11 この国はどうかしている

 顔馴染みとなった衛兵に軽く頭を下げて、ソラリスは宮殿の敷地に入った。


 今日の式典は日暮れ前に終わった。『翼』の出番は他の一座の裏方のみだったので体力は余っている。明日の出番も午後の一幕だけなので、いっそ泊まり込もうとやってきた。


(だんだんこの生活に馴染んでるなぁ。大丈夫か俺、こんなんで)


 兄が即位するまでの日数は目減りしている。状況に進展はない。だというのにソラリスは、どういうわけか毎日を楽しんでいる。


 半年ほど前、小さな街で踊り子として壇上に上がった時に初めて知ったが、ソラリスは舞台で舞うのが嫌いではない。王宮に戻る手段でしかなかったはずなのに、日々の鍛錬も仲間との練習も、自分でも意外なほどに楽しかった。目標を定めて努力し、成果を発表するという一連の流れがしっくりくるあたり、自分で言うのもなんだが勤勉な質なのだろう。


 王宮の式典という大舞台で、王子ではない自由な体で舞うのは楽しい。配下との会話も懐かしい。自分の体に入っている、どうにもとぼけた女の子と送る戯れのような生活も、お互いの気配に馴染んでいるからなのか、出会ってからの時間を思えばやけに気楽だ。


(ま、楽しいのはいいことだ。焦ったって何も変わらない)


 気に入っているくらいなら、責められるいわれもないだろう。手放す覚悟さえ失くさなければそれでいい。


 自分が主人の宮殿ながら殺風景な中庭へ辿り着く。いつもはこの辺りでリカルドなりエファルなりに見つかるのだが、今日は誰にも呼び止められない。さすがに不用心が過ぎるが、文句を言う相手は自分だ。


(人手も減ったよなぁ、甲斐性なしの王子様のせいで)


 中庭から自室を見上げる。バルコニーまで伸びる木の枝は剪定もされていない。裏庭が荒れているのは昔からだが、荒廃の魔手はどうやら中庭まで伸びてきている。


「おーい、ミュ……ソラリス様〜! 来ましたよ〜」


 開いている窓に向かって叫ぶが返事はない。まだ戻っていないのだろうかと首を傾げたソラリスに、答えは別の場所から降ってきた。背後から——冷たい水と共に。


「………………? えぇ? 何事……?」


 状況が掴めないソラリスに後ろから声がかかる。


「……こんな場所でソラリス様を呼ばないでちょうだい、外に聞こえるでしょう。穢らわしい混血にご執心なんて知られたくないのよ」


 手にした桶を隠すでもなく言ったのは、見覚えのある使用人だった。〈兎〉特有の赤い瞳に溢れそうなほどの侮蔑を湛える彼女は、もう十年近くもこの宮殿でソラリスに仕えている。冷たい水の入った桶をひっくり返したのはどうやら、幼いソラリスの頭を撫でたこともある暖かい手の持ち主らしい。されたことよりも、その事実に愕然とする。


「……………………」


 髪から滴る雫は灰色がかっている。洗濯後の汚水なのだろう。


 ぼんやりと立ち尽くすしかできないソラリスに息を吐き、使用人の彼女はそれきり何も言わずに踵を返して去って行く。


 彼女が中に戻ったのを見届けたように、開いた自室の窓から声がする。リカルドだ。


「ソルは里へ視察に行った。今夜は戻らない。だからお前もさっさと巣に帰れ、風邪をひくぞ。明日も舞台はあるんだろう」


 緩慢な動きで見上げると、ずぶ濡れの姿をどう思ったのか、煩わしそうに眉を寄せて部屋に引っ込んだ。窓の閉まる音がする。


「……風邪とか言うならタオルくらい渡せよ、気のきかん奴だな相変わらず」


 軽口で気持ちを誤魔化そうとするが、うまくいかない。


 スカートの裾で顔を拭い、汚水で濡れた髪を絞りながらため息ついたソラリスは、次いで裏庭に足を向けた。裏庭には井戸がある。濡れているのはどうしようもないが、一座の宿場へ戻るにしろ汚れだけでも落としておかねば大ごとになる。水なら怒り狂うくらいで済むが、汚水まで行くと報復を考えられてしまいそうだ。主に双子に。


(あぁそうだ、口止めしないとな。ミューに知らせないように頼まないと)


 滴る雫を努めて気にしないようにしながら、井戸を目指して歩みを進める。


 小心な彼女のことだ。自分の体にこんなことをされたとあっては「もう来ないで大人しくしていて次は刺される」とでも言われかねない。半分くらいは魂の帰巣本能に期待しているソラリスとしては、なるべく一緒にいたいところなのだ。彼女の作り出す気の抜けた、眠くなるような緩い空気もけっこう気に入っているし。それに。


(こんなこと、知ればきっと傷付くだろうし)


 伸びた下草を踏み越えて井戸にたどり着いたソラリスは、汲み出した水を頭から思い切りよくかぶる。何度か繰り返せば、汚水は大体流された。


「はぁ、よし! ……うん……さむ……」


 今日はよく晴れている。気温も低くないとはいえ、冷えた水を浴び続ければ体は震える。

 冷えてしまった体に引きずられるように、どうしても心も沈む。


「……寒いなぁ、ほんと」


 悲しむべきか怒るべきかを掴みかね、出たのは結局、曖昧なため息だった。


 ——かわいそうだ。そう思ってきたのだ。ずっと。


 自分の一族に関して、ソラリスは疑うことなく思っていた。彼らは、ただ虐げられるだけの哀れな存在であると。だから守らなければと思った。それが自分の役目だと、ずっとそう思ってきた。


 だが、そのかわいそうな〈兎〉すら、混血民に対してはこうだ。簡単に悪意を向ける。


(……いや、違うな。悪意ですら、ない)


 使用人の彼女は悪人ではない。むしろ、ソラリスを穢らわしいものから守ろうとしてくれたのだろう。


 では、穢れとはなんだ。


 濡れた髪を絞りながら考える。足元にできた水たまりに映る少女は、自分が磨いただけあって、健やかに美しい。彼女のなにが穢れて見えるのか、ソラリスにはどうしても分からなかった。


(どうかしてるな。……本当に、どうかしてるんだ。この国は)


 ——『お前ら、ほんとどうかしてるな』。


 呆れた声が耳の奥で蘇る。


 呼ばれた気がして、荒れた庭の奥にある置かれただけの石へ足を向ける。土埃に塗れた石を指で拭い、笑って言った。


「お久しぶりです。『兄上』」


 墓標はない。亡骸も骨もない。せめてと掠め取った髪の一束は、そうだ。レムが持ち去ったのだ。西の森に埋めると言って。


「あなたが言っていた意味、ようやく俺にもわかってきました。あんなに前からわかってたなんて、『兄上』はすごいですね。……いや、でもまぁ、すごくはないか」


 遺体は燃やされ風に撒かれた。埋葬は許されなかった。


「一番先にどうかしてしまったのも、結局はあなたでしたし」


 彼は、レムを殺そうとしたから。

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