第3話 柳生 連夜 襲来

 シャワーからの噴き出す水が、肌にはじかれて球状の水滴になり、ある物は全身をつたい、ある物は垂直に跳ね返りながら下水へと落ちてゆく。

 千尋は右手で左の乳房のラインから腹のくびれを撫でた。

 太っていない事を確認する毎日の儀式だ。

「良くここまでやせた」

 鏡に写る腹部のくびれを左から右に撫でた。

 この大きな乳房もあの頃の贈物である。

 4度のダイエットの失敗は、この身に体重増加をもたらした。

 150センチに満たない身長でありながら、あと1本のペットボトルを飲み干すだけで0・1トンに到達しようとした。

 思えば暗黒に近い青春時代だった。

「ボインチャン」と言いながら鼻の下を延ばす馬鹿な会社の男共も、わずか3年前にこの身に起こった現実を知れば、男はもっと馬鹿だろう。

 ただ、当時の自分との交際をしてくれそうな人間はいない。

「でぶ、豚、怪物」と呼び蔑むのだろう。

 今もリバウンドの恐怖に怯えていた。

 1メートルを超えたことのあるウエストは油断すれば60センチをすぐに超える。

 体質的に脂肪もつきやすいが筋肉もつきやすく、腹筋をし過ぎても60センチをすぐに超えてしまう。

 食事制限や一品物ダイエットの度重なる失敗。

 生命力が人一倍旺盛な彼女の体は少ない栄養素をドンドン吸収しやすい体へと変質させていった。

 ぷくぷくに太った自らの体を彼女が一番気にした。

「ピラティス」「ヨガ」など姿勢や自分の体重を利用して体幹や柔軟を鍛える方法が千尋の場合体質にあっていた。

 一日1650カロリーとバランスの取れた栄養素など実践してから、1月で平均6キロのぺースでやせだし、80キロを切った時点で有酸素運動であるジョギングも取り入れた。「無理に走っても間接を痛める」とダイエット失敗で入院したことのある医者に止められたこともある。

 今では40分程走るのが日課となった。

 現在はこの大きなバストを含めて、自分の体質が求められるベストな美しさを表現できていると思っている。

 56キロ。

 長かった旅の終着駅。

 風呂からあがるとバスタオルで全身の水滴を吸わせるようにふきあげる。

 バスタオルを頭にターバン状に巻き付け水滴が落ちないようにしてから肌着をつけた。

 天井と鏡は総鏡張り、下着を着ける脱衣所も仕切りはなかった。

 良心的構造なのかバスルームはきちんと区切られていた。

 回転可能なベッドの上でニアがテレビを見ていた。

 旅の資金がないためラブホテルに宿泊した。

 やっているテレビは男と女がHなことをしている。

 ニアは周期的にチャンネルを変えながら見ていた。

「あんた、何見ているのよ」

 千尋は始めてみるエロ番組である。

 ニアは天井の鏡に映るに千尋の下着姿を見た。

 千尋も天井にあるニアの目を見た。

 私の下着姿を見るなと無言で咎めると、ニアはテレビの方に興味を移した。

「他に番組があればニュースでも見るけど、やってないから、今後の参考までにいろいろと見ていた」

「あれ、普通じゃないと思うよ」

「確かに、女性の人格を無視して性欲の対象として扱う作品が多い、残酷すぎて真似できそうにない」

「あんた、そういった人間の男みたいなこともできるの」

「機能はついている、フィーメルフォルム(女性の姿体)を見て興奮して海綿体に血液を送るシステムではなく、求められればスイッチでそういう異常状態にもっていけるけど、望まれますか」

 バスローブをつけてから、バスタオルでしつこく髪をふきだした。

「望まない」千尋はテレビの側にあるリクライニングシートに腰をかけながら首を振った。

「テレビを消して、キモイわ。吐き気がしそう」

 千尋の命令の途中で手元のリモコンでテレビを切った。

 急に部屋が静かになり、お互いの存在が浮き彫りになってくる。

 ニアは人間の男と違って自分の欲望のままに襲ってくることはしない。

 従順な男未満の存在で安心感があった。

「喉が渇いてきた、冷蔵庫を見てきて」

 ニアは黙って立ち上がり冷蔵庫を見にいく。

 最新の美容整形理論を取り入れて作られた顔である、寮の先輩がニアを貸してといってくるのが理解できた。

 背が低いからこんなに身長のある男でなくてもいいが、他人に羨ましがられる男が手元にいて自由にできるというのは、暗黒の青春時代でポカリと空いた心を少しずつ埋めてくれた。

「カロリーオフのビール、なければお茶。ジュースはスポーツドリンクでも駄目よ」

 人差し指をクロスして×を作った。

 ニアは千尋のしぐさを見ずに、冷蔵庫をあさり、お茶を取り出してくる。

 ニアは人間の男と違い軽く扱えた。

 通り道や場所を譲ってもらうのにいちいち口に出さなくていい。

 足で軽く蹴れば道を譲り、場所を譲る。

 彼にはプライドがない。

 一度自分が所属していた組織を裏切って放浪生活をしている。

 守らなければならない名誉がない。

 名誉を与える社会もない。

 自分の生命と生活以外に守るべきものはない。

 ニアより遥かに価値のない男でも、性差による前時代の意識から、女に対して「男の沽券」のようなものがある。

 社会的な地位も収入もないけれど、食費がかからない扱いやすい男。

 千尋の前にある机は膝より低く作られていた。

 コップをおいてからお茶を注ぐ、まだ残っている缶をコップの横に置いた。

 役目を終えたニアはベッドの上で大の字になった。

 壁に貼られた鏡に写る姿を見て急におかしくなった。

 社会的地位に比べて優雅な生活を送っている。

 ニアは人間の男にコンプレックスを抱く事はない。

 人間に成りたいと望んだ事もなく、おおらかな気質でペットのような立場でも気に病むことはない。

 人間の男のように振る舞わない、傷つかない、そこが一番好きなところ。

「あんた、どこにいたか思い出せないの」

「行きつけのパチスロとカプセルホテルは思い出せるのだが・・」

 パチンコという公共ギャンブルの中にボタンで三つの記号を揃えるスロットがある。

 ある記号が特定の場所を通過したときにボタンを押して揃える「目押し」と呼ばれる技術があり、機械の動態視力と計算能力をもつニアの「目押し」の腕は超一流で一日平均20万は稼ぎだす。

 貯金というものができない千尋にとって、ニアに稼がせた金が旅費となっている。

 だがニアは自分が作られた場所を思い出さない。

 使われない情報は自動的に処理されると話していた。

 トコロ天のようにメモリーが押し出されると口にした。

 千尋はお茶を喉に流し込みながら考えた。

 でもニアは隠し事もすれば、ウソもつく。

「千尋、着替えて。敵がくるよ」

「敵」

「100キロを超える人間がホテルに入った。思い過ごしならいいが、段取りをしといて」バスローブを脱いでから、上着に袖を通した。

「あんた、敵がいるの」

 この平和ボケした国で長く聞かなかった言葉。

 千尋は大きく息を吸い、腹を小さくしてから、スカートのホックをかけた。

 さらに顔をゆがめながらスカートのベルトを絞りこむ。

 彼女は58センチ以下のSサイズの服を身につける。

「君は脂肪以外に敵はいないと思っているの。男だから外ではいろいろあるさ」

 ニアは白いジャケットに白のスラックス。

 それ以外の服を持っていない。

 別に汗をかかないから服を着替える必要もない。

 下に着ている純白のワイシャツも汚れたことがない。

 不思議な服を着ている。

 ネクタイだけは色々な所からもらってくるけど、つけてから出かけるのを見たことがない。

 右手をポケットに突っ込んだまま、千尋を庇うように立ち玄関をにらみ付けている。

 人に無いセンサーが向こう側の答えを導き出す。

「材質が人間ではない」

 敵とニアの間にある扉は防火の理由で0.2ミリの鉄板が表と裏に合わせてあるが、中央でグニャリと曲がると蝶番いをねじ切ってニアの所に飛んでくる。

 左手で叩き落とすと床上で激しく煙を上げた。

 急激な変形が鉄に熱を持たせた。

 千尋は上着を着けている姿勢のままイスの上にひっくり返った。

 体はニアに対して完全に横になり、扉を蹴った左足を高く維持したまま微動しない。

「あんた、だれ」

 ニアが短く聞いた。

 ゆっくりと足を地上に戻す。

 足がつくと同時に肘を垂直に曲げ、掌を空に向け、静かに長く息を吐いた。

 レザータイプのズボンにノースリーブの黒いTシャツ、両腕とも1度切断したぐらいの大きな目立つ傷が体を走っていた。

 漆黒の髪をオールバックさせ、目は閃光防御や破片避けの効果を持つミラーシェードで防御していた。

 胸板も厚ければ肩幅も広く首も太い、切断したものを縫い合わせたような後が首から顔に複数見られる。

「柳生連夜」

 ミラーシェードの下で殺気をはらむ瞳が丸い輪郭にそって輝いた。身長こそニアが10センチほど高いが、横幅も厚みも連夜がはるかに勝っていた。

「聞いたことがある、東北最強の男がオレみたいな無頼の野良犬に何のようだ」

「「連夜動かば、屍しか残さぬ」お前の場合、暗殺か破壊かどちらに属するか知らん。その類いの任務しか有り得ぬ」

 ニアは肩をすぼめて、両手を広げた。多少笑いながら口にした。

「なぜ、why」

「戦闘用人型自律兵器・実験用特別形式百八式。通称ニア。間違いないな」

「だったら、どうする」

「お命、頂戴」

「あんた、立派な名前があるじゃない」

 椅子に立ち上がり、上着を下ろしてへそを隠しながら、耳元で千尋が叫んだ。

「人違いだ、ニアなんて知らん」

「却下だ、データによれば、ウソをつく。証拠は有り過ぎるほどだ、覚悟を・・」

 すべてを言いおえる前にニアが目の前の扉の残骸を蹴り返した。

「まだ。前口上の最中なのに」心の中で思った。

 飛んでいる鉄扉を死角にニアが近付いていると6番目の感覚が教える。

 論理的に証拠はない、感覚的にはっきりと分かる。

 右手を頭から降り下ろし真空の刃を発生させて、真ん中で二つに切られた瞬間、二つの物体は激しく反発して両サイドの離れる。

 飛び蹴りをしようと地面を蹴って空中で足を抱えているニアの姿が現れた。

 間合いをとらえると、物も言わず空中で足刀(足の平の横側)を連夜の顔面に叩き込む。

 連夜はよける事なく、左手で飛んでくる足をつかむ。

 ニアは顔を隠したような蹴り姿勢のまま、足首を軸にした形で完全に静止した。

 人間なら足首に異常な負担がかかるだろう。

 ロボットであるニアにとって、捕まれた足を軸に空中で蹴り終えた姿勢を保つというのは苦痛や負担を伴う作業ではない。

 ニアが先に動いた。

 伸びきった足を曲げながら、残った足で蹴りを放つ。

 連夜はニアの攻撃方法や意図を正確に理解し、その動きの中で軸足を放す。

 バランスを失ったニアが空中で半回転ほどしたとき、連夜がカウンター気味にニアの顔に拳を叩き込む。

 千尋には高度な攻防など理解できない。

 蹴りにいったはずのニアが自分のいる椅子の横を物凄い勢いでスベリ、壁に激突した。

「痛い」

「何馬鹿なことを言っているの、そんなはずないでしょ。ロボットなのに」

「良くできているのですよ」

 千尋も事の重要性はすぐに理解できた。

 どうもこのロボットに頑張って『敵』とかいう聞き慣れない物を倒していただかなくては自分にも未来がない。

 そして、今、自分に出来ることは軟弱そうな繊細な心を持つロボットに根性を注入するだけである。

 千尋はイスをおりてニアの側に立った。

「これが、特殊装甲」

 連夜はここにくるまでに組織の科学者からニアの能力について説明を受けていた。

 頭部に各種センサー、胸部にコンピューター、腹部に永久機関、腰胴部にオートジャイロ、左足に重カコントロール装置、右足に物質精製装置、左手に量子・イオン・磁力などの電子関連制御装置、右手に熱・運動・エネルギー制御装置を搭載、当時の最高技術が結集した。

 出来ることなら生け捕り、不可能であるならば、古代遺跡から発掘した永久機関は必ず保護する。

 できるなら人格を司るCPU(中央コンピューター)を破壊が一番いい。

 どれも連夜にとって興味がある話にはならなかった。

 まだウインドウズ95を使っているらしく計算能力ではどのハード(周辺機器)も使いこなせていない。

 殴る蹴るしかできない人型ロボットに負ける気はしなかった。

「皮膚の構造は」

 間題は相手の防御力である。堅いなら手足をねじ切るしかない。

「緩衝システムだ。装甲ではない、素材は理想物質エニグマだ」

 A点B点C点と移動可能な正三角形があると定義する。

 A点がBC辺に垂直に押さればB点とC点の間が伸びる。

 建築でいえばトラスと呼ばれる昔からある技術。

 ニアは精密な周辺機器を理想物質エニグマによって包み込んでいる。

 そして人型を模した皮膚は外部衝撃を内部に伝える事なく外周部を水面のように周回させ、寄せては返す波が効率良く打ち消しあうように仕向ける。

 理論上は可能だが、ニアでしか実現しなかった。

 1970年代当時は遺伝子工学の進歩による不老不死より、人間の機械化の方が先にくると信じられていた。

 秘密結社は全ての倫理を置き去りして完全に遺伝子の解析は終了した。

 新人類の創造に着手し、ゆくゆくは霊長類の枠に捕らわれず、人の種より上位の種族を作る予定だ。

 当時は『正義の味方』を名乗る裏切りバッタ男が誕生していない。

 一つの個体を強く仕上げる事に抵抗感がなかった。

 そして遺伝子工学が突出する以前、総統閣下は老いた体を捨てニアの体に脳を移植する予定だった。

 故に先史文明の遺産である、希少な永久機関を内蔵する事になった。

 だから、柳生連夜は志願した、強い戦士との戦いを。

 連夜はニアを殴った己が拳を見た。

 普通の人間を殴るのより遥かに軽かった。

 普通の卵の殻を殴るような微妙な感触。

 体に残る感触がこの戦いの異質さを物語る。

 普通のロボットと違い殺気の量が多い。

 戦いの戦術自体は新しい物が必要ではなかった。

 見つめる拳の向こうでニアが起き上がり出した。

 千尋が「気合いだ」と叫びながらニアを蹴る。

 ロボットは連夜が思っていたより遥かに弱かった。

 隣室で楽しい時を過ごすカップルが次々と外へ逃げ出す。

「ニア、オレは天才と呼ばれたが、あらゆる名声に興味がなかった。

 無敵の格闘技を求め世界をさすらい、この体に修めてきた。

 老いたから強化人間になったのではない。

 飛び道具で武装したソルジャー達を素手で倒したいから強化したのだ。

 なぐりあいをやってもオレには勝てんぞ」

 ニアは左足を前に出して、拳をつくり顔のアゴの部分を隠した。

「目からレーザー光線とかサーチライトとかだせますけど、メモリー不足で、全体の動きが鈍くなる」

 ニアにもはっきりと技量の差が理解できた。

 ビビリが入る。

 先程のクダけた態度と違い。

 少し尊敬語が入ってくる。

「先手必勝、根性出して突こまんか」

 怒声と共に千尋はジャンプしてニアの背中を空中で両足を揃えて蹴る。

 バランスを失いながら連夜の前に押し出される。

 連夜はニアの顔面を殴る。

「マトリックス」

 極端なほど背中を反らして避けた。

 連夜はニアの腕をつかみ引っ張ろうとしたとき、つかんだ腕がすっぽり本体から抜けていく、ニアはバランスを失っているように見えるが重力制御装置が機能して、ブリッジに近い姿勢のままで足首から激しく交互に動かし、千尋の側までたどり着くと立ち上がった。

「忍法・肉鞘」

 山田風太郎先生の忍者小説で、九の一忍法・筒がらしから逃れるために使った技を口にした。

 品のいい名前ではない。

 連夜はニアから受け取ることになった腕を見た。

 卵の殻程度には堅い、トカゲの尻尾と違い中は空洞になっている。

 ニアの左手は重要機関が露出していることはなないが、白い皮膚の濃度が少し薄まったような感じがする。

「アホか、そんなチープトリックで勝てるか」

 千尋は椅子の背もたれの上でバランス良く立ち、ニアの耳元で叫んだ。

「強い、強すぎる」

 ニアが薄く涙を浮かべる。

「泣くボタンを押すな」

 千尋が叫ぶとニアの涙が止まった。

 しかし、向こうは全身のインナーマッスルを上手に連結させる。

 ヨガのグルより柔軟な体は普通の人間が力の入るポイントより多くの範囲で敵を捕らえる。

 思いもかけない攻撃があるかもしれない。

 外骨格のニアにとって間接が作り出す力以上の攻撃力など望めない。

 普通の人間に比べれば凄い力でも強化人間と比べれば、皮膚装甲が電気的に動かす間接の力などたかが知れている。

「無理ポ」

「今日ロボットアームは150キロの豪速球だって打ち返すだろう、敵の攻撃を食らわずに倒せ、根性入れて踏ん張れ、ゆっくり近付いて敵の動きを良く見ろ」

 千尋がニアを手槌(小指と掌の外側の握り拳で殴る動作、最近のショーカラテでマウント(相手に馬乗り)を取ったとき、正拳で殴るより骨折しにくいため流行している)で殴った。 ニアの体は装甲でできているから、多少痛いかと思ったが、人間の頭部を殴るより痛くなかった。

 千尋の持つ衝撃をニアの体は吸収し反作用が起きないようにした。

 千尋は自分の拳を一度不思議そうにながめたが、更に殴る、更に殴る、更に殴る。

「分かりました。ゆっくり行けばいいんでしょ」

 ニアは連夜に対し、左足を前にして半身になり軽く膝を曲げる。左手は力を抜き、延ばしぎみにして肘を軽く曲げ、目線の上に置いた。

 右手は軽く腰に添え、掌を上に見せ、「天地の構え」をとった。

「笑止」

 連夜は歩き出した。

 ニアの近くにくると何気ない動作で顔面をつかんだ。

 普通よりやや遅く、ゆっくりよりやや早い動作にニアは反応できなかった。

 つかんだ右手を無造作に横に振り、壁に援頭部をぶつけた。

 目を丸くして物も言わずに連夜を見た。

「強い」と言うより、ニアの思考を丸呑みされている、「大きい」という印象が残った。

「気負いすぎだ」

 ニアの目の前に右手をゆっくりとかざした、ニアは左手で素早く上に払う、連夜はガードが取れた頭部に神速の左正拳突き(ストレート)を叩き込む。

 突如起こったスピードのギアチェンジに為す術がない。

「ほにゃらら」という小さな機械音と共に首を前後左右に振る。

 連夜は手を止めて観察した。

 壊れたおもちゃが繰り返す動作に疑惑の目を向けた。

 殴ったとき、首は派手に動いているが反作用が起こす衝撃が軽い。

「アホ、構えるなら身体だけにしとけ、心まで身構えてどうする。

 まず手数で押して反撃を回避しろ」

 千尋が拳を握って叫んだ、連夜は千尋を一瞥したとき、「あ、スーパーアイドル松田聖子がふんどし締めて、牛と相撲とっている」連夜は千尋が指差した方を見た。

 そんなはずはないと思いつつも、この緊迫感の中、ウソを告げるのかと疑念もあった。

 確かめてみようと指差した方を見た。

 ニアの右蹴りが後頭部にとんでくる、連夜はニアの軸足付近に踏み込むと同時に膝で払い、ニアの力の入るバランスをくずしながら裏拳(手の甲)を叩き込む。

 千尋の目の前を物凄い勢いでニアが通り過ぎる。鏡に激突するが割れない。

 虚実の駆け引きが通用しない。

 普通は相手がしかけるフェイントに対してストレートを叩き込むが一番カウンターKOを取れるのだが、相手の最初の動きに対してケレンなく攻防一体となる返し技を叩き込む。

「女、うるさい」

 意図的に千尋のすぐ側にニアの体を走らせた。

 自分の戦い方を持っている。

 圧倒的な高純度の精神が、全てを堂々と跳ね返す横綱の戦い方をさせ、高い理想が技術を育て、そして高レベルの技術は現状に甘んじる事なく更なる研鎖を求め、ストイックに繰り返す反復練習は魂をさらに高いレベルヘと誘う。

 人間力の強さが違う。

 千尋は声をかけられて初めて連夜を観察した。

「怖い何か」という漠然としたイメージから「肉を持った敵」として頭から足まで見た。構えてはいない、両手をだらりと下げているがスキがなかった。

 ニアとは丁度逆で、戦いに固定観念を持っていない。

 どちらかと言えばスキだらけで誘っているように見えるが、千尋の心の中で警戒警報が最大のボリュームをあげて鳴り響く。

 このスキは誘いであり罠だ。

 下でうずくまるニアを見た。

 装甲でダメージを打ち消しているが勝ち目はない。

 この人マネをしているロボットと、自然体で力を抜いている連夜とでは、同じように息をしているが立っている次元が違う。

 精神世界の法則が違うのだ。

「お前、一体どういうCPUが組み込まれているの」

 痛がるニアの襟を持って千尋が立たせるように引き上げた。

「MZ80KC」

「はあ」

 千尋が生まれていない、触ったことのないコンピューターの形式がでた。

「SHARPのMZ80KC」

「………………」

「ボロでもSHARP(新しい)」

 MZという形式は一世代前のゲーム機より演算処理能力が低い上、ニアは実に場の空気が読めないギャグを飛ばした。

 千尋は怒る気力もおきなかったが、それでも自らを立ち直らせた。とりあえず建設的な会話しよう。

「ニア、あんた武道、どこかで習ったの」

「自慢では無いですが、あらゆる格闘ゲームのデータが入っています」

「どうせそうだろうと思った」

「パチンコ必勝法とか不要なデータを消去して、キャラを一つに絞って、余剰メモリーを増やし計算能力をあげろ」

「嫌だ、これはオレの財産だ、オレの人生だ」

 千尋はなるべく怒らないように、建設的な話だけをしようと思った。

 無理やり連れてきた負い目がある。

 煮え切らない優柔不断なアンドロイドに怒鳴らずにいられない。

「なんか知らんが、敵がきたのだろう。未来がないのに過去を抱いて死ぬのか」

「なんで」ニアは顔を千尋からずらして、連夜を見て聞いた。

「今まで、ほっとかれたのに、急にそういうことになったの」

「近づいたからでは」千尋は思い込んでいた。

 ニアとの間に共通認識ができてないことを理解した。私のせいではないと自問した。

「ローレライが勢力を延ばしている、(連夜が所属する組織の)中央がニアの持つ周辺機器が彼女の手に落ちることにでもなれば、我々は取り替えしのつかないハンディを背負う。

 彼女の手に落ちる前に捕獲、あるいは処理する事に決定した」

「もう、脱走した時に別れてから会ってないよ」

「お前が決めることではない、我らが判断する」

 ニアの耳を引っ張って顔を近付けた。

「ローレライ」首を背けて連夜を見るニアの耳元で詰問するように厳しい声で聞いた。

「元カノ」連夜が短く答えた。

「誤解を招く発言はやめろ、基幹プログラムの作家が同じであり、姉妹品だ」

「じゃ。ひどく傷つけられて捨てられたとメモリーしておきなさい。とりあいずいらない物を消して、すぐに演算能力をあげる余剰メモリーを増やしなさい」

「あんたも戦士なら、戦いの準備ができるまで待ちなさいよ」

 ニアに命令した後、千尋が連夜にいった。

「そうなの、ま、いいげど。

 監視用のヘリ飛ばしているから、なるべく早く頼む」頭の上で腕を組み、鏡の壁によりかかって足を組み、短く自分の立場を説明して注文をつけた。

「すみません」ニアが連夜に小さく会釈した。

 それからこめかみを押さえて、黒目を左右に動かして作業に入った。

「ありゃ、強いわよ、大火力で焼き払えないの」千尋は戦士と口にしながら、ニアに耳打ちした。

「ハード的に可能でも、ソフトの面、永久機関の出力不足、環境や周辺住民の理解度などを総合的に考察すれば無理というもの」

「カッコつけるなよ。コンピューターがボロなのだろ」

「ミもフタもない、僕のようなロボットにとって「討算能力がない」は馬鹿と同意語ですよ。

 人格を傷つける言葉は口にするなら、オブラートな表現でお願いします。

 総合ハラスメント相談センターに匿名で電話しますよ」

 ニアの言い分を無視して、さらに凄んでみせる。

「適当なこと言って、相手から冷静さを奪え。今のままでは万が一にも勝ち目がない」

「卑怯」

「いいんだよ」ニアが「なぜ」という顔をする。

「動くダッチハズバンドと心中なんて私の名誉に関わること、命がかかっている。

 大抵の事はカルアデスの船だ(緊急避難、命に関わるとき他人を傷つけてしか安全を計れない時は、個人が罪悪感を抱くかは別にして社会的、法律的に容認できる事)」

 ニアの背中を軽く叩いてからイスに隠れた。

「恐ろしい」思いながら千尋の背中を見た。

「覚悟ができた」連夜が尋ねるように語尾のアクセントをあげ、背中を壁から離した。

「準備ができたと聞けよ」両の拳を相手に向けて構えるボクシングスタイルをとった。

「いくぜ、連夜」ニアが大声で叫ぶと両手を大きく回し気を溜めた。

「へっ」連夜が少し口を開けて、一歩下がって右手で顔の半分を隠すと左手を少しおなかに添えて構えた。

 ニアが何か架空の丸い物を握って腰の部分に引いてくる。

 千尋は脱力してイスに深く腰をかけると左手で顔を覆いながら、右手で机に飾られている電気スタンドを握った。

「波動拳」

 ニアは思いっきり両手を突き出すが、腕から何もでなかった。

 連夜はサングラスの下で凄く遠くにいる不思議な生き物を見るように目を細めた。

 友人の景色の写ってない新婚旅行のビデオを見せられている気分、「オレ、なんでここにいるのだろう」愛が痛い。

「ドアホ」

 静寂破る千尋の怒り、手にしたスタンドでニアの後頭部を殴った。

 電球部分は粉砕、ニアは頭を押さえてしゃがみこむ。

「真剣にやっているのか、分かったよ。笑いに命をかけているのか。

 おめ・・凄いね。わたしゃ、たまげたよ」

 顔をひきつらせてニアの襟を持って立たせる。

「玉ついてない。ははははは、こりゃ一本取られたよ」千尋は凄く晴れた笑顔で空を仰ぎ、額をペンペンと2度ほど叩いた。

「実は凄い秘密兵器があるのだろ、だからそんなに余裕こいていられる。違うのか」

 そして無表情になり、深く息を吐いた。「お願い、そうだと言って」

「千尋が一つに絞れと言った」

 ニアにとって払った犠牲は大きかったのだろう、いつもより少しだけ強気になった。

「そうだろうとも、悪いのはみんな私だ」涙ポロポロポロポロポロポロポロ。

「ここまで天然だったなんて」胸に顔をうずめた。

「僕が悪いの」ニアが自分の鼻を指差した。

 連夜が黙ってうなずく。

 ニア個人はキャラクター(個牲)ではなくネタで勝負する芸人になりたかった。

 そいった主張が許される空気ではない。千尋が顔をあげた、もう泣いてなどいない。

「お前、この3Dの時代、『○拳』や『O―チャ』じゃ、ダメなのか?」

「だって、一番好きだもん」

「逃げるのよ」

 千尋の言葉に初めてニアの顔が輝いた。

 千尋を脇にやって、固定されている網入りガラスを叩き割り、網を引きずり出した。

「私を連れて」

 念の為に千尋は叫んだ。

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