夜の学校

       (一)


 家で大島とビデオ通話をしていた雲田は、ふと部屋の外から母親に呼びかけられた。


「夢太、まさかまだビデオ通話しているんじゃないでしょうね?ずっと部屋に閉じこもっているのはよくないわよ――おつかい、頼めるかしら?」


「今無理」


 咄嗟に応えると、母親の声が険悪になったのが分かる。


「今何やってるの?部屋に入ってもいい?」


「げ」


 喉の奥で悲鳴を上げ、大島に別れを告げると、雲田は通話アプリを閉じる。

 スマホを机の上に投げ出し、ベッドに飛び込んだところで、部屋に母親が入ってきた。


 両手いっぱいに洗濯物の入ったかごを持った母親は、ベッドに横たわった雲田を見るとまず「だらしないわねぇ」と言ってため息をついた。


「なんだよ?疲れてるから寝てるんだろ」


 思わず口答えすると、母は


「とにかく、おつかい頼むわね。もうすぐ雪降りそうだから、お母さん洗濯物取り込まなきゃならないし」


といった。こちらの返事を待っているのが、気配で伝わってくる。


「俺が洗濯物取り込むんじゃだめ?」


 ダメもとで聞いてみると、母は厳しい顔になって断る。


「駄目よ。あんたったら、雑にポン、ポン、ポーンって洗濯物おきゃいいみたいにしているけど、それじゃしわくちゃになっちゃうのよ。さぼろうとしているだけでしょう。雪が降る前に行ってきて頂戴」


「分かったよ」


 矢継ぎ早に責め立てられて口答えが面倒になり、雲田は両手をあげて母の言葉を制する。


「買い物行きゃいいんだろ。何買うの?」


 しぶしぶ言った雲田に母は、あらかじめ頼む気でいたのだろう、買い物リストを渡してきた。

 母の筆跡で、買うものが箇条書きに記してある。

 それを見て、「めんどくせぇ」と思う。


 しかし、口答えしても体力の無駄な消費になるだけだ。


 雲田は母から渡されたお金とリストをポケットに突っ込む。商品を入れる用のトートバッグを持つと、出かけようとする。


「夢太、コートを着て行かないとダメでしょう。寒いのよ、今日は」


 言い争うのが面倒で、雲田はつい


「はいはい、分かってるって。今着ようとしていました」


と言ってしまう。


「あっそう」


 気を付けていくのよ、母の言葉を聞き流し、念のためと持たされた折り畳み傘を手に、雲田は家を出た。



 スーパーにつき、メモを確認する。

 野菜売り場に行く途中で、肩をたたかれた。

 ふりかえると、竹山がいた。


「おい、夢太。こんなところで何してるんだよ」


「母ちゃんにおつかい頼まれたんだよ。お前こそ何してんの」


「俺?俺は、母ちゃんが西野の母ちゃんと偶然会ってあそこで話してて、なげぇから抜け出してぶらぶら散歩してたらお前がいたから」


 竹山は魚売り場を指さす。なるほどそこでは、竹山の母と理恋の母が話し込んでいた。


「おいっ、竹山、買い物手伝えよ」


 ふと思いついて言うと、竹山は予想通り


「はぁ?いやだよ、自分でやれよ」


と断る。


「そういわずにさ。頼むよ、早く帰らねぇと、俺母ちゃんに殺されちまうよ」


 もちろん比喩表現なのだが、竹山は恐らく気分で了承してくれた。「ま、散歩だけだとつまんねぇからな」というのが理由だった。




「ありがとな、竹山」


「いや、大丈夫だ」


 レジで買い物を済ませ、買い忘れがないかを確認した後、雲田が竹山に言った。


 竹山が手をひらひらと振って「大したことねぇよ」と言う。雲田が竹山と別れようとした時、変な光景が目に入った。


 店の、人気のない通路の隅に、一人の少女がうずくまっている。


 なんだか見覚えのある背中に見えるのはなぜだろう。


 しばらく考えて、漠然とした結論が出る。


「…西野?」


 小声でつぶやくと、それに竹山が反応する。


「西野がどうかした?」


「あそこにいるの、あれ、西野じゃないか?」


「どこだ」


「ほら、あそこの通路にいるやつだよ」


 隅を指さすと、竹山はやっとそれを見とめたらしく、軽くうなずく。


「確かに西野に似てるな。にしてもあいつ、あんなとこで何してるんだ?あいつの母親、俺の母ちゃんとあっちで話してるのにだぜ」


「知らねぇよ。声かけてみようぜ」


 なんだか言い知れぬ胸騒ぎを覚えた雲田が提案すると、竹山が振り向いた。あっけらかんとした口調で言う。


「お前、家に母ちゃん待ってるんじゃないのか?冷凍食品なら早く帰ったほうが身のためだぞ」


 身のため、とは、何の教訓であろうか。

 反応には困るが、とりあえず


「この吹雪だったら、そう簡単に溶けないだろ」


 と言っておいた。


 竹山はまだそれでも雲田を見つめていたが、最終的には賛成する。


「まぁ、確かに気になるっちゃぁ気になるもんな」


というのが理由だった。


 重い買い物袋を持ち直し、雲田は隅の通路に歩いていく。冷凍食品も買ったので早めに帰らなければいけないのだが、この寒さではそう簡単に溶けることもないだろう。


 二人で通路に向かって歩き出す。


 あいつ、ここで何してるんだよ、しかも薄手の上着しか着ないで。寒がりのあいつにしては、おかしいな。

 雲田は心の中で疑問に思う。


 人気のない通路に入ると、なんだか不気味な感じがしてくるのを感じた。周りの棚が、自分たちを圧迫しているような感じ。

 電気がついているはずなのに、それでも暗く感じる。

 西野のせいで、明かりがそのあたり一帯分全部消えてしまったみたいだ。


 そんな雲田の様子に全く気付かず、竹山は西野に近づいていく。


 竹山に追いつこうと、駆けだしかけたところで、少し濡れたスーパーの床に足を滑らせそうになり、少し体勢を崩す。


 顔をあげた時、西野の顔を、雲田ははっきりと見た。


 顏からすっと血の気が引く。指から力が抜けていく。

 肺がギュッとわしづかみにされたような、衝撃を感じた。


 雲田が顔をあげた時に垣間見えた顔。


 その顔には、目も鼻も口もなかった。

 ただ蹲っているだけののっぺらぼう。


 そんな状態の西野がいる――。思ったところで、違和感にたどり着く。


 いや、こいつは、西野じゃない。西野は明るいところが好きなはずだ。一年生から近所にいる雲田は、西野の幼馴染のくくりに入る。西野はたまに気分転換に一人になることはあっても、人懐こくて寂しがりな性分もあり、基本はいつも誰かと一緒にいた。一人の時も、隣の空き教室とか、自然光の入るような明るいところを選んでいたはずだ。


 のっぺらぼうに気付き、西野じゃないことに気づく。


「竹山、戻って来い」


 歯と歯の間から、やっと声を出す。

 駄目だ、竹山はあいつに近づいてはいけない――。


 西野のフリをしたのっぺらぼうは、雲田が自分の正体に気づいたことに、気づいているのだろうか。


 顏のない『その人』からは、一切の感情が読み取れない。


 ただ蹲ってこちらに顔を向けようともしないのっぺらぼうに目を向けたまま、その肩に手を伸ばしかけた竹山に向かって、雲田は危機感から、大声で叫んだ。


「竹山、戻って来い!」


 そいつは西野じゃない、顔がない。やめろ、近づくな。

 必死に訴えかけるが、竹山はきょとんとするだけだ。


 その指が、のっぺらぼうの肩に触れようとしている。

 一瞬だった。

 当事者の雲田にも、飲み込めた実態は一部だけだった。


 のっぺらぼうが、竹山を振り向いた。

 竹山が、「お前どうしたの?」と問いかけようとした途中で硬直した。


「うそだろ…」


 竹山が後ずさる。

 雲田も駆けだそうとした。

 瞬間、だった。

 のっぺらぼうの手が、竹山の手首をつかんだ。


「うわぁっ!!」


 竹山の叫び。雲田は大声で悲鳴を上げる。


〈呪ってやる――〉


 地の底から響くような声が、雲田の耳に響いてきた。


「え…?」


 突然、何の前触れもなしに、めまいがしてきた。

 くらくらする視界に、雲田はがっくりと膝をつく。


 だんだんと意識が遠のいてくる。

 薄れていく意識の中に見たのは、竹山を掴んでいるのとは反対の手が、体を置き去りにしてこちらに伸びてくるところだった。


 瞬間、雲田は手を蹴飛ばした。


 思いもかけぬ反乱に、手が一瞬ひるむ。


 めまいのする中、それでも力を振り絞り、雲田はスマホのチャットを開いた。


「昼間のこと、覚えてる?」


 何を打ったのか、正確にはっきりとは覚えていない。

 ただ、大体そんな内容だったのは覚えている。

 今頭の中で流れ始めたピアノの旋律。それがだんだん、脳内に響いてくる。

 雲田は駆けだす。


 しかし、数歩と行かないうちに、足首を掬われて派手に転んでしまった。

 足首をつかんでいるのは、白くて細いのっぺらぼうの手だった。


 大悲鳴を上げ、雲田の意識が遠のく。

 懸命に振り払おうとするが、手は簡単に折れそうなのに、とても力が強かった。

 むしろ、こちらの足が折れそうだった。骨が悲鳴を上げている。痛みが常軌を逸している。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」


 再び意識が遠のいてきた。

 その意識を失う直前、雲田がかろうじてチャットに打ち込めたのは一言だけだった。


「タスケテ」




      (二)


 鈴と絢は、鈴の家で遊んでいた。


 鈴の部屋の真ん中に敷かれたラグに、トレイが置かれている。

 その上に、クッキーが数枚置かれていた。


 鈴の母が会社の同僚から旅行土産にもらったようで、たくさんもらい過ぎて、「二人で食べなさい」と、少し部屋に運ぶことを許してもらったのだ。


 そして団らん中、鈴がもたらした『あるニュース』に絢が反応した。


「それ、本当?」


 絢がクッキーを一口かじったまま、驚いて鈴に尋ねる。


「うん、ほんとみたい」


と鈴。


「えー、なんか怖い。私スマホとか携帯とか、持ってないからなぁ。鈴ちゃんは、それ誰から聞いたの?」


絢が尋ねると、鈴は


「私、スマホ持ってるよ。と言っても、お姉ちゃんのおさがりなんだけどね。

あれは、砂代ちゃんから聞いたの」


と答えた。


「雲田が謎のメッセージを送ってくる、かぁ。嫌だね、私だったらブロックしちゃうな」


と絢。


「うん。でもさ、昼間のこと覚えてるかって…、やっぱりさすがの雲田も、あの事気にしてるのかな?」


 鈴が不安そうに言った。

 絢は「大丈夫でしょ」と言いかけて口をつぐむ。


「不気味…」


 つぶやいた時、廊下から固定電話の音が聞こえてきた。


「うわっ」


 いきなり鳴ってびっくりした後、胸をなでおろす。


 しばらく二人で耳を澄ませていると、鈴の母が受話器を受け取る、それとわかる特徴的な音と、「はい、もしもし、森ですけれども、どちら様でしょうか」と丁寧に尋ねる声が聞こえてきた。


 というのも、鈴の家の固定電話には、ディスプレイがない。


「誰だろうね」


 何がおかしいのかよく分からないまま苦笑して鈴が言うと、絢も苦笑する。

 すると、廊下から足音が聞こえてきた。

 続いてドアがコンコンとノックされる。


「鈴―?電話よ」


「私に?誰から」


 ちょっと驚いて言うと、ドアが開き、母がコードレスの受話器を持った状態で


「長橋君っていう子から。鈴のクラスメイトって言ってたわ」


と、淡々と二人に告げた。


「長橋から…?」


 意外な相手で、鈴は絢の方を見る。


 絢は首を傾げ、「とりあえず出てみれば?」といった。


「そうだね」


 鈴も言って、うなずく。


「受話器貸して」


 手を差し出すと、鈴の母は鈴の手に受話器を置く。固定電話がコードレスになり、便利になったことを実感する。


「お話楽しんで」


 あっけらかんとした口調で言われ、ドアが閉まる。

 鈴はしばしの間ぼーっとしていたが、絢に


「電話に出ないと!鈴ちゃん」


と言われてハッとした。受話器を耳に当てる。


「もしもし、長橋?」


 尋ねると、受話器の向こうから、すぐに長橋の声で短く


「鈴か?」


と返ってきた。


「うん」


 言ってから受話器を床に置き、ボタンをプッシュして『スピーカー通話』モードにする。

 これで絢にも聞こえるはずだ。


「どうしたの?」


 鈴がまた尋ねると、長橋が少し切羽詰まったような声で答える。


「さっき、六の四のチャットグループで、砂代と一樹と俺の三人だけに指名して、わざわざ雲田がメッセージを送ってきたんだ」


「知ってる」


 鈴が口をはさむ。


「さっき、砂代ちゃんからショートメールが来たから。昼間の事覚えてるかって、いきなり雲田からメッセージか来たんでしょ?」


「ああ」


 長橋はまた続ける。


「知っているんなら話は早い。

 とにかく、俺は『覚えている』と答えた。砂代と一樹も同じ答えだ。

 しかし、肝心の言い出しっぺの雲田からは、メッセージが全く来なかったんだ」


「なにそれ、どういうこと?」


 通話が始まって以来、絢が初めて口を開く。

 受話器の向こうで、いきなり絢の声がしたことに長橋が驚く気配がしたが、結局何も言わないことにしたらしい。


「ああ」


と短く答える。


「しばらくして、またその三人だけに対して、ひとことだけメッセージが来たんだ。『タスケテ』って」


「タスケテ、…?」


 意味が分からず鈴が聞き返す。なんだかただ事ではないように感じた。

 怖くなっていると、絢が口を開く。


「それ、他に昼間の事体験した人にも言った?理恋ちゃんや竹山や、砂代ちゃんや一樹には?」


 絢の切羽詰まったような声に対する長橋の声も、切羽詰まっていた。


「いや。西野はスマホを持っていないし、西野の母親や固定電話の電話番号も知らない。竹山もスマホを持っていないし、砂代と一樹には連絡が繋がらない!」


「えっ?!」


 長橋は、この事態にイラついているようだ。

 鈴が驚くと、絢は冷静に口を開く。


「長橋!それ、昼間の事と関係ありそう?」


「俺には分からん。ただ、大丈夫なわけがない。さっき、間違いなく雲田に何かが起きたんだ。一番こういうジャンルに詳しい西野には、連絡のしようもない」


 だからこれから、と続ける長橋の声に、二人は少々目を見開く。


「俺は今から、学校に行こうと思う。あそこに何かがある気がするんだ」


「私も行く」


 鈴がぼそりという。隣で絢がうなずいた。しかし、それでは長橋に聞こえないことに気づいたのか、声に出す。


「私も」


 自分たちは確かに、何かに巻き込まれている。そう、思った。


「分かった」


 長橋の声は、冷静だった。


「お前ら、駅前にあるストリートピアノの前、三十分後の夜九時集合な」


「うん、分かった」


 絢と鈴はうなずいた。


       (二)


「習い事の教室に、宿題のテキストを忘れて来た」――。


 そんな漫画みたいな言い訳で、無理やり二人は家を抜け出した。


 鈴の母は「分かった。絢ちゃんのお母さんにも連絡しとくわね」そう言って、何も反対はしなかったが、防寒具だけは厳重にされた。


 そんなこんなで二人は、コートを着、ネックウォーマーをし、手袋をはめ、耳当てを付けた。


「カイロも持って行きなさい」


 厳しい顔で、問答無用というように、鈴の母が二人にカイロを差し出す。


「分かった」


「ありがとうございます」


 二人で鈴の母に返事をし、家を出た。

 外に出ると、まだ雪がちらついていた。


「ピークほどじゃないね」


 絢が空を見上げてつぶやく。


「うん、いくらかましになったね」


「うん」


 二人で駅に向かって歩き出した時、道路のむこうから声がした。


「絢ぁー!鈴ー!」


「長橋」


 待ち合わせ十分前なのに、長橋はもうついていたのだ。


「行くぞ、学校に」


 言う長橋は、それほど防寒対策をしていなかった。


「それ、寒くないの?」


 上にダウンコートを着ただけだろう。おそらく中は半そでだ。


「大丈夫だ、問題ない」


 手を振って平気ぶる長橋。

 しかし、鈴は厳しい顔で、自分のコートのポケットに入っていたカイロを長橋に差し出す。


「無理は禁物だよ、長橋。これ貸すからつけなさいよ」


「はいはい、分かったよ」


 緊張した面持ちで、長橋がカイロを自分のダウンコートの中につける。


「行こう」


 三人は歩き出した。


     (三)


 目を開けると、闇だった。


「ここは…、どこ?」


 西野理恋は暗闇に自分の手を伸ばす。


 見覚えのない、どこまでも続くと感じられる闇の中に、あたしがいる。


 現実感のない事実の中で、また一つ、理解できないことを消化しようとしている自分がいる。


 ふと、一瞬前の出来事を思い出そうとする。

 すると、走馬灯のように、頭の中を様々なことが流れてきた。

 長橋にメジャーで身長を測ってもらった。そのあと、周りのときが止まった。


 ピアノの音が聞こえて来た――。


 暗闇に目が慣れてくると、ここが学校の教室だと言うことが分かった。それと同時に、自分が横たわっているということも分かった。

 身を起こすと、さっき鉛筆が勝手なリズムを刻んだことを思い出す。


「いやっ」


 どうして自分はここにいるのだろうか。なぜ、どうして。

 とめどなくあふれてくる疑問符が、理恋の心の中に広がっていく。


「あたし、一人なの…?」


 立ち上がって、背後を取られたくないとでもいうように、理恋は近くの壁に背中をぴったりくっつけて、教室を見渡した。


 言い知れぬ恐怖感が、じりじりと理恋の中を支配し始める。どうしよう、どうしよう。朝までここで、震えて待とうか。


 そんなことを考えていると、ふと、自分の足元に何かの気配を感じた。


「何?!」


 思わず大声を出してしまい、それが冬の冷たい空気に吸い込まれ、響き渡る。

 しかし、よく見るとそれは、見覚えのある背中だった。

 しかも全部で、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。


「砂代…?」


 遠慮がちに呼びかけ、自分に一番近いところで転がっている背中をつつく。


 続いて、砂代としがみつきあっている人物、その横にさらに転がっている二人の人物に目を移し、こちらも名前を呼び掛ける。


「一樹なの…?竹山と、雲田?」


 シンとした空気に響くだけの自分の声を感じ、理恋は呼吸が浅く乱れるのを感じた。


「ねぇ、砂代!おきてってばっ!」


 背中を壁から引きはがし、砂代に駆け寄り、思い切り体を揺さぶる。


 冷たく現実感の全くない空間の中で、砂代の体から感じる体温だけが、妙に現実感を帯びていてちぐはぐだ。


「砂代!!」


 砂代の名を叫ぶと、砂代の体が、肩が、びくりと一瞬ふるえた。


「砂代」


 もう一度呼びかけると、砂代ははっと目を開けた。とたん、叫び声を上げ始めたので、理恋は驚き、また悲鳴を上げた。二人の悲鳴が共鳴し、校舎の中に響き渡る。


「砂代、砂代!落ち着いてよ!砂代!砂代ったらっ!」


 何とか悲鳴にかき消されない大声で砂代をなだめすかす。

 すると砂代は、いつの間にたくさん涙を溜めた瞳に理恋を見とめ、急に静かになった。


「理恋、サヨね、…」


「砂代、落ち着いて」


 砂代の肩に手を置く。落ち着いてと言っている理恋は、おそらく砂代よりも気が動転している。


「サヨ、落ちてたんだ、一樹と一緒に」


 砂代はなんとか自分の置かれていた状況を説明しようとしているらしいのだが、混乱と恐怖でまともに言葉が出てこないらしい。聞いている側の理恋には、全く訳が分からなかった。


 特に砂代は「落ちていた」「一樹と一緒に」を連呼し、理恋がそこから得られた情報は「砂代は一樹と一緒にどこからか落ちてきた」らしいと言うことだけだった。


「砂代、落ち着いて。もう大丈夫だから」


 いつも砂代に励ましてもらっているはずの理恋が、今は混乱している砂代を落ち着かせている。


 なんだかちぐはぐに感じられるが、とりあえず砂代は泣き止む。

 弱々しく目頭をぬぐう砂代を見て、痛々しいと思いながらも、砂代の肩に手を置き直し、他の人影を見渡す。


 さっきの二人の悲鳴で眠りが破られたのだろう、三人とももぞもぞと動いていた。


「一樹」


 声をかけて近づく。なぜだか膝ががくがくと震えていた。みんなが来てくれたおかげで安堵したからなのだと、一瞬ののちに思いつく。


「砂代は?砂代はどこ行ったの?ねぇ、ここどこ?」


 いつもおとなしいのに、砂代と同じくらいの混乱ぶりを見せる一樹。しかし、彼にあまり宥めは必要なかった。一樹は自然に、一樹ひとりの力で落ち着いた。


 それを見守っている間に、竹山と雲田も動き出す。


「あれ、ここどこだ?あいつは?あいつは?どこなんだ」


「俺が聞きてぇよ、夢太、落ち着け」


 なんだか言い合っている風の竹山と雲田を見て、理恋は「ここにいる人たちは全員、別々のシチュエーションでここに来たんだ」と、漠然と考える。


「あんたたちは、何があったの?」


 理恋がせっせと聞くと、竹山と雲田は初めて理恋と砂代と一樹の存在に気づいた。


「西野?お前、のっぺらぼうじゃねぇよな」


「はぁ?」


 思いもよらぬことを聞かれて、理恋は二人の方に顔を向ける。二人はふざけている風でもなく、理恋の顔を見て相当安心したようだ。


 意味が分からず、言い知れぬ気色の悪さを感じながらも、理恋は二人から顔をそむける。


 時間は、夜の九時ちょっと前。

 どうなっているんだろう、また危機感が体に食い込み始めた理恋だが、砂代が立ち上がって言った。


「とりあえず、出口を探さない?」


      (四)


 刻一刻と暗くなる夜の空気の中を、長橋、絢、鈴は進む。


「ねぇ、長橋」


 絢が不安げに聞いた。普段なら気づかないが、こういうシーンになって、長橋が歩く速度はとても速いことが分かる。


 それについていくのが手いっぱいで、絢も鈴も、黙ってついて行っていた。


「本当に、学校にみんながいるっていうの?」


 長橋は急ぎ足を少し緩めた。

 絢と鈴が息も絶え絶えに、長橋に駆け寄る。

 長橋はコートの中からカイロを取り出した。

 それを鈴に差し出しながら、長橋が言う。


「カイロ、ありがとな。

あいつらは、絶対に学校にいる」


 長橋の言葉は短かった。

 冷えた空気に熱くなった体をさらしながら、三人は歩く。――と、いきなり長橋が駆けだした。


「っ!」


 絢と鈴も、慌てて彼を追う。


「長橋、待って!」


 三人は夜道を駆けだした。

 学校までは、もういくらもない。


       (五)


「もう、全く、どうなってるの!」


 学校の教室で。

 教室から出て、昇降口に向かった五人が、また戻ってきた後だった。

 ついに、理恋が癇癪を起して怒鳴ったのだ。

 それが引き金となり、砂代も


「ほんと。まじでこれ、どうなってるの?明らかにただ事じゃないよね」


と同調する。なんだか恐怖を通り越して、怒りが沸き起こってきた。

 現状に対する自分たちの無力さを痛感する。

 理恋は自分の体を抱く。

 理恋は家で宿題をしていたらいきなりワープした状態だ。なので、この中の誰よりも防寒対策が少なかった。


「このままじゃあたし、風邪ひきそう」


 独り言のようにつぶやき、窓際に駆け寄る。すると、さっき五人で階下に降りた時の出来事の意味が、ゆっくりとこみあげてきた。


 五人で、とりあえず昇降口から学校に出ようと、階下に降りた時だ。


 先に階段を下りて廊下の先を行っていた竹山と雲田が、急に歩みを止めるのを、後の三人は見た。


「どうしたの?」


 三人で二人の元へ駆け寄ると、三人はゆっくりと目を見開いた。

――扉がなかった。


「どういう、こと?」


 砂代の口から、絶句したような小さな声が出た。


 理恋も、胸に鈍い衝撃が走り、よろけて一樹によりかかる。一樹に倒れ掛かる寸前、砂代が理恋の体を支えてくれた。


 しかし彼女の視線は一樹と理恋、竹山と雲田と同じく、本来なら扉があったはずのところに目が釘付けになったままだ。


 本来なら扉があったはずの場所は、ただの壁になっていた。


 ちゃんと、靴箱とすのこはあるのに。

 扉だけが、まるで絵に描かれた扉を白の絵の具で塗りつぶしたみたいに、真っ白の壁になり、その場所から掻き消えていた。


「なにこれ…」


 一樹もふるえた声を出す。

竹山と雲田は、じりじりとこちらに後ずさってくる。

 全員啞然としていたが、これで一つの事実がはっきりした、そう、全員が認識したのが分かった。

――自分たちはここから、出られない。


「ねぇ、あたしたち、どうなっちゃうの?このまま出られないの?」


 矢継ぎ早に口からついて出る疑問。理恋はそれを、自分でコントロールすることが出来なくなっていた。自分で自分の感情をコントロールすることもできなくなったと悟り、理恋はなんだか泣きたくなる。

 急に自分たちが、情けない小さな存在になったような気がして、ここに自分たちをワープさせた『存在』の手のひらで遊ばれている気がして、胸糞悪い気がした。


「とりあえず、教室に戻らない?このままじゃサヨたち、全員凍っちゃうよ」


「うん」


 半分泣き声で理恋が言う。後の三人もうなずいた。

 五人で教室に戻り、今があるわけだ。


「一つ、確認しときたいことがあるんだけどさ」


 不意に、竹山が口をきいた。


「なに?」


 砂代が反応し、竹山の方に顔を向ける。


「ここにいる奴らって全員、昼間にピアノの音聞いた奴らだよな?

顔のない奴に連れられてここに来たんだよな?」


 竹山が事実を確認するような口調で全員に促す。混乱の頂点に達していた理恋は、間違いを正したいのと同時に、なんだか怒りが沸き起こるのを感じた。


「はぁ?それってどういう意味」


 竹山がこちらに顔を向ける。


「第一に、ここのみんなの共通点が『昼間にピアノの音を聞いた』だとすると、絢ちゃんと鈴ちゃんと長橋が足りない。

 第二に、顔のない奴って、誰のこと言ってる?なんか別の記憶と混ざったんじゃないの」


「え…?だって、俺ら、顔のない女子に襲われて、それで…」


「はぁ―?何言ってんの、頭、おかしいんじゃないの」


「はぁ?見たの俺だけじゃねぇもん、なぁ?夢太。夢太と俺で、二人でそいつに連れてこられたんだと思うぜ」


 話にならないと、新たな恐怖心をあおりたてるものを拒絶し始めた理恋を見て、砂代は危機感を悟る。


「理恋、落ち着いて。竹山、どういう意味?」


 砂代が間に割って入る。会話の主導権を砂代が勝ち取ったのを悟り、理恋は返事の不要を感じて顔をふいと反らす。

 だからさ、と竹山が話す。


「俺らは普通に、スーパーで買い物してたわけよ。そしたら、隅の方に西野に似た女子がいたから、こんなとこで何してんのって、声かけようと近づいたらさ――」


 竹山はその時の恐ろしさを思い出したのか、急に声がかすれだした。


「お前何してんのって言おうとしたのに、振り向いた女子の顔に、――目も鼻も口もなかったんだ」


「え…、何それ。そんなことある?だってあたしは、全然違うシチュエーションで」


 理恋が言うが、雲田と竹山を交互に見るが、二人とも理恋を見つめ返してうなずくだけだ。とても噓をついているとは思えなかった。


「え、じゃあ、砂代と一樹は?どうしてここに来たのか、心当たりあるの?さっき『落ちた』とか言ってたけど」


 理恋が二人を振り向く。二人は顔を見合わせた。ややあって、一樹が口を開く。


「僕、塾の帰りに、砂代とは違う塾なんだけど、たまたま帰りのタイミングが一緒で会ったんだ。駅で雪から避難して、砂代がストリートピアノを弾きたいっていうから、それを見てたら…」


 一樹の声がしりすぼみになり、砂代と顔を見合わせる。それを見てしまうと、嫌な胸騒ぎがしてくる。


「それで、どうなったの?」


 聞いておかないと嫌な予感が増幅するので理恋が聞く。今度口を開いたのは、砂代だった。


「サヨ、無意識にあれを弾いちゃった…」


「あれって?」


「昼間の音楽…。無意識に、弾いちゃった。

 そのあと、地割れが起きて、その中に、ほら――、二人とも、落ちちゃった」


 え……。


 理恋は竹山、雲田の話と、砂代、一樹の話を聞いて、自分とは全く違う状況だったのだと思った。そこにはなんだか孤独感が存在していて、寂しく思う。


 早く自分の状況を理解しておいてほしくて、理恋は問いかけられる前に口を開いた。


「あたしは、宿題の計ドリしてたら、勝手に鉛筆が変なリズムを刻み始めて…」


「ヘンなリズムって、昼間の?」


 砂代が問いかけると、理恋はこくんとうなずく。


「じゃあやっぱり、みんなは昼間の事がきっかけで呼ばれたんじゃねぇの」


 竹山が理恋を横目で見る。反論できないことに気づいた理恋は、何で自分はこんなに砂代みたいに簡単に「ありがとう」と「ごめんね」が言えないんだろう、と思う。


「絢ちゃんと鈴ちゃんは?長橋もいないじゃん」


 それでも反論しようと試みるが、あっさりと竹山が


「さぁな、それに関しては何も言いようがない」


というので、肩透かしを食らった気分になる。

 場の空気が少し悪くなった時だった。


 ギィ、と音がして、全員がハッと身を固くする。


「誰…?」


 理恋が震えた声で、扉の向こう側に呼び掛けた。


 扉の向こう、何人かの気配を感じる。

 一瞬ののち、ガラガラ!と扉が開いた。


「きゃぁぁぁぁ!」


 悲鳴を上げた砂代。つられて理恋も、一樹も悲鳴を上げる。


 が――、


「おめぇら、うるせぇんだよ」


 耳をふさぎながら、扉の向こうに立ってこちらを覗いていたのは、長橋だった。

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