ピアノと悪夢

      (一)


 鈴は、二年生の時から、音楽という科目が大嫌いだった。鑑賞は楽しいけれど、何より苦手なのが音符だった。


 何年生だったか覚えていないが、教科書の隅に載っていたような、ろくに先生の口から解説も聞いていないはずの音符。それを、みんなが覚えているという、事実を知った。


 それが鈴にとっては、たまらなく不愉快で嫌だった。


 先生がリコーダー奏の新しい曲の楽譜を皆に見せるたびに聞くあの言葉。「これは何音符ですか?」、その言葉に皆がすっと当然のように手を上げるのが、見ていて不安になった。


 私が覚えていないこと。それをみんなは知っていて、覚えていて。覚えていないのは私だけ?


 なんで、そう思っていたた鈴に、大きな衝撃が訪れる。


 理恋が、同じく「音符なんて、ちんぷんかんぷんで、あたし全く分からないよ。あたし、二年くらい前に音楽を捨てたから」と発言したのだ。鈴は、仲間がいたと、少なからず救われる思いがした。


「理恋ちゃんが覚えてないなら、安心したよ」


 思わずそう漏らすと、理恋は慌てた様子で謙遜した。


「そんなことないよ。あたし、得意教科と苦手教科の差が激しいから」


「いやいや…」


 鈴は、ただ単に理恋が覚えていなかったから安心したわけではない。私だけが劣等生じゃないと思ったことで安心したのは確かだが、その思いの底にあるのは、もう一つの記憶だ。


 あれは、音楽という科目を捨てた二年生の夏の出来事だった。

 校舎を歩いていた時、鈴の耳が声を拾ったことがきっかけだった。


「鈴ちゃんてさ」


 本来なら、他の人の会話が聞こえてきても鈴は我関せずと通り過ぎていただろう。しかし、自分の名前が出て、鈴の足が止まった。

 この声は、クラスの、友達の声だった。

 朝早くの閑散とした教室で、早めに来ていたのであろうクラスの友達二人が、どことなく不愉快な笑い方をしながら、自分のことを話している。


「何?」


「鈴ちゃんて、ぶりっ子だよね」


 ぶりっ子。その言葉を、口の奥でつぶやいた後、信じられないという衝撃が体の中を駆け抜ける。友達のはず、なのに。私が、ぶりっ子と言われている。いったいなぜ?

 私はそんなに、男子に対してかまってちゃんだっただろうか。他の女子が見ていて気に食わないような、そんな態度を男子に対してとっていたのだろうか、私は。


 頭の中で渦巻く、自己嫌悪にも似た思考。


 鈴はなぜか、自分の悪口を言った友達を責めようとは思わなかった。


 ただひたすら心の中で「なんで」、そう思っていた。


「そうかなぁ。私はそうは思わないけど。聞く相手なら、男子も女子も関係ないじゃん」


 ふと、鈴のことをぶりっ子と言ったことは違う方の友達が口をはさむ。


「いやいや、だってさ、音楽なんて誰でも出来っしょ?楽譜とか、めっちゃ簡単なくせに、あえて隣の男子に『この音符何?』とは聞いたりさ、見ててすごくイライラするんだけど」


 その子の反応を聞いて、鈴のことを理不尽に罵った元――友達の、声が少し、機嫌悪くなる。


 理不尽な嫉妬の言葉は、それを聞いていた鈴の心を、容赦なく打ち付けた。


 鈴に、意図的に声をかける相手を男子にした覚えはない。ただ、その男子とは仲が良いのもあるし、第一、鈴の席は男子に囲まれているのだ。席替えの時に、全く不運な席だと思ったことを思い出す。第二に、授業中にその子のいる後方の席を振り返りでもしたら、先生に怒られるにきまってる。


 そうしたところで、その子は『授業中にこっちふり返ってくるんだよ。まじでうざくない?』などと言って鈴を友達間でけなしただろう。


 だんだんそう言うことが頭の中で冷静に考えられるようになったことに気づき、泣きだしたくなるような、情けない気持ちになる。


 足がすくむ。教室に入りたくない。たとえ気持ちがあったとしても、今はとても、一人で入れない。

 その時、だった。


「鈴?ここで何してるの」


 頭上から声がし、鈴はびくりと肩を震わせる。振り返ると、長橋だった。


「長橋」


 吐息を漏らす。目頭が熱くなったのに気付いたが、今ここで泣いたりしたらそれこそ本当のぶりっ子になる。そんなのぶりっ子ではないけれど、その時動揺していた鈴は、『これ以上友達に嫌われたくない』と思った。何とか持ちこたえ、


「ううん、ボーっとしてただけ」


それだけ言うと、そそくさと自分の席に向かう。


 長橋と仲良くいたことをその子たちに見られたくなかった。鈴は悪口を言われても、それでもなお、友達に嫌われたくなかった。


 今考えると、それも必然だと思う。学校という、ただでさえ狭い社会の中で、今までとても仲良くしてきた友達に陰口を言われたのだ。ショックを受けて、現実を受け入れられなくても無理はない。


 中休みの事だった。廊下に置かれた小さなピアノを、誰かが弾いている。さっきから聞こえてくるいい音色。それにどこかとげとげしさを感じるのは、気のせいだろうか。


 読んでいた本をしまい、鈴は廊下に出る。


 と、目を見開いた。


 ピアノを弾いていたのは、朝 鈴のことを悪く言った子だった。鈴は、足が動かなくなるのを感じた。今まで良い音色だと感じていたメロディーが、急に自分を責めている気がしてきた。


 立ちすくんだ時、その子と目が合った。

 その子は、明らかに作り笑いととれるような笑いを顔に張り付けた様子でこちらに声をかける。それとも、作り笑いと感じるのは被害妄想?


「どう?今の上手だった?」


「うん、上手だった」


 懸命に芝居をする。上ずった声で答えてしまい、感づかれたかどうかとハラハラする。その時、その子が意地悪く付け加えた一言がなければ、鈴は音楽を捨てずに済んだかもしれない。



「それにしても鈴ちゃんって、男子たちと仲良くするのが得意だよね」



 友達の発言の真意がわかるまで、数秒かかった。友達と、鈴の目が、合う。

 人の悪い笑みともとれるその笑みは、軽蔑したような笑みに見えた。

 もう限界だった。


「あ、用事思い出しちゃった。またね」


 鈴は教室に駆けこんだ。

 鈴の予想通り、外に行った人たちが主で、中は閑散としていた。

 鈴はショックで震えていた。これが何に由来する感情なのか、当時はわからなかった。


 今なら、はっきりとわかる。


 鈴は、友達に裏切られたと感じたのだ。


 六年生になってから、理恋と絢と三人で話しているときに、恋愛話になったことが一度だけある。その時、あの記憶によって少し、そういうジャンルに対しトラウマになっていた鈴は、そのことを話して遠慮してもらった。


「え、なにそれ。あたし、鈴ちゃんとは違うクラスだったからその話知らないけど…」


 絶句する理恋の横で、絢が憤っていた。


「大体、それ誰?何でもかんでも自己中心的に考えすぎ。っていうか、精神年齢幼すぎるじゃん」


「いや、まぁ、二年生だから、幼いものは幼いけど…」


 苦笑しながら鈴が言うと、理恋がふと口を開いたことを思い出した。


「でも、よかったね」


「え、何が」


 反射的に、そんなわけないのに、理恋に面と向かって悪口を言われるような気がした。しかし、理恋が口にしたのは、予想外のことだった。鈴がびくりとしたことに気づき、慌てたのかもしれない。弁解するような口調で彼女はこう告げた。


「あぁ…、そりゃぁ、鈴ちゃんとしてはすごい嫌、だったかもしれないけど、その陰口を聞いて、その子の本性を知れたっていうか。

 このままその子と仲良かったら、きっと鈴ちゃん、今頃ひどいこと言われてたかも…。なんか、変な話しちゃってごめんね」


「いや、そんなことないよ」と、鈴。


「でも確かに、そういうやつとは縁を切った方がいいよ~」


 絢は、「もしここにそいつらがいたら、私ならこうしちゃうかなぁ」と言いながら、消しゴムを机に置いた。そして、思い切り指ではじき、乾いた笑いを顔に浮かべたのだ。


「「……?!」」


 理恋と絶句しながらも、二人の友達は、一緒に腹を立ててくれたと言うことに気づき、鈴は少し、嬉しくなったのだ。


 鈴は絢と歩きながら、やるせなさに唇をかんだ。

 泣き出したいような気持になってくる。


 ピアノに対して思い入れのある人であるならば、それを呪いにしただろうか。ポジティブな感情を持っていたなら、ピアノに対してネガティブな物事を働かせるだろうか。


 答えは、ノー、だ。


 だけど――、

 ピアノに対してトラウマを持つ人ならば、それを呪いに、するかもしれない。


 頭の中で、それを認めている自分がいる。


 音楽が苦手なのは、今も変わっていない。それに関して、ピアノはあまり関係ない。でも、ピアノというと、悪口を言った子の、軽蔑ともとれる笑いが、脳裏に浮かんでしまうのだった。もしそれが、『トラウマ』に入るのだったなら。


 鈴は、『その人』らを生み出した犯人は私かもしれないと思い始めていた。


       (二)


 絢の誕生日に流れる音楽は、定番の誕生日ソングではない。世間はこの日を基本的に別の日と認識していて、それを絢の誕生日と結びつけて考える人はそうそういない。


 今年も、絢の誕生日はやってくる。

 十二月二十五日。


 学校でも、町でも、スーパーでも。

 ありとあらゆるところが、クリスマスムードになっている。


 毎年誕生日がクリスマスと被る絢は、事実、誕生日プレゼントをもらったことがあまりなかった。


 たいてい、クリスマスプレゼントとかねて渡されるからだ。

 そんな現実に、絢はもうとっくに慣れている。


 店から流れるクリスマス・ソングを聞きながら、絢は自分になついている野良猫をなでる。


「ブチ」


 絢は野良猫の名を呼ぶ。


「私さ、再来週誕生日なんだよね」


 野良猫は、聞いているそぶりを微塵も見せない。ちょっと切望しながらも、当たり前だよな、と思う。もうすぐ誕生日なの、そう言われて自分にできることは、ないことが多い。


 五年生の誕生日、学校でクリスマスソングをピアノ演奏している女の子がいた。

 すごい、単純にそう思った。

 私にはあんな演奏、できっこない。


「絢ちゃん、弾いてほしい曲ある?」


 女の子――砂代が、絢に気づいて廊下に置いてあるピアノから身を起こして問いかけてくる。


「『ハッピーバースデー』がいいな」


「今日、誕生日なの?」


「うん」


 砂代はおめでとう、と言って、鍵盤に手をかける。


 砂代が弾いてくれた『ハッピーバースデー』は、とても迫力のある演奏だと思った。


 それを聞きながら、砂代は優しい女の子だと、つくづく思う。

 ピアノに思い入れがある点では、私が一番当てはまるかもしれない。


(だけど、私なら、そんないい思い出のあるピアノを、呪いに利用したりしない)


 絢は暗い廊下を鈴と並んで歩きながら、そんなことを思っていた。


      (三)


 理恋は、ピアノに対してなんら『思い入れ』とかがない。


 だからずっと、だれが、自分たちをこんな目に合わせた『その人』なのかを考えていた。


 竹山があった、理恋にそっくりだという顔のない『その人』。

 思い出すだけで、考えるだけで、寒気がする。


 心当たりはない。

 だけど、忘れているだけで、本当は、『その人』の正体が私かもしれないんだ。


 それを示しているのが、竹山たちが見た『その人』の姿が理恋に似ているという事実。


「バカ!リコじゃないよ!」


 砂代は、竹山に抗議していたけど。

 実際のことはわからないんだよな、と、心を薄暗い影が覆った。


      (四)


 三階に続く階段をのぼりながら、長橋は考える。


 ここに俺たちを集めた奴は、顔のない少女を生み出したという。しかも、その少女は決まって、竹山と雲田の前に現れている。少女を作り出した人物は、本当に俺らの中にいるのだろうか?


 もしかして、竹山と雲田に何らかの言いたいことがあるのではないのだろうか?それとも、二人の前にばかり現れるのは、単なる偶然なのだろうか。


 ピアノに関係のある人物。俺らを集めた動機は何なのか。単なる「クラスメイト」として集めたいのなら、もっと他にも人がいるのに。


 しかもこれがなかなか厄介だ。

 集まった人の中で女子が多いのなら、集めたのは女子の可能性が高いし、男子ばかりなら、集めた人物は男子である可能性が高い。なのに、集められたのは八人。男子と女子、四人ずつ。


 こんな状況下で、恐怖心に支配されながら、俺たちにどうやってその人物を突き止めろというのか。


 長橋はそれが聞きたい。流石にこんな事態が続くと、イライラしてくる。女子はヒステリーになってくるし、男子だって自棄やけになってくる。


 まったく、すべてが悪循環だ。


 長橋は階段をのぼりながら、半歩遅れてついてくる理恋のことをちらりと見た。さっきまであんなに強がっていたくせに、こいつときたら、体育館の件ですっかりナーバスになっている。「殺されるかも」なんて言い出すから、全く厄介な奴だと思う。


 前を向き、階段を上りきったところで、長橋はもう一つの公になっている疑問点を考えた。


「集めた人物は、ピアノに思い入れがある」――。


 長橋の、ピアノに関する思い出。

 少し考えたところで、長橋は首を横に振る。


 ピアノと言ったら女子だろう。そりゃぁ、男子だってピアノを習っている奴はいる。でも、自分は習っていないし、音楽に対して特に得意とも苦手とも感じていない。音楽に対して何ら感情を持ったことがなかった。


 ピアノに関する、思い出。思い入れ。

 その時、アッと、思い出した。


(待てよ)

(もし、入学以前のことも含まれるのだったら)

(悪意ではなく、善意でもなく、ただ単にピアノを見てそれを思い出すだけだとしたら?)

(それも、含まれるんだったら)

(俺かもしれない――)


 長橋は、ピアノに対しても、音楽に対しても、他意がない。得意でもないし、苦手でもない。でも、それを見てただ単に思い出すだけだったら。

 もし、そうだったなら――。

 長橋は、幼稚園時代のある日の出来事を思い出した。




 午後三時。


 冬の日は早い、よく大人たちの言うことだ。それをあまりよく理解できていない幼稚園時代の事だった。


 帰りの会が終わり、長橋は幼稚園のリュックサックをもちあげる。


 制服でない長橋の幼稚園では、毎年服でも必ず半そでの男子がいる。長橋だってその一人だ。母親に反対されてジャンパーは持ってきたが、それも今はリュックに乱雑に押し込まれ、リュックがかなりの膨張力に耐えている状態だった。尤も、唯一指定のこのリュックは、とても小さかった。


 西日のまぶしい教室。長橋は手でひさしを作って顔を守りながら、リュックを背負い、教室を出た。


 長橋の教室は、他の教室と違う作りになっている。ふつうは廊下から出てホールに行き、下駄箱で靴を履き替えるのだが、長橋の教室は、廊下と反対側の扉を開けると、そこが入り口になっているのだ。


 そこから階段を下りて、砂場の前を通れば他の子と同じ通路になる。


 今は十二月。


 クラスメイトの女の子たちが手袋を出して、コートを着、「寒いよねぇ」という中、一瞬だけこちらに視線が送られる。長橋は慣れっこだった。半袖だからと言ってどこか非難めいた視線で見られるのも、「寒くないの?」と遠慮がちに尋ねられるのも。


 長橋は階段を降り、幼稚園の方面別のバス待ちの列に並ぶ。


 一刻も早く家に帰ってゲームをしたい。

 そう思っていた時だった。


 後ろから声が聞こえてきて、次いで肩をたたかれた。


 声が聞こえてきても振り返らない長橋にしびれを切らした誰かが、気づいてもらおうとしたのだ。


 振り返ると、見知った顔が立っていた。


「ああ…」


 それは、クラスメイトの女の子だった。


 名前は、桜井さくらい真紀まき


 長橋と桜井はなかなか話す機会がなく、桜井はいつも周りの女子に囲まれているので、長橋がどちらかというと避けている相手だった。


 長橋は、女子が集団でいるところに入っていくのが不快でたまらなかった。


「平斗君、ちょっといい?」


 桜井は、周りの女子に比べて物言いが静かだ。そして大人びた印象を、どこかに持っている。それ故に周りの女子からリーダー扱いされているのだろうが。


 そんなことを考えながらコクリとうなずく。


 すると桜井は周りに目を走らせてから、手招きをした。


 長橋は驚いた。


 バス待ちの列から動くと思っていなかったのだ。


「ちょっと俺のリュック持っといて」


 後ろに並んでいたクラスメイトに荷物を預ける。その様子を、桜井は心配そうに見ていた。


 長橋は桜井に続く。


 桜井は長橋の半歩前を歩きながら、砂場の後ろにある倉庫裏に案内した。

 そこは人目につきづらく、かくれんぼでも有利な場所として知られていた。


「平斗君、言いたいことがあるの」


「何?」


 バスを待っていたのにと、この時の長橋は少し不機嫌だった。そんな彼の様子に気づいたのか。桜井はたじろ気ながら口を開く。長橋は彼女の顔を見て、いつもと正反対に真っ赤になっていることに気づき、驚く。


 桜井は目をつぶって、深呼吸した後、思い切ったように長橋に告げたのだ。


「平斗君、もしかして、ピアノを壊したの?」


「……は?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 ピアノを、壊した?俺が?なんで?どこの?なんでこいつは俺のことを疑ってるんだ?

 長橋の中で、いろいろな疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。


「ホールの、ピアノ。先生が朝、『誰かが壊したのね』って言ってたやつ」


「ああ…」


 やっと、おぼろげに思い出す。


 今朝、長橋が廊下を歩いていた時、右手にあるホールから先生たちの声が聞こえてきたのだ。


 直感的に、聞いてはいけないジャンルなのではないかと思った。ただし、引こうにも引けない場所にいたのと、あとは少しの好奇心で、長橋は物陰に隠れて話し声を聞こうとしていた。


 周りを見渡すと、段ボール箱が積み上げられた物影が目に入った。


 長橋はもう一度、先生たちのほうをちらりと見ると、あとは速足で物陰に飛び込んだ。


「きゃっ」


 物陰に飛び込んだちょうどその時、物陰から女の子の小さな悲鳴が聞こえた。


「うわっ」


 つられて長橋も声を出してしまって、慌てて両手で口をふさぐ。

 目の前の物陰でしゃがみ込んでいた女の子、それが桜井真紀だった。


「なっ、何してるの、ここで」


「見たらわかるでしょ、ハンカチ探してるの」


「見てもわかんねぇよ」


「そう?」


「うん」


 そんな、互いにびっくりした状態でのやり取りがあった直後、先生たちの声が聞こえてきた。


「誰が飛ばしたんだろう、これ」


 二人ともその場で、硬直した。とうとうやってしまった。意図的な盗み聞きは初めてだ。桜井もそれは同じだったらしい。ばつが悪そうにしゃがみこんでいた。


 が、ハッとしたのか、桜井が長橋を手招きし、物陰に誘導する。


「見つかっちゃったらだめでしょ、ここに隠れて」


「え……うん」


 正直めんどくさかったし、彼女の言動の意味も分からなかったが、長橋は桜井の横にしゃがみこんで先生たちが戻るのを待つことにした。


「考えたって埒が明かないわ、捨てちゃいましょうよ」


「そうね、そうしましょう」


 先生たちが、何かを手にして長橋たちがいるのとは反対側の廊下のほうへと去っていく。持っている何かに見覚えがあった。あれは、もしや――


「平斗君!」


 後ろから突然、桜井の小声の叫びが聞こえた。

 振り返ろうとした途端、頭上に黒い影がかかる。その持ち主の声がして、二人は飛び上がった。


「平斗君と真紀ちゃんじゃない。ここで何してるの?みんな教室にいるわよ。悪いこと、してないでしょうね?」


「し、してないっ!」

「してませんよ!」


 二人は大声で叫ぶなり、廊下を駆け出した。


 二人とも必死で、振り返るとこちらを怪訝そうに見つめる先生の姿が目に入るので、なおさら怖かった。怒られませんように、と思った。


「へ、平斗君は、一緒にハンカチを探してくれただけです!」


 桜井が振り返って叫び、さらに走る速度を上げたので、長橋は慌てた。


 臨機応変な言い訳って、こういう時にするんだな。


 そんな難しい言葉じゃないけど、同じ内容を心の中でつぶやいた。



 そんなわけでおそらく桜井は、大きな勘違いをしている。


 一つ目、先生たちは壊したなどと言っていない。「飛ばした」といったのだ。


 そして、先生が最後に持っていたのは泥だらけの紙飛行機だ。おそらく誰かが


「危険だから飛ばさないでね」


という先生の忠告を無視して飛ばした結果、池ボチャしたのだろう。


 長橋が最初に「聞いちゃいけないジャンルだ」と思ったのは、半分当たって半分外れていたのだった。



 桜井に説明すると、桜井はハッとした。言う前よりももっとばつが悪そうにして、


「ごめんなさい」


と謝る。クラスメイトを疑ったのが気がかりなようだった。


「謝らなくてもいいけど」


「あと、その、紙飛行機飛ばしたのたぶん、私の友達だと思う」


「え」


 驚いて桜井を見ると、桜井は驚くことに目に涙をためていた。悪いことだから誰かに言ったほうがいいという気持ちと友達を売りたくない気持ちが戦って、前者が僅差で勝ってしまったのか。今は、後悔の気持ちが大きいようだ。


 そんな彼女に長橋は戸惑う。彼女は慌てて、語気を強めて続けた。


「平斗君、お願いだから!内緒にして」


「内緒にするのは、もちろんだけど」


 あっさり承諾してしまうと、桜井は膝から頽れるようにしゃがみこんだ。近寄るのもなんだか気が引けたので、長橋は


「じゃあ、また明日」


というなり背を向けてバス停へと向かった。


 今思うと、自分がピアノが好きだからと言って飛躍するのもどうかと思うし、すぐに長橋を疑うのもお門違いだと思うのだが、幼稚園児だから、しょうがないか。



 桜井真紀が事故死したのは、それからきっちり三か月後の事だった。


 桜井が優勝を目指していたピアノのコンクール。そこで演奏終わりに、地震が起きた。そして演奏していた桜井の真上にあったというシャンデリアが、桜井に落ちてきたのだ。


 計三十キログラムのシャンデリアが乗った状態で、桜井が見つかったのは、他の皆が避難所に避難した後だった。場は騒然としていて、誰も桜井に気を配る余裕はなかったのだ。


 シャンデリアで圧迫されてなお、桜井の体はよく頑張った。


 しかし、救急車が来る直前、両親の腕の中で、桜井は静かに息を引き取った。


 桜井が死の直前につぶやいた言葉。それを桜井の両親から聞かされた時、長橋は何とも言えない気持ちになった。


 やるせないでもなく、後悔でもなく。ただ驚きだけだった。

 桜井は死の直前、こうつぶやいたそうだ。


「疑って、ごめん」


「えっ」


 桜井の両親が、真紀と同じクラスの児童に、この言葉の意味を知っているかどうか、片っ端から聞いて回っていた。


 咄嗟にあのことが思い浮かんだけれど、本人に、内緒にすると約束していた。両親にでも、ばれたくないのではないか――少なくとも、長橋だったら絶対に知られたくない。


 だから、長橋は誰にも言わなかった。



 けれど長橋は、それを今の今まで引きずって生きてきたわけでもない。なぜなら、桜井が死んだのは、幼稚園の卒園式が終わってからのことだ。まして一年生の頃なので、それを聞かされても、「死」について実感がわかなかったから、ショックではあったけれどそれが「引きずる」に結びつくようなことはなかった。


 だから、『その人』の正体は、絶対に自分ではない。自分は、こんな真似、しない。

 でも、だとしたら、誰なんだろうか。考えるとわからなくなる。いったい、誰が――。


 長橋は思考に強引にピリオドを打ち、相変わらず半歩遅れて歩いてくる理恋を、いらいらと振り返った。


――その時、奇妙なものを見た。


 廊下の端にかけられた姿見、その中に、見慣れた姿が。

 やや短めの髪を一つ結びにした、少女が鏡の中に立っている。

 その少女には、顔があった。すぐに判別のつく顔だ。


「――!」


 その人物の名前をつぶやいて、振り返る。

 しかし、少女が映っていたホールあたりには、誰もいた形跡がなかった。

 足がかすかに震え始める。

 心臓の動悸が速くなってくる。


「そんな、まさか――」


「長橋?」


 後ろから理恋が怪訝に呼びかけてくるのが聞こえる。


 そんなまさか。俺らをここに集めたのは、あいつだったのか?それとも、あれはただの幻覚なのか?あの姿は集めた主の本当の姿ではなく、単にあいつが、集めた人物にとって大切な人物だったから現れただけなのか?


「――っ、――!」


 鏡に近づく。


 しかし、そこにもうその少女の影も形もなかった。

 竹山と雲田からは、顔のない少女だと聞いていたのに。それとも今俺が見たのは、二人目の『その人』だったのか?


「長橋、大丈夫なの?」


 見ていて怖くなったのだろう。

 理恋がこちらに近づいてくる。

 長橋は理恋に、今見たものを伝えようと思った。


「あの、今ッ――、うっ!」


 突然、右のこめかみに強い痛みが走った。視界がゆがむ。痛みは刻一刻とひどくなる。


 まるで巨大な針で右のこめかみを強くつつかれたような痛みが、右のこめかみだけでなく、全身に回ってきた。


 うめき声を漏らして床にしゃがみ込む長橋に、理恋が声をかける。しかし長橋の中でそれは言葉として認識されていなかった。


「あぁっ、ああ――、アッ!」


 最後に強い衝撃が走り、突然痛みはやんだ。

 今のは何だったんだ。呆然とする長橋の視界に、理恋が映る。そして、今自分が理恋に何かを伝えようとしていたことを思い出した。


「今、鏡の中に――、あれ?」


 指先がすっと冷たくなり、自分が地面に沈み込んでいくような気がした。


「思い、出せない」


「え?」


 手に冷や汗が滲み始める。


 長橋は、鏡の中に見た人物の顔を思い出せなかった。


 まるで、ここに自分たちを集めた人物が、証拠を隠滅したかのように。


 一人ひとりに悟ってほしいからと、長橋が全員に言うことを恐れて記憶をかき消してしまったかのように。


      (五)


「サヨの、ピアノに関する思い出、かぁ…」


 砂代は一樹と廊下を歩きながら、考えていた。

 一樹はその声に、顔を上げる。そして、少し疑問を持ったような顔で砂代に言った。


「砂代はピアノ習ってるし、思い出とかたくさんありそうだけど…」


 その声に、思わず砂代の声が険悪になる。


「なにそれ。一樹もしかして、砂代が犯人じゃないかって、疑ってない?」


 自分にそんなことをした覚えはない。でも、無意識にそうしてしまっていたら?思いが強い時は、生霊が現れるとか、理恋から教えてもらったホラー話はたくさんある。

 正式な言い方は分からないけど、無意識のうちに何かをしてしまう、と言うことがあるのではないか。また六の四に集まったときでも、理恋に聞いてみよう。


 ピアノに関する都市伝説。


 その時、はっと、思い浮かぶ考えがあった。


 何も、「ピアノに思い入れがある」ことが『その人』の正体である絶対条件ではないのかもしれない。ただ単に、その都市伝説しか知らないだけだったら。それしか知らないから、それと有名なこっくりさんを利用して集めたとか――。


 思ったところで、いや違う、一人で頭を振る。勘というのだろうか、それは少し、事実と異なる気がした。


「いや、砂代を疑っているわけじゃないよ」


 慌てて一樹が言った。

 その声にふと我に返り、砂代は一樹の肩をたたく。


「冗談。こんなの、誰にだって可能性くらいあるでしょ」


 明るくそう言って、二人はまた歩き出した。

 静かな廊下。耳をすませば、微かに仲間の声が聞こえてくる。


(理恋じゃ、ないよね)


 不安なこと。


 さっき、みんなは気が付かなかったかもしれないけど、竹山は何か悟ったような顔をしていた。

 あいつが何を悟ったのかはわからない。

 だけど、これもまた、六の四に行ったときにこそっと聞いてみよう――


 うん?


 思考がごちゃごちゃになってきて、いったんそれを止める。七不思議を見つけないと。動機なんか後で、考えられる。


      (六)


 俺は、音楽室で休み時間にピアノを弾くことに、興味があった。


 竹山はそう思う。


 世間的には「珍しい」らしいが、竹山は男子ながらにピアノを習っている。


 友達にも上手だと褒められるから、少し嬉しいと思っている。中でも、同じくピアノを習っている砂代に上手と褒められたときは、嬉しかったし、同時になんだか印象的だった。


 ピアノを弾き始めてから、中休みや昼休みに音楽室から聞こえてくるピアノの音色に興味を持った。


 だけれど、だ。

 俺は、そんなピアノを、皆を呪う道具として使ったりはしない。それだけは確信がある。


 『その人』の正体は、俺ではない、絶対に。


       (七)


 静かな一階のホールで。


 『その人』は時計を見上げている。


 声も出さずに、ただただ静かに見上げている。


 時計は今、ゆっくりと、一分の時の間を移動している。


 『その人』は口の端を引いてにやりと笑った。


 それは、薄暗いホールの闇の中で、ひときわ不気味に見えた。


 が、それもほんの一瞬。『その人』は砂絵のように淡くなり、やがて消えてしまう。


 『その人』がさっきまでいた場所に、窓から差し込む細々とした月明かりが届いていた。



 タイムリミットまで、あとちょうど三時間半。

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