17 あなたに星があったから
追いやられるように辿り着いた川のほとりで、膝に顔を埋めたミューは呻いた。
「うぁああぁ……なんか本当にごめん……ごめんなさい……」
「だから謝るなって、よく分かりもしないことで」
「だって……うう……」
「それより、お母さんの出自についての驚きはないのか? 俺はそっちの方が衝撃だったけどなぁ。ミューの『力』はそういうことかってすっきりもしたけど」
「ああ、そういえばそっちも驚くとこだよね。でも確かにお母さん、よく考えると妙だったからなぁ。いつまでも老けなかったし、二百五十七年生きたとか言ってたし」
そう、母については驚きはしたものの、どこか納得の方が深い。
究極の若造りの秘密と、特に面白くもない冗談を言い続けていた謎が解けた。単に事実だったのだ。とぼけた母だ、ミューに出自を話さなかったのも、隠そうという意図はなかったのだろう。母は、父と歌と、おいしい食事ときれいな飾り物と、カンナとの喧嘩と一座の仲間と、それとミューにしか、執着を示さなかった。母にとってはきっと、自分が何の部族かなんて、重要ごとではなかったのだ。
そう母を語ると、ソラリスは興味深そうな顔をした。
「へぇ。おもしろいお母さんだな。会ってみたかった」
「あぁ、たしかにソルとは気が合いそう……二人して私をいじって楽しみそう……」
「そうか? 意外と厳しいかもしれないぜ、娘に言い寄る男には」
「えぇ? そんなことなさそうだけ……ど……?」
意味を理解する前に、ソラリスの顔が近くに来る。頬に触れた指に促されるように上を向くと、唇が触れ合った。
(……え? えぇ⁉︎)
何をされているかを悟って顔が急激に熱くなる。昨日だって同じようなことをされたはずなのに、どうしてだろう、比でないほどに動揺している。
(だ、だって、昨日のソルは私だったけど、今のソルは、私じゃないし……っ⁉︎)
そうだ。今ミューに触れているソラリスは慣れ親しんだ自分の体ではない、本来の彼だ。
そう理解した途端、頬から首へ滑る骨張った指の感触や、自分より薄い唇の温度が混乱した頭に反してやけに冴え冴えと感じられ、なおさら鼓動が早くなる。
「な、なんでいま、んっ」
離れた隙に聞こうとするが最後まで言えず、頭を支えられてまた、唇が重なる。今度はさっきより長く、深い。
「…………っ!!!」
「え——あれ? 震えすごいぞミュー⁉︎ 息止めてた⁉︎」
何度か繰り返された口付けの末、酸欠で震え出したミューに気付いた彼は急に慌てる。
「えぇえなんかごめん、大丈夫か⁉︎ 息を吸え、いやまずは吐け!」
ぶはっと息を吐き、大きくあえぐミューの背中を撫でる。
ようやく呼吸が落ち着きを取り戻した頃、ソラリスはどこか遠い目をして言った。
「たぶん、息継ぎしながらするもんだと思うんだよな、ずっと止めてるんじゃなくてさ」
「ごめんね不器用で……、じゃなくて、なんでいま、キキキキスなんてするの」
「嫌だったか?」
「……そういう聞き方はずるいんじゃないかな、昨日も実はちょっと思ったけど!」
「えっ、……ご、ごめんな?」
押し殺した声に本気の怒りを感じ取ったのか、ソラリスはびくりと肩を揺らした。
「不愉快だったなら謝る。申し訳ない」
神妙に頭を下げる彼に、ミューは慌てて首を振る。
「ふ、不愉快ではない。嫌でも……ないよ。でも、なんでいま、私なんかと、キ、キ、キスとかするのかって」
昨日はなんとなくそういうノリで、みたいな流されかたをしたけれども、今回のそれは昨日よりあれがあれしてあれだったため、どうしても受け流せない。
「なんで今、って聞かれると今したかったからとしか言えないが……」
一歩間違えれば犯罪者のような発言だが、彼の表情は真摯だった。
「なんでミューとって言ったら、ミューのことが好きだからじゃないかなぁ、たぶん?」
「す、好き? たぶん? 私を?」
「いや、たぶんじゃないです、好きです。好きだよ。知らんけど」
「知らんけど⁉︎」
「いや知ってるけど! 俺も経験ないんだこういうの、だからうまく言えなくて申し訳ないが」
「すっごい慣れてそうだったけど……?」
「それはほら、本番に強いから」
いつもの調子に戻って笑った彼は、口元の笑みはそのままに、ふと声を改めた。
「俺自身が誰を好きとか嫌いとかそういうの、なるべく考えないようにしてきたからかな。いざ個人的なことを考え始めると、なかなかうまくまとまらない」
個人的なこと以外はろくに考えたことのないミューには想像し難い、重い告白だ。
「でも、考えるよ、これからは。ちゃんと考えて、俺が何をしたいのかでやるべきことを決める」
「……キスしたいとか?」
「キスしたいとか」
真面目な顔で言い合って、やがて同時に吹き出した。喜びがじんわりと胸に湧く。こんな自分を好きだと言ってくれた。王子ではないソラリス自身の未来を考え始めてくれている。その両方がたまらなく嬉しい。
「で、ミューはどう思っているのかね、俺のことを」
「え? どどどどうって、それはその、ええっと……」
言いよどむミューを、ソラリスは面白そうに見やる。これは完全にわかっている顔だ。なおさら恥ずかしい。
「……ソルは、思ったより意地が悪いね」
「えぇ、だってさ——いや、まぁいいや、言いたい時に言ってくれれば。……それとは別に、聞きたいことがもう一つあってさ」
一転して真剣な顔でミューの視線を捉える。
「そもそも、ミューはどうして俺を黒い光から助けたんだ? 一度喋っただけの男をとっさに庇えるほど豪胆じゃないだろうに、どうしてなのかなってずっと気になってたんだ」
たしかに、彼を巡る一連の事態に対するミューの行動は、あまりミューらしいとは言えない。黒い光を呆然と見つめ、何も出来ずに固まっているのがミューの生態としては模範解答だ。それなのにミューが動いた理由は、一つしかなかった。
「あなたに星があったから」
「……星?」
不思議そうに瞬く瞳の中にある星を示して続ける。
「言われたことない? あなたの目、いつも一番星みたいにきらきら光ってるんだよ。それが綺麗だったから、なくなって欲しくなかった。消えて欲しくなかったんだ。だからとっさに体が動いた。自分でも不思議だけど」
「星……か。そんなの、言われたことも自分で見えたこともないけどなぁ」
「変なの。こんなにくっきり見えるのに。あなたが私の体の時だってちゃんとあるし」
「よくわからないけど、ミューにしか見えない印みたいなもんなのかな、俺の」
首を傾げたソラリスは、やがていたずらを思いついたように言った。
「じゃあミューにやるよ、俺の星。お前が助けてくれたものだし、思う存分愛でてくれ」
「えぇ⁉︎ あ、ありが、とう……⁉︎」
分かっているのかいないのか、気楽に所有権を投げ渡してくる。
星をくれるということは目玉をくれるということでもあり目玉をくり抜く予定などない以上彼自身をくれたと言うことなのか彼自身を愛でろと言うのか、などと飛躍する思考は口に出せず、言葉になったのは現実的な心配だった。
「……まあ、私が助けたことになるのかは、よく分からなくなっちゃったけど」
黒い光が彼の星を消すという予感は、ほとんど確信といっていいほど強かった。その確信は今も揺らいではいないが、事態をより混乱させたのが自分でありそうな今の状況を思えば、助けたなどとはとてもいえない。
「まあいいだろ、入れ替わりの原因が歌だったとしても、それはそれでさ。そうじゃなきゃ、ミューとこんなふうにはなれなかったし」
意味深に笑うソラリスにはっとする。
肩を掴まれ顔が近付いた刹那、割り込んだ影に強引に引き離された。カンナだ。
「いつまでも戻ってこないと思って迎えに来れば何やってんのよあんた達、本気でいちゃつく仲になったわけ⁉︎ そうならそうとまずはこっちに頭を下げて挨拶すんのが筋でしょうよ顔に似合わず手ェ早すぎでしょうよバカ王子!」
「……なるほど、厳しいのはお父さんだったかぁー」
「誰がお父さんよ!」
「で、結局どうするか決まりました? 僕もう寝るんで、夜までには決めてくださいね」
あくびまじりのウルクの言葉にはっとする。もうすぐ夜明けだ。
そして、先行きに関してはもちろん、何も決まっていなかった。
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