ピアノの音
(一)
砂代は、校舎の中の階段を上っていた。
さっき、今日休んだクラスメイトの妹に連絡帳を届けるいわば「おつかい」を担任の先生に頼まれたところだった。
めんどくさいわけではないが、その妹さんは三年生。校舎の最上階、四階に教室があるのだ。砂代たちの教室は二階にある。のぼるのは正直、とても疲れる。学校の中にエレベーターがあればいいのになと、砂代は思った。
はぁー、と、誰に聞かせるでもなくため息をつき、四階に到着した。
そのまま廊下を歩き、廊下のほぼ反対側にある三年二組の教室まで向かう。
教室についた途端、懐かしい、と思った。
三年生のころはみんな、こんな風に男女関係なく遊んでいたなぁ。
「あの……」
砂代のいる入り口に一番近いところでじゃんけんをして遊んでいた男の子と女の子の二人組に声をかける。
女の子の方が、寄ってきてくれた。
それを見て感謝しながらも、やっぱり男子ってこういうところで消極的なんだよな、と思う砂代。
砂代が
「小畑さんに渡してください」
と言ってビニール製の手提げ袋に入った連絡帳を渡すと、女の子は
「分かりました」
と言って受け取った。
「ミナミちゃぁーん、お姉ちゃんの連絡帳だってーぇ」
その子がミナミという子を――小畑の妹だろう――呼ぶのを見て、砂代は教室を離れる。
急いで教室に帰らなければ、帰りの会に遅れてしまう。砂代は反射的に、廊下にかけられた時計を見た。
午後三時三十二分。
それが記憶のどこかを刺激する。
まぁいいか、下りながら思い出せばいい。
二階についたところで、誰かにぶつかった。
「うわっ」
「わぁっ」
二人して声を上げ、直後に互いに聞き覚えのある声だと認識する。
ぶつかったのは、一樹だった。
「一樹?」
なぜここに一樹がいるのだろう。
砂代がこちらの階段を使って降りたのは、こちらの階段がさっき訪れた三年二組に近い階段だったからだ。
こっちの廊下は六年生の教室とは離れている。むしろ、正反対。ここは一年生の教室の真正面だ。
まさか、自分を呼びに来たのでは――?
その結論にたどり着く。さっき見た時計を思い出すと、もう帰りの会が始まる時間だったはずだ。
「一樹、ここで何してるの?」
砂代が驚いて尋ねると、一樹は答えようとした。
しかし、その直前に、一人の一年生の女の子が、一樹に近づいてきた。
「リリ」
一樹がその女の子に対して声をかける。
リリというのは、一樹の妹の名前だ。一樹と隣の席である砂代は、一樹の話で知っていた。
合点がいき、砂代は「妹の教室に遊びに来たのか」と納得する。
「お兄ちゃん、この子、お兄ちゃんの彼女さん?」
リリちゃんが、砂代を見ながら一樹に話しかける。
一年生ながら、してやったりといった感じのにやにや顔だ。
「違うよ」
苦笑して砂代が答え、直後、一瞬だけ一樹をにらむ。一樹はにらみを受けるとしょうがないなぁという仕草をした。
「あ、一樹、サヨたちもう帰らないと」
砂代が一樹に声をかける。一樹は少しハッとした表情を浮かべると、リリに向き直った。
「リリ、じゃあね。また明日来るからね」
「うん、お兄ちゃん、じゃあね。また家で!」
手を振るリリの気配を背中に、二人は駆けだした――。
異変が起きたのは、その時だった。
急に、体が動かなくなった。
周りも動かなくなっている。
何が起こったのかわからなかったが、一樹が「どうなってるの?」といった瞬間、徐々に危機感が体に食い込み始めた。
全く動けない。前にも後ろにも行けない。
周りも、そのままの態勢で止まっている。
砂代たちは目と口だけ動かせるが、周りはもう、目の焦点があっていない。目も全く動いていない。
焦点のあっていない灰色の目を見た瞬間、砂代はいきなり怖くなった。
目で一樹を探すと、一樹もこちらを見ていた。一樹の目にも、恐怖がちらついている。
そんな二人の恐怖をもっとかきたてたのは、その時ま隣の第二音楽室から聞こえてきたモノだった。
二人は目を見開いた。
しかしどうすることもできない。
手が動かせないので、耳をふさぐこともできない。
目を閉じようにも、眼球が動いても瞼が動かないので意味がない。
タスケテ――。
二人は一心に目で助けを探した。
怖くて、声も出なかった。
(二)
絢と鈴は、二人とも帰りの支度が終わったので、音楽室の隣の図工室で手を洗っていた。
「ほんと、冬の水道って冷たいよね」
鈴が言うと、絢は
「うんうん、氷だよね」
とうなずく。
二人は暖かい教室に入ったが、騒がしすぎて向かいの音楽室に入った。
ここなら、騒がしくないし寒くもない。
「ふぅ、あっちゃん、何して遊ぶ?」
あっちゃんとは、鈴が絢を呼ぶ時のあだ名だ。
「そうだねー、何しよう」
「音楽室のピアノだ」
鈴が言った。
「あぁ、私がこの間話した話でしょ?あれ、あんまり気にしない方がいいよー」
絢が答えると、鈴ははにかむようにうなずく。
その時、大きな音とともに、音楽室の扉が閉まった。
二人はびっくりして飛び上がり、扉を振り向く。
「まぁまぁまぁまぁ…」
鈴と絢は引きつった笑みで、今の状況を弁解しようとする。
「多分、ドア・ストッパーが外れて閉まったんだよね」
というのは絢だ。
「うん、そうだよね」
鈴もひきつった笑みでそれに倣う。
「後で開ければいいよね」
絢が言い、鈴はただうなずくことしかできなかった。
二人は反射的にピアノを見た。
「まさか、このピアノのせいってわけじゃ、ないよね…?」
絢がつぶやき、鈴は引きつった笑みを浮かべ、
「まさかまさか」
と言って絢を振り向いた。
その時、鈴の目が音楽室の時計をとらえた。
午後三時三十二分――。
「あっちゃん、あれ…」
思わずぞくっとなって絢の肩をたたくと、絢は時計を見て
「まさかまさか、ピアノが鳴るなんてこと、ないよね…?」
と、震える声で言った。
秒針は怖がる二人をお構いなしに、十二に向かって回っていく。
「ひ、ひぃぃぃ…」
二人はピアノからも時計からも、じりじりと後ずさった。
鈴が怖がって時計を見続ける。
絢は音楽室のドアノブに手を伸ばし、出ようとした。
ガチャガチャ
「え…?」
鍵は閉まっていないはずなのに、ドアが開かなかった。
押すんじゃなくて、ひくんだっけ?
呆然とする頭で漠然とそんなことを考え、思い切り引いてみた。
ドアはびくともしない。
「鈴ちゃん、ドアが開かない」
つぶやくように訴える。鈴がえ?と振り向いたのを見た。指から力が抜けていく。
全身が泡立って、絢と鈴はただ、うずくまってピアノの音が聞こえないように耳をふさぐことしかできなかった。
秒針がどんどん12に近づいていき、そして。
午後三時三十三分――。
「あれ?」
絢と鈴はほぼ同時に耳から手を外した。
三十三分になったはずなのに、全くピアノの音がしないのだ。
「なぁーんだ、結局何もなかったじゃん」
絢と鈴は胸をなでおろす。
出口に向かい、ドアノブに手をかける。
ガチャガチャ
「え?」
「あっちゃん、ちょっと私にやらせて」
鈴が交代し、ドアノブに手をかけ、思い切り押す。引く。ドアノブをまわす。
ガチャガチャ、ガチャガチャ、ガチャガチャ。
まったくびくともしない。
「どうなってるの…?」
鈴が自分の両手を見つめながら言った。
「あっちゃん?!」
鈴が見ると、絢はドアを懸命にこぶしでたたいていた。
「誰かいますかーぁ?助けて!」
鈴は瞬時に絢の行動を理解し、加勢する。
しかし、一向に誰かが来る気配はしない。
いつもなら、廊下で男子たちが遊んでいるはずなのに、その気配もしないし、教室から帰りの会をするような声もしない。それとも、単に音楽室と廊下の間で音が通じにくいだけなのだろうか。
いやしかし、現実には、音楽室の外で今意識があるのは六人だけ。
その事実を知らない鈴と絢は、助けを求めようとする。
「助けてよ!」
鈴は絢の横で懸命にドアをたたく。頭の中に、今 流れている音楽がじわじわと食い込み始めた。ゾゾっと寒気のするような音楽だ。
「え…?」
鈴ははっと振り向いた。
さっきから、何かおかしいとは思っていた。
今 流れている音楽は、いつ、だれが弾き始めた?なんで私たち以外にも人がいるんだ?
鈴は驚くと同時に、恐怖よりもまず「なぜ?」と思った。
「今の今まで誰もいなかったじゃん…」
誰に言うでもなくつぶやいた途端、冷汗がドバっと出てきた。
絢も振り向いて、鈴と同じように目を見開く。
ピアノの前には、女の子が座っていた。
ピアノの座椅子はこちらからは見えないので、女の子がどういう指の動きをしているのかは見えない。顔もうつむいているので、どういう表情をしているのかも見えなかった。
「誰?」
ふと、絢の顔がほころんだ。それを見て、鈴は驚く。
「お化けだったら、こんな怖さなのかなぁ」
少し疑問に思ったんだ、絢が言って、女の子にどんどん近づいていく。
それを見ていて、鈴は空恐ろしかった。かといって、恐怖のあまり動くことなどできなかった。
「ねぇ、あなた誰なの?」
絢が女の子の肩をやさしくトントンとたたいて諭すように問いかけた。
女の子はパッと、顔をあげた。
絢が女の子の肩からやけどをしたように手を引っ込めるのを、鈴は見た。絢が恐怖に目を見開き、その場で硬直するのを、鈴は見た。
何が怖いの?頭の中が真っ白になり、鈴は思わず絢に駆け寄る。
女の子を見て、鈴は悲鳴を上げた。
硬直している絢以外にはだれにも聞こえない、長々とした悲鳴——
窓からわずかに差し込む夕日が、女の子の顔を照らし出した。
その女の子には、目も鼻も口もなかった。
女の子は手を膝に当ててこちらを見ているのに、音楽は流れ続けている。
鍵盤が、ひとりでに動いていた。
不協和音ばかりが集められた、不快極まりない音楽。
トン、トン、トトーン。
トン、トン、トトーン。
女の子は、こちらを見上げるような角度で顔を向けている。
やがて、地の底から響くような声で、女の子は、ひとことだけを二人に告げた。
〈呪ってやる――〉
突然、女の子が絢にとびかかってきた。
「あっちゃん!」
鈴が叫ぶと、女の子は鈴に襲い掛かってきた。
トン、トン、トトーン。
トン、トン、トトーン。
「いや、来ないで!」
うつむいたのっぺらぼうの顔は、何を考えているのか。今は白紙のその顔に表情があったなら、絢と鈴はそこに何を見ただろう。
女の子の顔が近づいてくる。
女の子は鈴に指一本触れていないのに、首が絞められるような息苦しさを感じた。
全身が泡立って、パニックで、泣きながら鈴は悲鳴を上げた――。
「ギャァァァァァァァァッ!!」
音楽室の中、鈴のすさまじい悲鳴が響く。
息が出来ない、苦しい。お母さん、助けて……
自分はこのまま死ぬのか、覚悟を決めようとした、その時だった。
突然、女の子が消えた。
音楽が鳴りやんだ。
「え…?」
唇がわなわなとふるえる。
足もふるえていて、腰を抜かすとはまさにこのこと。鈴はしばらく立てなかった。
絢はピアノの下にうずくまり、本当に気持ちが悪そうだ。
「どういうこと…?今の、何…?」
とめどなくあふれてくる言葉。
時計を見ると、午後三時三十四分になっていた。
「三十三分を過ぎたから、解放されたんだ」
かすれた声でそう言うと、絢が突然、出口に向かって走り出した。
「あっちゃん、まって!」
恐怖で、一人にされたくない一心に、鈴は絢を追って音楽室を出た。
音楽室を出てすぐ、誰かとぶつかった。
「きゃっ」
「うわっ」
「わぁっ」
「ひゃっ」
鈴は、ぶつかった相手を見る。黒いジャンパーが目に入り、相手が長橋だとわかった。
絢は、理恋とぶつかっていた。
理恋の後ろに、竹山と雲田の姿も見えた。
「どうなってるの――」
絢が自分の気持ちの一端を打ち明けようとしたその時、荒い息遣いとともに、新たに二人の人影が輪に入ってきた。
「ねぇ、理恋、聞いてよ!今、めっちゃ変なことがあったの!」
「もうほんと、どうなってるんだろう」
パニック状態で話す砂代の横で、青い顔をしてつぶやく一樹。
「こっちも変なことがあったの」
「俺らもだよ」
八人がひとしきり自分たちの体験を言い合ったその時。
「そこの八人!もう帰りの会が始まってますよ」
教室の中から先生の顔が見えて、理恋、長橋、竹山、雲田は え?と教室の中を見る。
「さっきまで、みんな固まってたのに…」
理恋が信じられないというような声でつぶやくと、長橋が
「それより、早く入ろうよ。でないと俺ら怒られるよ、多分」
と言って皆を中に促した。
理恋もはっとして、慌てて自分の席に戻った。
(三)
理恋は家に帰ってからも、まだ考え込んでいた。
「今日のは何だったんだろう…?」
いつも通りのことをしていただけなのに、突如みんなの動きが止まった。
そして、ピアノの音が聞こえた。
「あたし、呪われるんじゃ…?」
それに、聞いていたのが八人だけというのもおかしい。
「どうしてあの八人だけなの…?」
そして、ピンときた。
理恋、長橋、一樹、絢は、あの中休みにピアノの音の話をした。
砂代は、その帰りに理恋が話したことで知ったんだし、鈴は当然、絢から聞いたのだろう。竹山は下校中に理恋の後ろを歩いていたから、会話を聞いていてもおかしくない。
そのあと竹山は雲田と村本に追いついて話しただろうし、それでは当然雲田も知っているはずだ。
もう一つ、八人に共通することがある。
全員、三時三十三分に、音楽室の近くにいた。
理恋、長橋、竹本、雲田は廊下にいたし、鈴と絢は音楽室の中にいた。
理恋が推測するに、一樹は妹に会いに第二音楽室の近くまで行っただろうし、砂代は、先生におつかいを頼まれていたので、帰ってくるのは第二音楽室に近い方の階段を使ったはずだ。
「全員がうわさを知っている」「音楽室の近くにいた」、二つの条件に当てはまる八人が、ピアノの音を聞いてしまった。
噂を知っていても音楽室の近くにいなかった者、音楽室の近くにいても噂を知らない者、噂も知らないし音楽室の近くにもいなかった者は、固まって意識がその間飛ぶのだ。
その仕組みを頭の中で漠然と理解した時、理恋はふと気づいた。
「あたしの鉛筆…、おかしくない?」
さっきから、理恋は宿題の算数ドリルを解いていた。そのリズムが、なんか変だ。
鉛筆が机上に打ち付けられるコツっという音。それのリズムに、妙に聞き覚えがある。
トン、トン、トトーン。
トン、トン、トトーン。
普通に数式を書き、答えを書いているはずのいつもの生活の中に、ピアノの音と同じリズムが刻まれている。
「あたしの考えすぎ、だよね」
自分に言い聞かせるようにして、理恋はいったん鉛筆を置こうとする。
「え…?」
自分の意思に反して、鉛筆が動く。鉛筆から手を離すことが出来ない。少しパニックになる理恋の中で、それでも正しい計算をしようとするところも自分の中にはあって。自分の冷静な部分が、他の何よりも怖かった。
「どうなってるの…?いやっ」
トン、トン、トトーン。
トン、トン、トトーン。
その音が、いつしか昼間聞いたピアノの音と重なっていく。
ちゃんと座っている自分が信じられなかった。
めまいがしてきた。思わず天井を仰ぎ、その明るさに目がくらむ。
気持ち悪い、怖い、やめたい――。
理恋は気持ち悪さに目をつぶった。
次の瞬間、意識が遠のいていくのが分かった。
(四)
家に帰った砂代は、昼間のことを考えながらスマホをいじっている。
「何あれ…、怖っ」
動画サイトを開いて適当に動画を探していると、ふいにメッセージの通知が来た。
「あ、雲田からだ」
友利小の六年四組には、「六の四チャットグループ」が存在する。砂代もその一員だ。スマホを持っている人はほとんど皆、これに参加している。
理恋はそれをきいて、「そんなに大勢でチャットなんかして、何が楽しいんだろう」と言っていた。しかし、している砂代たち当人は、ちょっとしたいざこざ含めそれでも楽しんでいるのだ。
チャットを開くと、雲田から指名で砂代と一樹と長橋にメッセージが送られていた。
「昼のこと、まだ覚えてる?」と。
忘れるわけがないじゃないか。馬鹿なのか?と言いたくなる。しかし、少し考えたところで、砂代にも少し気持ちが分かった。
雲田はまだ、昼間の出来事が信じれていない。そのため同じ経験をしたと思われる人の中でチャットグループに参加している人にメッセージを送ったのだろう。確かめたかったのもわかるが、怖がりの砂代にとって、そのことを思い出させてほしくなかった。
かといって、返事をしないのも、なんだか言い知れぬ罪悪感を覚えるような気がして、砂代は慌てて返信する。
砂代「うん、覚えてるけど…、それがどうかした?」
このチャットグループは、返信までに最低でも十分くらいかかるのが常だ。だから砂代は、テーブルにスマホを置き、何か返信が車で違う作業をしようとする。
がしかし、予想以上に早く着信が来た。
ピロロン
ほんの数秒で、通知音が鳴る。
砂代は反射的に、飛びつくようにしてスマホの画面を見る。
チャットを開く間に、どうして今自分は慌てたのだろうといささか不思議に思うが、気にしている暇はない。
通知は、長橋からだ。
長橋「俺も覚えてるけど」
一樹「僕も。それが何か?」
砂代、長橋、一樹。聞かれた当人らは答えているのにも関わらず、質問している雲田からはなかなか返信が来ない。
砂代は軽く舌打ちをした。
だから、こいつのこういうところが嫌いなんだ。いちいち真似をしてくるところもなんだかむかつくし。この間なんか、サヨのことを変な呼び方で呼んだ。最低、と、砂代は自分の中で雲田に対して毒づく。
毒づいた後で、言い知れぬ罪悪感に苛まれ、落ち着きたくなった。
砂代は今度こそスマホを置く。
ふと時計を見たところで、少し目を見開いた。
「やばいっ、もうすぐで遅刻だ!」
慌てて部屋に入り、塾用のかばんをひっつかむ。背負うのももどかしく、砂代はスマホをもう一度取りにリビングルームへと戻る。
サイドテーブルからスマホを取り、玄関向かって駆け足になりながらもポケットにスマホを突っ込んだ。突っ込む寸前、着信音がしたような気もしたけど、無視だ無視!塾が最優先、遅れたらただじゃすまないぞ!そう、自分に言い聞かせる。
扉を開け、外を見る。
見たところで、アッと、声をあげた。
視界は真っ白だった。すぐに、昼間のことを思い出し、何かまた起こったのかと思った。
しかし、一瞬ののち、それが雪だとわかる。
「吹雪じゃん…」
普段なら、雪を何とも思わないが、塾の直前に降られると迷惑だ。
足元に気を付け、鍵を取り出し、閉める。
「傘!」
ちょっとうんざりしながらも、家の中に傘があることに気づく。
慌てて鍵で開け、玄関の壁に立てかけられた自分の傘をひっつかみ、扉を閉める。
今度こそ鍵を閉め、寒さに身震いしたところで、ふと時間を思い出す。
「あぁん、もう!なんでサヨって、こんなについてないんだろう!」
舌打ちをして、独り言をつぶやき、手袋をはめながら傘をさして、砂代はマンションの外へと駆けだした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
一分遅刻してしまった。
でも、そう問題にならなかったことに、砂代は驚く。いつもなら塾の先生、すごく厳しいのに。
教室には、砂代含む塾生三人しか到着していなかった。
「みんな何かあった?講義の開始時間もう過ぎてるのに、まだこんだけしか来てないの?」
席に着く道中で友達の塾生に尋ねると、その子は今まで読んでいた本から顔を上げる。
答えは簡潔だった。
「吹雪」
「ああ…」
砂代が納得したそぶりを見せると、その子は少しうなずき、また視線を本に戻した。
講義が終わり、頭をフル回転させた後に感じる空腹感を腹に覚える。
「おなかすいた。なんか食べたいな」
つぶやきながら席を立つ。そこで、外が吹雪なことに気づいた。
「はぁ…」
げんなりしてしまう。
砂代はコートをしっかり着て、ネックウォーマーをし、耳当てをした。
手袋をしっかりはめ、覚悟を決めて外に出る。
正直、ここで雨宿りしたい気分だったが、空腹具合を考えると、一刻も早く家に帰りたかった。
「ママに迎えに来てもらおうかな」
独り言を言った後で、傘を取り出し、開く。
傘をさして、砂代は外に出た。
顏をかすめる冷気が冷たい。ああ、一刻も早く家に帰りたい。そうしたら暖かいし、何かごはんも食べられる。
歩き出した途端、ブオオオオオ!と大きな音が耳元でするような、大きな風が後方から前方に通り過ぎた。
咄嗟に身構えることが出来なかった砂代は、傘が反対方向にバキッと開くのを見て、さらにげんなりし、「どうしよう。お気に入りの傘なのに」とつぶやく。
今日は悪い日だと、その出来事だけで決めつけられたような気になる。
思えば、昼間の出来事で、もういい日ではなくなっているような気がするのだが…。
どうやって帰ろうかと思っていた時。
不意に、頭上で雪がやんだ。
え?と思って見上げると、ビニール傘の裏側が見える。
「砂代、大丈夫?」
顔を覗き込んで横から傘を差し出していたのは、一樹だった。
「一樹」
少し驚くと、一樹は
「その傘、壊れてるでしょ」
といった。
砂代がうなずくと、一樹は続ける。
「いれてあげようか?」
「本当?ありがとう」
喜んで身をかがめて傘に入ると、隣で砂代より背の低い一樹が背伸びをするのが見えた。
「サヨが傘持つよ」
砂代はそういって一樹の手から傘を取り上げる。
二人で傘に入りながら、とりあえずと、駅の線路下に逃げ込んだ。
「ふぅ…」
砂代が傘をたたみ、二人でホッとする。
駅のコンビニで温かい肉まんを買い、二人で食べる。
「砂代、おなかすいてたんだね…?」
遠慮がちに尋ねる一樹の横で、砂代はにっこり笑う。
「うん。寒い時って、温かいもの食べたくならない?――大丈夫、すぐに済むから」
明るく砂代が笑い、ちょうど食べ終わった肉まんの紙を畳んで駅のゴミ箱に入れる。
と、一樹が駅のストリートピアノを指さした。
「あ、ピアノだ!サヨ、ひいてもいい?」
「いいけど…」
今自分が置いて帰ったら、砂代は傘なしで帰ることになる。それに、砂代にとっては塾帰りにストリートピアノを弾くのが習慣みたいだ。
あと、ピアノを聞いてみたい気持ちも少し、あった。砂代はピアノがすごいのだと、理恋が話していたことを思い出す。ピアノがすごいって、文章が変だけど……まぁいいか。意味は分かるし。
返事をすると、砂代はストリートピアノの座席に座り、鍵盤に指をかける。
砂代はどの曲を弾こうか悩む。
ピアノを習っているので、両手弾きはお手の物だった。
すると、頭の中を、なんとなく流れたメロディー。
記憶のどこかを刺激するが、自然と弾きたくなってしまった。絶対音感のある砂代は、試し引きをする。
トン、トン、トトーン。
トン、トン、トトーン。
試し引きをしたところで、はっと気づき、鍵盤から手を引っ込めた。
「これ…」
一樹も青い顔をしている。
「砂代、あの曲を弾くの?」
「ううん、そんなつもりじゃなかったの。ただ…」
砂代が、「なんとなく頭の中を流れたから」そう続けようとした時、砂代が弾いた曲のワンフレーズが引き金となったかのように、色々なことが起こった。
「砂代、危ない!」
一樹が砂代の手を引っ張り、ピアノから遠ざける。
「なに?」と聞く隙あらばこそ、さっきまで安定していたピアノのふたがバーン!と大きな音を立てて閉まった。
「うわっ」
びっくりしている二人の足元から、次いでなんだか小さな振動が流れてきた。
「なにこれ…」
砂代が失声すると、地面を見た一樹が悲鳴を上げるのが聞こえた。それに驚いて、反射的に砂代も悲鳴を上げる。
二人の下に、地割れができていた。
「キャアッ!」
砂代が一樹にしがみつくと、一樹も砂代にしがみつき返した。
全身が泡立ち、パニックになって足を咄嗟に動かすことが出来なかった。
地割れはどんどん大きくなり、やがて。
「キャアアアアアアアア!」
砂代の大きな悲鳴は、地割れで地面の一部が陥没する大きな音に飲み込まれていった。
二人が地割れの中に落ちて行く。
その様はさながら、映画のスローモーションのようだった。
悲鳴をあげながら、意識が遠くなっていく。
しがみつきながら、砂代が気を失ったのが分かった。それを感じ、頭が真っ白になる。一樹もまた、意識が遠ざかるのを感じた。
(五)
二人が地割れの中に沈んでいくのを、『その人』は見ていた。
砂代が大きく悲鳴を上げるのを見て、『その人』の唇がにやりとめくれ上がった。
やがて、二人の姿が見えなくなると、地面は元通りになり、何事もなかったかのように見えた。
『その人』はコートのポケットに手を突っ込み、雑踏の中に消えて行った。
家でカップラーメンを食べていた長橋は、チャットを見た。
相変わらず、雲田からの返信はない。
「あいつ、質問しといて何なんだよ、結局」
独り言のようにつぶやく。
「あー、やっぱりラーメンはうまいなぁー」
ふぅと息をつく。
前に給食当番で理恋と同じ係になったときがある。その時に「あー、給食にラーメンがあったらいいのに」と給食室の前で理恋に言うと、呆れられた。
「あんた、ほんとにラーメン好きだよねぇ」
「うん。お前、何ラーメンが好き?」
「醬油」
「…だけ?もっとないの?豚骨とか」
「そういう系無理。というか、そもそもラーメンがあんまり好きじゃない」
「ええ?マジかよ」
あの時のやり取りを思い出す。
やっぱり、理恋とは気が合わない。
その時だった。
ピロロン
スマホの通知音が鳴った。思わず長橋は振り向く。ホーム画面を見ると、チャットに通知があるとのことだ。
チャットを開く。
と、長橋は目を見開いた。
チャットには、ひとことだけがつづられていた。砂代と、一樹と、長橋に対して。
その言葉は、恐怖とともに痛みを伴っていた。長橋はゆっくりと、深呼吸する。
『タスケテ』
長橋はゆっくりとした動きで、チャットアプリを閉じる。
電話を開き、知っている番号を入力し始めた。
誰かが、動かなければならない。
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