過去

      (一)


 砂代のことをからかった。同じ班になって、隣の席の男子も一緒にからかってたし、調子に乗っていたのかもしれない。


 とにかく、それで砂代に、嫌われてしまった。砂代の親友である理恋にも、一時期露骨に辟易された。あまりからかわなくなってから、理恋の自分に対する態度は以前のように、『あまり会話をしない近所の奴』というものに戻った。砂代はまだ嫌がっているかもしれないが。


 少しは反省しているし、やり過ぎたとも思った。


 だから、 機会があれば謝ろう――とも、まぁ思っている。


 砂代は、自分のことを嫌っているかもしれない。でもどうせ、中学校になって六クラスとか五クラスとかになれば、自然と離れていくのだろう。向こうから声をかけてきたり、嫌味を言うのでなければ、雲田は特に、なるようになれとしか思っていなかった。砂代は自分を辟易している。その事実は、とっくに承知していることだ。だから何だというわけでもないが。


      (二)


 雲田夢太は、闇の中で目を開いた。


 ここは、どこなのだろう。俺は、学校の外に出られたのだろうか。他の皆は、どこだ?


 あたり一面闇の謎の空間だと思っていたが、目が慣れてくると、見慣れたところだと言うことがわかる。


 ツン、と、特徴的なそことわかるにおいが、鼻腔を掠めた。


「なんで、俺がここに…」


 なぜ。これは、『存在』の罠だろうか。動かない方が良いのでは?頭の中で漠然と考えながらも、体が自然と動いてしまう。


 体を起こすと、雲田は黒板の下に倒れていたということが分かった。立ち上がって、扉向かって歩き出す。

――歩き出したところで、異変に気付き、思わず絶句して足を止める。


 今夜学校に来て間もなく見た、昇降口のことを思い出す。

 掻き消えた扉。


 無機質な壁紙が延々と続く。もとは白かったであろう色に、年季があることを示す黄ばみが、それをクリーム色に変えている。それも、汚い印象のあるクリーム色。

 雲田は目を見開く。はじかれたように後ろを見ても、誰もいない。ただただ理科室の中に、雲田が一人、取り残されている。いや、雲田だけが『案内された』のだろうか。


 混乱しながら教室の中を見渡す。

 理科準備室への扉さえ、消えていた。


 と、窓から差し込むか細い月明かりに照らされ輝く物品の中で、ただ一つ周りと違う輝き方をするものが、雲田の視界に入った。


「なんだ…?」


 不思議と興味を持ち、雲田は机の上に置かれるそれに近づいた。

 それは、小さな紙片だった。それを見て、雲田は目を見開く。


「燃やしたはずだろ…」


 絶句して小さな声が漏れる。

 それが何なのかは、一目瞭然だった。


 他の紙片の中でただ一つ、燃やされる運命を免れた魔の紙片が、月明かりを反射している。


      (三)


 いつだったか、砂代から自分に、声をかけてきたことがある。最近だったような、ずいぶん前のような。時期の曖昧な記憶の中で、恥ずかしそうに何度も発言をためらいながら、砂代が自分に告げた言葉の内容を思い返す。


「ねぇ、雲田は何でさ、サヨのこと変な呼び方するの?」


 ああ、と思う。その「ああ」には何の感情もなく、強いて言うなら納得に近かった感情だろう。雲田は砂代の目を見つめ返す。砂代は、口調こそためらいがちだったが、目は、鋭くて意志強固な印象を与えた。


「ねぇ、何で?」


 砂代の目を見てしまい、雲田はその迫力から咄嗟に声が出せなくなる。

 そんな雲田の様子に、砂代は目の鋭さを変えず、ゆっくりとした口調で、冷たく言い放った。


「バッカじゃないの」

「は?お前、なんて言った?」


 自分がいけないのはわかってる。だけど、その砂代の発言を、聞き流すことはできなかった。どこか傷ついた感情の自分に、その発言がわずかの怒りを与える。このまま聞き流すとナメられる気がして、雲田は問いただす。


 砂代はその一言で、さっきよりもふるえた、傷ついた口調で繰り返した。その目は、雲田に「大嫌いだ」と伝えていた。


「バッカじゃないの」


 そう言い捨て、彼女が図工室の中へと去って行く。


      (四)


 雲田は泣きそうだった。心の中では泣いていたかもしれない。とにかく、パニックでただただ混乱していた。


 目の前の紙片。それが、何よりも怖かった。

 雲田はふらふらとした足取りで、本来なら扉があるはずの壁に、近づいていく。


「ねぇ…」


 消え入りそうな声で、両手を壁紙につく。


「出してよ…。出せよ!誰か!早く、誰か!」


 誰か、誰か。どうしようもないほどに早くなった動悸を感じ、また吐き気に襲われパニックになる。


「ああああああああああ!」


 気が狂ったように、壁紙に沿うようにしてずり落ち、屈みこむ。


 いつの間にか自分が嗚咽を漏らしていることに気づき、また自分が泣きだしたことにも気づいて、雲田は吐き気を覚える。


「誰か、出してよ!出せよ!誰か!」


 小さく高い声であえぐ雲田の声は、ただ理科室の冷たい空気に吸い込まれるばかりで、誰にも届いていなかった。


 絶望的に助けの来ない中で、混乱した状況の中、出られないことを悔やみながら雲田はふと、あの少女のことを思い出す。顔のある少女。あいつが、『存在』の正体だった。つられて顔のない『その人』のことも思い出す。


 すると、どこからともなく背筋に冷水を流し込まれたように、恐怖心が湧き上がってくる。


「誰か!」


 誰か、早く。

 雲田は再び、嗚咽を漏らし始めた。


     (五)


 砂代に「バッカじゃないの」と罵られてから間もなく、席替えがあった。

 砂代との間に漂うようになった気まずい空気から逃れられるのもまた幸運だったが、少し寂しい気持ちも、雲田にはあった。


 そんな様子に気づいたのか。

 竹山と下校しようと、彼を探して駆ける雲田の肩を、誰かがたたいた。


「雲田」


 振り返ると、長橋がいた。


「長橋」


 長橋はいつも、隣のクラスの大山おおやまという男子と、さらに隣のクラスの麻乃あさのという女子と三人で帰っているはずだった。なぜ、そんな長橋が自分に声をかけて来たのか。疑問に思って尋ねる。


「長橋、お前、大山と小沢はどうしたんだよ」


 小沢というのは、麻乃の苗字だ。二人の名前を聞き、長橋はにべもなく答える。


勇気ゆうきと麻乃か?あいつら、遅ぇから置いてきた」


 勇気というのは、大山の名前である。


「へぇ。で、どうしたんだ?」


 自分に声をかけてきたわけを再度尋ねると、長橋はふと真面目な顔になった。


「雲田、お前さ、砂代のこと好きなんだろ?」

「はぁ?」


 意表を突かれた雲田は、長橋を見つめ返す。長橋はからかい口調でもなく、砂代から遠いところで自分に声をかけてきたことも考えると、かえって心配しているような印象を与えられる。


「違ぇよ。誰があいつなんか」


 言い返すと、長橋は食い下がって小声で忠告するように言った。


「お前、砂代に何か言われたろ?だから、今自暴自棄になってるかと思って」


 言うなり、雲田の答えも待たずにさっさと後ろに去って行く。

 つられてふり返ると、ちょうど大山と麻乃が長橋のもとへと駆けていくところだった。


「自暴自棄になんかなってねぇよ…」


 長橋、勘違いが過ぎる。お前は悲しい奴だよ。

 そう思ったところで、長橋が自分を心配してくれていたことも実感して。嬉しいのか怒っているのか、自分の感情がよくわからない。

 でも、長橋、お前は明らかに勘違いしてるよ。だれがいつ、男子が女子をからかうだけでそいつのことが好きだって、決めつけたんだよ。


 心の中でつぶやき、雲田は歩き出す。

 秋の終わり、日が短くなってきた時特有の西日。六時間目の後の下校。

 雲田は何となく嬉しくなりながら、竹山を探して前方に駆けだした。


       (六)


 雲田は立ち上がって、窓のサッシを開けた。カラカラと鳴る軽快な音。それが、雲田は好きだった。


 上半身を窓の外に出す。ここから飛び降りれば、学校から出られるかもしれない。

 でもここは理科室、三階だ。


 飛び降りれば確実に即死。少なくとも、大けがと入院沙汰は免れない。



 自暴自棄。



 長橋に言われた言葉が胸にすとんと落ちてくる。雲田は上半身を室内に戻した。窓のサッシを元の位置に戻す。


 誰か。

 心の中で思った時、雲田の目から一筋の涙が流れた。

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