境界

     (一)


「雲田、ホントどこ行っちゃったんだろう」


 一階の冷え込んだ廊下をふらふらと歩きながら、鈴は隣を歩く絢に問いかけた。


「分からないけど、不気味だよね」


 落ち着かないようにこわばった様子で、さっきから絢は歩いている。

 鈴もつられて神経質に、喉をごくりと鳴らす。そして前を向く。

 他のみんなは、大丈夫だろうか。


「理恋ちゃんとか砂代ちゃんとか、二人とも怖がりだから、今頃、かなり神経参っちゃってるんじゃないかな?」


 心配に思って鈴が言う。絢も「確かにね」とうなずいた。

 理恋。一緒にいる長橋のことを連想した後で、ふと思い出すことがあった。


「あ!」

「どうかした?」


 絢の問いかける声が、頭上から降ってくるが、鈴は手を出して制する。

 長橋が目撃したという、顔のある少女。その少女は、『その人』の正体として考えてもいいだろう。少女、ということは、選択肢が鈴たち二人を含む女子四人に絞られたわけだ。


 でも。


(じゃあ、あれは何なの?)


 疑問が頭に浮かび、背筋が一気に凍りつく感じがした。


「あっちゃん、じゃあ、――――は、なんなの?」


 あっちの『その人』は説明がつくけど。

 鈴が絢にそう告げる。それを聞いた絢の顔が、瞬時にこわばった。


「ホントだ」


 つぶやいた後で、さらに、あれかが二人の頭の中の電球をパチンとつけたように、浮かんできた考えがある。


「「あれが、七つ目の七不思議!!」」


みんなに知らせなくちゃ。

 そう思って、感情が高ぶったまま、暗黙の了解で二人は階段を駆け上がる。


 二階まであと半分を切った――あと少しでたどり着く――あと少し――あとちょっとで――あと少しだから――、あれ?

 二人は階段の途中で足を止めた。

 二人で顔を見合わせる。お互いの目には、青ざめたもう一人の顔が映った。


「ねぇ」


 絢が鈴に向かって言う。


「階段って、こんなに長かったっけ?」


 二人は後ろを振り返る。

 いつも通りの階段。二人はその中間地点にいた。


「急いでいるから、長く感じるだけかも」


 消え入るような声で、鈴が言う。言っている鈴も、自分の発言した内容を信じているとは思えなかった。どう考えたって、階段が長すぎる。


 しかし、その事実を信じたくない一心で、二人は階段を駆け上がる。


そして。


 不気味、という感想と、体力の限界。

 いつまでたってもたどり着けない、階段のゴール、二階の床。

 二人は階段にへたり込んだ。

 その時だった。


コツッ、コツッ、コツッ――。


 階段下から、何かが近づいてくる音がした。


「理恋ちゃん!」


 思わず鈴は、声をあげた。絢も同様にしようとした。――しかし、目を凝らしたところではっと息を吞む。


コツッ、コツッ、コツッ――。


 近づいてくる人影。

 それを見とめた瞬間、鈴が大きな悲鳴を上げた。


 その表情のない顔が今、二人を見る。


 あまりに見慣れた顔。竹山と雲田が話していた少女と、自分たちを呪ってやるとほのめかした少女。それらが同一人物だとわかった瞬間、ある一つの結論にたどり着く。


 絢も悲鳴を上げた。

 表情のない顔から、笑い声が漏れた。

 頭の中に直接つぶやかれるようなささやき声に、二人は今度こそ意識が遠くなるのを感じた。


 少女はこうつぶやいた。


〈言ったでしょう。呪ってやるって〉


 次の瞬間、その階段には二人の影も形もなかった。

 それどころか、人がいたという痕跡も。


      (二)


 二人が出会ったのは、幼稚園の時だった。


 二人とも同学年の児童と比べて大人しく、共通点が多く、意気投合し仲良くなった。そのまま二人とも友利小学校に入学した。それぞれに友達もできたし、鈴には親友もできたし、登下校も別々だった。けれど、二人の友情は全く崩れない。


 二人にそれぞれの友達が出来ようが、嫉妬という概念すらなかった。平和でしかない友情。『幼馴染み』のくくりにいったん入ると、全然嫉妬という概念はうまれなくなるのだと、最近分かった。


 二年生。鈴は一時期、クラスの中の一部の女子から『ぶりっ子』のレッテルを貼られ、低学年だったからこそ態度もはっきりしていたのだと思うのだが、冷たい当たりを受けたことがあった。


 普段の会話ややり取り。一見、何の違いも見られない。しかし、そう言った『日常』の節々で、つくづく自分は『ぶりっ子』なのだと思い知らされた。


「ねぇ、鈴ちゃん」


 授業と授業の合間。次の授業の準備をしようとお道具箱を探る鈴に、前の席に座った結菜ゆなという女子が、声をかけてきた。


「何?結菜ちゃん」


 反応すると、結菜は人の悪い笑みを浮かべる。その笑みが、いつか自分に向けられた軽蔑ともとれる笑みと重なり、鈴は思わず顔をこわばらせる。


「鈴ちゃんってさ、好きな人いる?」

「え…?」


 今思えば、この時期の自分たちはこういう話題が好きだったからだと思うこともできる。『自分の好きな人ランキング』をクラスで大っぴらに発表する男子も、珍しくはなかった。


 しかしこの時の鈴は、自分が『ぶりっ子』と言われているからこういうことを聞かれるのだと、瞬時にそう思ってしまった。


「いない、けど」


 たどたどしく答える自分の意思には、噓をつこうなんてみじんもなかった。その答えは本当で、鈴は告白こそされたことはあるものの、その相手にもほかの男子にも恋心なんて抱いたことは一度もなかった。


 しかし、結菜はくすくす笑う。


「うそよ。鈴ちゃん最近、香川かがわのこと気になってるんでしょう」

「はぁ?何言ってるの、あの子のこと好きなんかじゃないよ」


 香川というのは、クラスの男子の名前だ。彼と鈴は隣の席で、それなりに話も弾むし仲もよかった。だけど、仲の良さと恋愛とは、全く別物なのになぜ。


 否定しようとしているのに、意思に反して顔が赤くなるのを自覚する。否定したいし、その否定に噓はない。どうかわかってほしい。私は、ぶりっ子なんかじゃないよ。


 心でそう訴えても、結菜は人の悪い笑みを、一分いちぶも崩そうとはしない。その直後、結菜はなんて鈍感なのだと腹を立てたが、今ならはっきりとわかる――結菜は鈍感なんかじゃない。むしろ敏感にこちらの感情を察知して、からかうことを楽しんでいたのだと。


「あっそ。正直になった方がいいよ、鈴ちゃん。まぁ、こちらとしてはそちらの恋を応援するばかりで」


 言い返そうとした時、その会話の間に声が割り込んできた。


「結菜ぁ――!トイレ行こう」


 別の女子に誘われて、結菜が席を立つ。立ち上がるとき、結菜は鈴の方に一瞥もくれずに行ってしまった。


 鈴が本格的に絶望したのは、その女子たちが放課後していた会話。


「ねぇ、鈴ちゃん、絶対香川のこと好きだよ」

「やっぱりぃ?でも結菜、どうやって聞き出したの」

「ダイレクトに聞いてみたら、顏真っ赤になってぇ。まじ笑えるっつうの。ほんとあのぶりっ子ムカつく」


 後から知った話だが、その子は香川のことがずっと好きだったらしい。そういえば、音楽の時に鈴が質問していたのも、席が近かったので大体香川だった。


――ケラケラと、結菜たちの乾いた笑い声が上がる。


       (三)――Side.絢


 目を開けると、絢の目に二つの人影が映った。

 思わず身を起こす。二つの人影が、あまりに見慣れたものだったからである。


「雲田!鈴ちゃん!」


 咄嗟にその背中に声をかける。

 その声に、鈴と雲田が振り返る。なぜ二人は、一緒にいるの?というか、何で私たちは理科室にいるの?


 次々と浮かぶ疑問は、頭の中で漠然と浮かぶだけ浮かんでから雲散霧消する。


「あっちゃん、目、覚めた?」


 鈴が駆け寄って尋ねる。絢が口を開くより前に、鈴が絢を立ち上がらせ、手を引いて扉のもとへ連れて行った。


「…え」


 絶句した声が漏れる。果たして何を見せられるのだろうと思っていた絢は、目の前の光景に、一瞬訳が分からずきょとんとしていた。


 しかし、数秒ほど見つめると、だんだん訳が分かってきて、それに対する実感がわいてくる。最初の方に漠然と浮かんだあくまで「事実」でしかないものは、時間がたつにつれて徐々に、危機感と共に現実感を孕みながら、絢にその光景を突き付けてくる。心臓の鼓動が速くなるのを感じた。


 いつもと同じ理科室。


 いろいろな薬品に紫キャベツの汁を入れて色の変化を実験した結果。その試験管が、グラデーションになるように並べられた棚。記憶に新しい物品。人体模型が二つ。友利小周辺の地形の模型。


 天井まで高い、組み込まれたガラス張りの棚の横には、いつもなら”アレ”があるはずだった。


 開け閉めするとキィキィうるさい音が鳴る、扉があるはずだった。


 しかし現状は――。


「何、これ」


 口から洩れた言葉。鈴と雲田がこちらを振り向く。


「ねぇ、私たち出られないの?これ、私の幻覚?ねぇ、どうなってるの?ここ、学校の外じゃないの?あの人、どこなの?」


 とめどなくあふれる疑問を口にすると、二人は黙ってこちらを見ていた。二人とも、最初の方は訳が分からず錯乱したに違いない。しかし、今は冷静に、ただ落ち着いてこちらを見ている。


 雲田はおそらく泣いたのだろう。充血してこそいないものの、まだ腫れた瞼が、雲田本人にどこかしんどそうな印象を与えていた。


「ねぇ、あの人は?あの女の子は?」


 絢が、自分たちを連れ去った少女のことを口に出す。

 すると、今まで冷静だった二人の表情が、びくりと反応した。

 それに嫌な胸騒ぎを覚えながらも、絢は本来なら扉があるはずだった場所にあるクリーム色の壁紙をにらんだ。


「私たち、死んでる?」


 言った瞬間、だった。

 雲田がふっと、笑みを漏らした。しんどそうな表情の影に、普通の笑い声を聞いた気がして、絢はわずかに自分を取り戻す。


「死んでたら普通に会話できねぇだろ。それとも何?『存在』が俺らに霊感を与えたとでも?」

「いや、そうはいってないけど」


 つられて苦笑しながらも、絢は言い返す。

 二人で笑って、わずかに胸の中の恐怖心が和らいだ時、鈴が口を開いた。


「あのさ、もしかしたら、外からは開けられるのかもしれないよ」

「え?」


 思わず顔を上げる。鈴は真剣な顔もちで、確信のある口調だった。


「だって、昇降口の時も、そうだったでしょ」


 鈴はこちらの反応を確認すると、続ける。


「私たちは普段通りに昇降口を開けて中に入ったけど、もとから中にいた雲田たちは開けられなかった。――ちょうど、今みたいに、昇降口の扉が消えていた。そうでしょ?」

「ああ、お前らも、中に入ってから見ただろ」

「うん、見た」


 雲田と鈴の話を聞いて、だんだんと二人の言わんとすることが分かってくる。


「外から誰かが来てくれれば、出られるかもしれないけど」

「助け呼んだけどな、お前らが来る前に。――意味なかった。誰も来ねえよ。それと」


 ふと、雲田が真剣な顔もちになった。それに嫌な胸騒ぎを覚える。もしかして、悪い出来事はこれだけではないのかもしれない。


「絢、お前、こっくりさんの紙、全部燃やしたんだよな」


 急に何を聞く、と思った。こっくりさんの紙、それに耳慣れないものを感じる。しかし、懐かしさを伴って、記憶がよみがえる。


「燃やしたけど、それがどうかしたの?」


 雲田は自分の立っているところから一番近い机の上を見る仕草をした。

 絢と鈴が駆け寄る。雲田が指さすその先に、見覚えのある紙片が落ちている。それを見た瞬間、なぜだか二人の背中に悪寒が走る。


 ここに来たばかりの時に、絢が喜んで破ったこっくりさんの紙のかけら。そのうちの一枚が、端がわずかに炎にさらされ焦げた状態で、机の上に乗っていた。その横には、絢が使ったアルコールランプが置いてある。


 紙片は、月明かりに照らされ輝く物品の中で、一つだけ異彩の輝きを放っていた。


「燃やし残しがあったんだよ。多分そのせいで、俺らはここに閉じ込められた――いわば、『連れてこられた』んだ」


 雲田が静かに言う。


「もう一回燃やせば、出られるってこと?」


 物事の成り行きについていこうと、多少的外れでもいいからと、絢が口を出す。が、雲田はそれにうなずき、そして言い放つ。


「これから燃やそう。アルコールランプはある。問題はマッチだけど」

「いっそ摩擦でつけちゃう?」


 半分冗談で、しかし少し自棄になって絢が発言する。すると雲田と鈴は首を横に振って即座に否定した。そりゃそうだよな、思いながらも絢は黒板前の机に近づいた。

 引き出しに貼られたテープに書かれた文字を慎重に読み進める。そして、見つけた。


 一番上の引き出し、二つあるうちの右の引き出しに、『アルコールランプ・マッチ棒等』と書かれているではないか。


 早くここから出たいとばかりに、飛びつくようにして引き出しを開ける。一瞬、開かないかと思ったけれど、単に自分が震えて手が言うことを聞かないだけだった。中を見回し、鉛筆削りより一回り大きいくらいの大きさの、マッチ棒の箱を見つけた。


 まだセロファンがかかっていたし、あとで見つかったらどういえばいいのだろうと思った。こんな事態でも、少なくともここは学校なのだ。しかし、他にマッチ棒の箱が見当たらないので仕方ない。心の中で学年の理科担当の先生に謝りながら、引き出しを閉めて二人の元へ向かう。


「あったよ!」


 緊張した顔もちで絢を見守っていた二人が、その言葉を聞いた瞬間、笑みをこぼした。


「やった!」

「あっちゃん、すごいよ!」


 歓声を上げた二人の前で、絢は紙のパッケージに張り付いたセロファンをはがす。几帳面な性格の絢は、紙が破れないようにして丁寧にはがしていく。雲田と鈴が、「雑にやればいいのに」とでも言いたげに、こちらを歯がゆそうに見つめる。

 一分ほどかかり、セロファンがはがれた。


「よし!」


 つぶやく鈴と雲田の小さな完成を頭上に感じながら、中からマッチ棒を一本出す。


「火、つけるよ」


 震える声で、絢が言った。二人の表情は、瞬く間に緊張そのものに戻る。いくら非現実的な空間だからとはいえ、扱っている物が火だという事実に変わりはない。まかり間違うと大変なことになりかねない。

 木の部分を持った絢に対し、鈴が声をかけた。


「あっちゃん、水!」


 ハッとして、青ざめ、マッチの先をパッケージから慌てて離す。

 すっかり忘れていた。鈴の一言がなければ、自分たちは火だるまになっていただろう。考えただけでもゾッとする。

 鈴が黒板前の机から丸底フラスコを取って走ってきて、二人の前に置く。


「これに水を入れて、マッチつけたらすぐに入れないと!」


 雲田が素早く鈴の手からフラスコを受け取り、水道をひねってフラスコに水を入れ始める。


 水がフラスコに入っていくにつれ、聞こえる音が高くなっていく。緊張しているときなのに、その音をなぜかきれいだと思った。

 雲田が水を入れ終わり、絢に差し出す。その雲田の目には、力強いものがあった。それに勇気づけられるように、絢はフラスコを受け取る。


 震える手でそれを机の上に置くと、絢はマッチ棒のパッケージに向き合う。マッチ棒のパッケージの側面についた、着火のためのギザギザ。それの正式名称は知らないが、それに言い知れぬ緊張感と恐怖を覚える。


「ライター、ないんだ」


 見つけたのは自分だというのに、絢は小声で自分に向かって言う。ライターの方が、よかったかもしれない。すぐに、簡単にできるし。


 マッチの赤い先端を、ギザギザの面に押し当てる。勇気が出ないまま、そこで止まってしまった絢に、鈴が呼び掛けた。


「頑張って、あっちゃん」


 雲田も鈴の一言を聞き、絢に呼びかける。


「頑張れよ、浜」

「うん」


 小声でうなずき、顔を上げる。二人の顔は、すべてを物語っていた。今絢に呼びかけたのは、気休めでも何でもない。絢を信じてくれ、すべての信頼を置いている。一分の疑いも持たず、ただただ、絢を信頼してくれているクラスメイトたち。


 その期待を自分が裏切るかもしれないと言うことを考えると、絢は今度こそ気がくじけそうになった。しかし、ぐずぐずしている暇はない。今この時も理科室の外で、竹山や理恋や長橋や砂代や一樹が、自分たちを探して必死になっているかもしれない。


「やるぞ!」


 自分に活を入れた。いまだ、そう思った。

 手に力を入れる。斜めに持った箱。その側面に沿わせるようにして、マッチの先端を下に滑らせる。


 自分にまだ勇気が足りないからか、ギザギザの手ごたえに、思わず手が止まりそうになる。が、今も外にいるであろう、理恋と砂代の顔、一樹、竹山、長橋の顔を思い浮かべると、自然と絢の心の中に、やらなければならないという使命感がわいてきた。

 シュボ、意外と大きな音を立て、マッチに火が着いた。一瞬びくつきながらも、それをアルコールランプの飛び出た紐先に近づける。

 マッチと紐先が近づき――、そして、火が紐先に移った。

 瞬時にフラスコにマッチ棒を投げ入れる。


 ジュっと音がして、マッチの赤かった先端が一気に灰色になった。

 それを見とめた瞬間、絢は肩から力が抜けたようにへたり込んでしまった。鈴もほっと息をつく。


「立てよ。ほんとの仕事はまだ終わってねぇだろ」


 へたり込んだ二人を言葉で力づけたのは、雲田だった。


「ん」


 生返事をして、立ち上がると、絢の横にいた雲田が、鈴に紙片を差し出した。

 さっきよりも、いくらか輝きが増している気がする。初めはきれいだと思ったその輝きも、いまは紙片が抵抗しているように感じられて警戒対象になっていた。


「燃やせ」


 短い一言。それに共感するように、向かいから絢がこくんとうなずいて見せる。


「分かった」


 こっくりさんの紙を燃やすと、どうなるのだろう。よく考えれば、自分たちは理科室から出られるのだろう――今自分たちがこうしてとらわれているのは、燃やしきれなかったこっくりさんの呪いからだ。


 かすかにふるえる指で、雲田の手から紙片を受け取る。より悪い事態になりませんようにと、一心に願いながら、紙片をアルコールランプの中に傾ける。


 徐々に近づけていきながら、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 紙片の角が今、鈴の指の間をすり抜ける――。


「鈴ちゃん!」


 遠くで響く絢の声。


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。


 次の瞬間、絢が鈴の腕をつかみ、アルコールランプと紙片から遠ざける。そして肩を抱きかかえると、自分も同じ向きに後ずさるようにして、机から鈴の身を遠ざける。

 雲田の目にちらつく恐怖。絢の隣まで遠ざかった雲田を視界に見とめる。反射的に机を振り向いた鈴は、思わず絶叫した。


       (四)


 全く人のいる気配を見せない廊下に舌打ちしながら、竹山は進んでいた。最初の方は、理恋・長橋の二人組と砂代・一樹の二人組の間をウロウロしてなるだけ一人にならないようにしていたのだが、一樹たちといても一樹と砂代の間の会話についていけず、かといって長橋のところに行っても長橋と理恋の、聞いているだけで疲れるような口論に飽きてきた。なので、一人行動を選んだのだ。


 正直言って竹山は、この状況を楽観視していた。


 そりゃ、危機感はある。雲田が消えたことで、怖くなっていることも確かだ。しかし、次は自分かもしれない、殺されるかもしれないと怖がりナーバスになっている女子たちや一樹を見ていると、自分が楽観視していることに有利な点を見いだせた気がする。自分がひどいかもしれないとは思う。しかし、もはや単独行動をとっている竹山にとって、それはあまり関係のないことだった。


 次が、自分だったら。


 考えるだけでもなんだか馬鹿らしくなり、竹山は苦笑を漏らす。


 前を向き、廊下を歩き始めた。


 耳が痛いほどの静寂が、延々と続く廊下。誰もいないことを、やや不自然に感じる。が、竹山は不吉な考えを頭から振り払う。


 校舎が広すぎるだけだ。遠くにいるから、声が届かないだけだ。


 四階の廊下、竹山は階段に向かう。下りる方ではなく、屋上に続く階段に腰かける。


 友利小学校の階段には、西階段が赤、東階段は青緑の線が中央にそれぞれ入っている。


 これは、友利小の校内――廊下でも、階段でも――右側通行を心掛けなさいということで、線が引かれているのだ。


 一方、今竹山が腰かけている屋上に続く階段は、線が入っておらず深緑一色だ。三年生の時、社会科の授業で方位の勉強をした。その時に一度だけ、みんな屋上に登ったことがある。その時、皆の話題にも上った「屋上つづきの階段、緑一色、なんで」は、結局答えがわからぬまま、記憶の彼方に葬られたのだ。


 今なら容易に答えがわかる。


 友利小は屋上開放をしていない。廊下や階段は児童がよく通るから中央に線が引いてあるけれど、屋上は行く機会が極端に少ない。だから緑一色なのだ。

 そんなことを思い返しながら、竹山は立ち上がった。今から一樹たち、長橋たち、鈴と絢も見つけようと思っていた。


 いくら会話についていけないからとはいえ、聞いているだけで疲れる口論があるからとはいえ、女子だけで話しかけづらいからとはいえ。いくらなんでも、こんなに人がいないのはおかしい。もしかして、皆消されたのではないか。悪寒が走るが、頭を振ってまた、悪い妄想を振り払う。


 廊下に引き返そうとしたところで、はっと思いついた。


 どうして俺は、今まで気が付かなかったのだろう。七不思議は、あと一つ。雲田の顔が浮かぶ。先ほど議論した内容が浮かぶ。あいつが違っても、あいつはそうだったから。だから。雲田はそれに気が付いた。どうして誰も気が付かない?あと少し、頭をひねればひらめくものを。どうして誰も今まで気が付かなかった?!


 誰でもいいから見つけなければ。誰かにこれを伝えなければ。でも――。


 俺は、どうなるんだ?


 消された雲田のことを思い浮かべた瞬間、背筋に冷たいものが走った。俺も_____、消される?さっきまでの楽観視が噓みたいだった。


「誰か、いないのか?」


 大声で階段の下に叫んだところで、ふと違和感を覚えた。


 どうして――。まさか、あいつが『その人』の正体なのか?『存在』なのか?


 急にひらめいた。


 その時。


〈気づいた?〉


 耳元でささやかれる声。地の底から湧き出る声に、聞き覚えがある。生暖かいふぅっという息が、竹山の首筋にかかった。


「うわぁっ」


 飛びのいて振り返ると、『その人』がいた。


      (五)


「きゃあっ、どうなってるの?

 いやっ、助けて!」


 理科室。


 目の前ではアルコールランプが倒れ、周りの物品に引火していた。こっくりさんの紙は、熱風にあおられひょいと飛んだかと思うと、理科室の扉があったところに落ちた。


 途端。木が速く成長するのを見ているようだった。

 紙片に書かれていた鳥居のイラスト。それが立体となって、大きくなり、今理科室の扉があったところには、代わりに鳥居が立っていた。


 しかし、ただの鳥居ではなかった。こっくりさんの紙から出た鳥居ということで納得は行くのだが、その外に広がっているのは、学校の廊下ではない。


 黒く深く淀んだ、ただただ闇でしかない世界。その中から、低く何かを呼び寄せるような恨みのうめき声が、何重にも響いて聞こえてくる。

 三人は身をこわばらせた。理科室の奥まで下がった途端、しまった、と思った。


 三人は、火だるまになった物品に囲まれていた。炎の包囲網は徐々に三人を追い詰めてくる。


「い、いや…」


 泣きそうな声を漏らし、鈴が絢に縋りついた。絢も鈴の方を向き、しがみつく。雲田は絶句した様子で恐怖の表情を見せる。

 三人は背中合わせの状態で後ずさる。

 炎の包囲網が、今、三人を襲おうとしている――。

 三人は絶叫した。


       (六)


「な、何の用だよ。あいつかと思っただろ」


 ホッと胸をなでおろす。その反応にきょとんとしているところが、なんだか人間味があり過ぎて、こいつが本当にアレなのかと思ってしまう。表情のない白紙の顔が、こちらに向けられた。


〈幸先良いわね。これであなたも仕事出来るわ〉


「仕事ぉ?何のこと言ってるんだよ。それに、幸先どころか、もう終盤だろ」


 意味が分からず言い返すと、『その人』はやれやれと首を振った。顔がないのに、呆れているのが一目でわかる。お前に何が分かる、化け物のくせにと心の中で軽く毒づきながらも相手の反応を見ると、驚いたことに『その人』は竹山に向かって駆け寄ってきた。


〈これは、はっきりというと私も消されちゃうの。だってもはや、ここは――〉


 耳元で囁かれる内容に、竹山はびくりと肩をこわばらせる。


「お前が、消される?俺、てっきり、お前が俺たちを集めた『存在』の正体だと思ってたのに、違うのか?」


〈ううん、違うわ。私を敵ととるか味方ととるかはあなた次第。ただし、しようと思えば私も、呪うことくらいできるからね。そこは配慮して〉


 機嫌を損ねたのか、『その人』が砂絵のように淡くなって消えた。


 竹山は一人行動をするようになってから、頻繫に顔のない『その人』と遭遇するようになってしまった。最初の方は怖かったし、悲鳴をあげたりして逃げていたのだが、今こうして人の気配のしない校舎内にいると、現れた時にかえって安心するのだ。改めて、自分は一人でいることに不安を持ちやすいのだと実感する。


 はぁとため息をつき、とりあえず教室に行こうと、階段を降りようとした。


 その時。


 竹山ははじかれたように後ろを振り返った。

 そして、はっと息を吞む。あいつの気配に慣れたせいで、他の化け物の気配を感じにくくなっていた。


〈気づいたのなら、こっちにおいで〉


 ニタリと嫌な笑みを浮かべながら、顔のある少女がこちらに歩いてくる。嫌な笑いを浮かべている、驚くほどに大きな口。短い髪を一つしばりにした髪型。

 すべてに、見覚えがある。


「――?」


 その人物の名を呼びながら、竹山は身構える。その人物は、やはりあの時竹山が教室で見た顔の持ち主だった。そして、今も本物のそいつは校舎内であいつと一緒にいるはずだ。なのに竹山は顔のある『その人』を見た瞬間、こいつは偽物だ、化け物だと感じた。

 後ずさり、再度その人物の名を呼ぶ。


「――っ」


 『その人』は竹山に近づくと、ふふふと笑った。息が出来ない。指一本触れられていないのに、喉が圧迫される感じがする。

 うめき声を漏らしながら屈みこむと、見下ろす『その人』のニヤニヤ顔を、思い切りにらんだ。


〈ごめんね。あなたは悪運続きだわ〉


 表情のない目にそう言われ、竹山の意識は遠くなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る