山と雲田がいた。理恋はその二人を見ると、口の端をひいて笑う。


「おはよ」


 二人もにわかに笑い返した。理恋は二人の前を通り過ぎて、一人で登校するようになってからの定位置――人の家の花壇に植えられた植物の前だが――に立つ。そして出発を待った。


      (二)


 横断歩道を渡ると、見知った姿が目に入った。一昨日までよりも親しみを感じながら、絢は姿を追いかける。追いついて肩をたたく。


「おはよう、砂代ちゃん」


 声をかけると、砂代は振り向いた。誰だろうという表情が、絢を見て笑顔に変わる。


「おはよう、絢ちゃん」


 その返事を聞き嬉しく思いながら、絢は砂代の横に並ぶ。砂代が絢のことを見て、ふと心配そうに尋ねた。


「大丈夫?風邪、ひいてない?」


 質問を受けて、絢は昨日のことを漠然と思い出す。竹山にホースで水をかけられビショビショになったことを思い出すと、急に面白おかしい光景に思えてきた。


「絢ちゃん?!」


 いきなり笑い出した絢を見て、砂代が驚いた声を出す。砂代に説明しようと、笑いを頑張って抑えて顔を上げたところで、肩をたたかれた。


「おはよ、砂代、絢ちゃん」


 振り返ると、理恋がいた。理恋も砂代と同じように笑っている絢を見て困惑したらしく、砂代に目で助けを求めている。それがまたおかしくて、絢はくすくす笑いをする。そして、やっと言葉を絞り出した。


「いや、あの、昨日、理科室が燃えたって言ったでしょ。それで竹山に水かけられてビショ濡れになったこと思い出して、笑ってた」


 砂代はそれを聞くと、くすくす笑い出した。しかし理恋は真面目な顔で


「えっ、絢ちゃん、よく風邪ひかなかったね。大丈夫なの?!」


と心配し始める。それがまたおかしくて、絢と砂代は思い切り笑った。


      (三)


 図工室で手を洗っていると、後ろから声がした。


「わっ」

「わぁ!」


 びっくりしてふり返ると、長橋が立っていた。理恋はその長橋のニヤニヤ笑いを見て、軽くにらんでから大袈裟にため息をついて見せた。


「なんだ、あんたか。てっきり、また化け物が現れたと思った」

「はぁ?誰が化け物だよ、殴られたい?」

「殴ったらあんたのお母さんに言いつけるよ」


 すかさず理恋が言い返すと、長橋は眉を吊り上げて


「その脅しさ、卑怯だろー」


と非難めいた目つきでこちらを見る。


「卑怯なのはどっちですか」


 ハンカチで手を拭いて、淡々と告げる。図工室を出て、教室に入った。


 朝の支度をしてから、椅子に座る。ふう、と息を軽く吐き出す。昨日のこの時間は、確か読書をしていたっけ。そんなことを思いながら、いつもと同じ動きでヘルメットカバーを探り、愛読書を取り出す。しおりの挟んであるページを開く。文字を読もうと紙面に顔を向けたところで、夜の間にしたことを考えた。それだけで、よくぞ今日を迎えられたものだと思う。咳ばらいを一つし、文字を読み始めた。


         (四)


 中休みのこと。


 外遊びや委員会で教室から、雪崩を打つようにして人が出ていく。

 閑散とした教室で、窓から外を眺めていると、ふいに自分の姿が砂代の動作と重なった気がし、理恋はふっと笑みをこぼす。


「無事に出れて、ホントよかったよね」


 ふと、隣に鈴が来て言った。


「ホント。自分が生きてるのが不思議すぎるよ」


 相変わらずの憎まれ口。自分でそう思いながら、窓の外に顔を向ける。

 そして、自分が生きていることに、本当に喜びを感じた。鈴と目が合う。二人は力なく笑った。その時、砂代が理恋に近づいてきていった。


「ねぇ、理恋、今日の中休み開いてる?」

「多分」


 ふと、何かを忘れているような気分にとらわれる。いや、気のせいだよね。苦笑して答えた時、絢が言った。


「虫取り行かない?」

「いいよ」

「いいよ」

「サヨも行こうかな」


 三人が答える。すると一樹が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「ねぇ、理恋、鈴!」

「どうしたの、一樹――」

「ね、昨日大変だったよね」


 まったく会話を聞いていなかった砂代が、理恋の質問を遮って一樹に同意を求めた。


「え?あ、うん――」


 曖昧にうなずいた後、一樹が鈴と理恋に向き直る。口を開こうとした時、またしても声が割って入ってきた。


「おい、西野、鈴!」


 教室に入ってきた長橋と竹山と雲田が、三人一斉に、ほぼ異口同音に言う。


「卒アル実行委員、今日の中休みに二階ホールで集まるらしいよ!」

「えぇ?!」

「予定表にはそんなの書いてなかったのに!」

「うそ!急がなきゃ!」

「筆箱と紙持った?」

「うん、行こう!」


 理恋と鈴が、教室を飛び出し、廊下をかける。

 それを見守る他の六人。

 窓の外から、冬のやわらかい陽射しがさんさんと降り注いでいた。

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