第3話オレンジジュース

 学内を歩いていたら、オトメに声をかけられた。「総合科のベールがなぜここへ?」と、怪訝そうに、しかし少し馬鹿にした感じで笑いながら聞かれる。調理科へ行く廊下の途中に法技科の授業があったらしい。ようやく私も、将来の進路が見えてきたんだ、と調理科に行こうとしていることを話したら、「まさかパンジーに就職する気?」と叫ばれた。周囲の学生達の目がこちらに向く。胸倉を掴まれながら思い切り睨まれたので、そうかそういえばオトメは高崎店長好きだったな……と、思い出した。

 そんなに好きなら検事を辞めて店で働けばいいのに、と思ったが、彼女はヴィーガン思想を信仰しているので、おそらくまた肉食に物申して辞めるだろう。検事というのも、親に言われた職業だそうだし、オトメは変わらない。自分は変わらず、人に変わることを求める人だ。それが善だと思い込んでいるのだ。パンジーが肉食を取り扱うのを辞めなかったことを、今でも本社が悪いと文句を言っている。

「高崎店長のどこが好きなの」

 オトメに話を逸らすなと言われた。いい加減相手をするのが面倒になり、私は別に高崎店長のことが好きだからパンジーで働いているのではないというアピールで、今度高崎店長と食事に行くけど、一緒に行こうか、と誘ってしまった。オトメは大喜びしていた。


 指定されていた待ち合わせ場所に着いた。小綺麗な格好で来たつもりだったけど、オトメは少し華美なワンピースだった。家のランクが知れるなぁと気後れした。オトメと比べると私の服は地味だ。よそ行きなのに。普段着けないネックレスなんかも着けてみたけど、このネックレスの石一粒ずつが泣いていそう。

 オトメが来ると連絡し、承諾も取れていた筈の高崎店長は、とてつもなく嫌そうな顔で時間通りに合流した。飛びつくオトメをあしらいながら、道案内をしてくれる。ビル群を歩き、知らないビルの高層階の知らない店に入った。私は恐怖を感じるほどに場違いな気がして、とにかく帰りたくて仕方なかった。

「高崎さんの家も名家ですよね? 今時名前が漢字なんて、すぐわかりますよ」

 白いテーブルクロスに戦慄いている。シミ一つ無い。汚したらクリーニング代どれくらいかかるのだろう。オトメは弾むように高崎店長に話しかけていた。私は手元に届いた涎掛けみたいな白いエプロンを巻いてみた。バイトの制服みたいに途中で解けたりしないでほしい。高崎店長は酷く不機嫌そうに、低い声でオトメと会話していた。オトメはとにかく楽しそうで、多分このテーブルに着いている人で唯一イキイキしている人だ。お招きくださりありがとう、と言っている。招いてないんだけどね、と高崎店長が返す。またまた、とオトメは頬を赤らめていた。

 テーブルにメニュー表が来たので見てみたら、飲み物しかない。値段が書いていない。好きな物を選ぶように言われたので、オレンジジュースを頼んだ。恭しく細長いグラスでオレンジジュースが運ばれた。グラスに花が突き刺さっている。オレンジジュースを頼む場じゃないでしょうとオトメが怒る。彼女は赤ワインを頼んでいたし、高崎店長はよくわからない名前の酒を頼んでいた。ボイラーメーカー。

 私は、オレンジジュースが好きなんだから、いいじゃない、と呟いたけど、オトメの返事は無かった。果汁と果肉が入っていて、とても美味しかった。よく冷えている。

 料理の方は選んでないけど、自然と何か運ばれてきた。少しの量で何度も何品も来る。何を口にしても美味しかった。前菜やスープが運ばれてきて、オトメも喜んで食べていた。結構卵や動物性の食品が多く使われていたが、今は人工の食品がほとんどだしな、と思った。オトメが動物性の物を食べないのは高崎店長も承知の上だろうし。オトメもそう思っているようで、喜んでがっついている。

 メイン料理が運ばれてきた。白い湯気が立ち、油の跳ねるバチバチという音が聞こえる。鉄板か。テーブルに置かれたのは、小さな肉の塊だった。××の牧場で、ストレスフリーに育った牛だと説明があった。その説明の最中に既にオトメは肉を口にしていた。説明を聞いてからも、冗談でしょうと笑っていた。

 培養肉のほとんどは真っ赤な色をしている。ただの肉である。パンジーが作っていたステーキというものは、肉だけではなく脂肪や筋繊維が織り込まれた物で、それは培養ではない本物のステーキに近付けようとされているものだ。昔々に私が食べた動物園の牛は、硬くて生臭かったけど、本物だった。培養のステーキの方が美味しいのかもしれないと、パンジーで思った。今口にしている肉、そんな今までの価値観を全て壊しにかかっている。語彙の限りを尽くしたとしても、この味は表せないと思った。無理をすると、TVで口の中の物を見せながら下品に食レポするタレントに成り下がりそうだ。何も言わない方がいい、そう思う味だった。なぜ食べ物は食べると無くなってしまうのだろう。

 いつの間にかオトメが泣き出していた。泣きながらステーキを口にしている。泣きたいぐらい美味いよな。多分これ培養じゃない。

「帰れば?」

 高崎店長がオトメに言った。呆れているような、それにしては冷たすぎるような声色だった。オトメは、肉食なんてありえない、と言いながら、ここで残したら動物が浮かばれない、とも言っていた。自分の行動に理由をつけないと気が済まないのだろうか。いつもバッチリ決めているアイメイクが、今も涙で落ちないのは、…………。

 諭すような高崎店長の声が聞こえる。まだ成人してたったの二年しか経っていないのに、彼は非常に大人びていた。日頃から感情表現の薄い人だとは思っていたけれど、今も気持ちが読み取れない。怒るというより、何かを嘆いている悲しさがあるような、ないような。彼曰く、人工の物に命が無いと思うか。オトメは答えた。この肉はもう生きてはいない。

「植物は生きていないとでも?」

 高崎店長は私を睨んでいた。

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