第432話 キリエ・エレイソン
アイスはそれに、目を丸くしていた。
すぐ隣にいたはずのキリエ。今までキリエと、罪への向きあい方、そして祈りについて話ていたはずだった。
だが今、キリエはどこにもいない。突如として、キリエの腕が勝手に動いたように持ち上がり、指を鳴らして―――まるで最初から幻だったかのように、居なくなった。
「……キリエ、さん……」
呆然とアイスは呟き、それから固く目を瞑る。己の失策に、そしてその犠牲となったキリエに想いを馳せ。
「……祈るには、まだ早い、から……!」
アイスは、走り出す。氷鳥を飛ばし、索敵をさらに強化して。
ローロは、このキリエとかいう分け身は、何を考えているのだろう、と眺めていた。
その場に小さくなって座り込み、あろうことか手を組んで、主になど祈っている。
「創造主なんてさ~? ろくでもない奴だよ~?」
ローロは、キリエの胸をぐりぐりと指でえぐりながら教えてやる。
「あらゆる神にとって、生みの親であると同時に唾棄すべき上位者。創造主のシナリオ通りに、数多の神が苦しみ死んだ。しかも義務まで強いた」
『人間を祝福してあげて。彼らに、力を分け与えてあげて。その信仰が、あなたたちの力になる』
「―――何が『あなたたちの力になる』って感じでさ~? 肉の体ならご飯食べればいいだけの話なのに、『神』にされて魔法を授けて信仰を集めなきゃ消滅しちゃうようになって」
ローロは、口をゆがめて恨み言を連ねる。
「挙句の果てに、死んだら人間と同じで魔人だよ~? 何考えてんのって感じ~。しかも死んだら権能だけしっかり奪われてさ~、それが天界でロキの代わりしてるんだって~」
キリエは、それに何も言わない。ガチガチと歯の根が合わない様子で、ローロを見つめている。
「……って、今までのローロは思ってたんだけどね~。実は最近思い直しちゃったりして~♡」
ローロは指を動かして、キリエの首に手を運ぶ。
「だってさ~? 元は神だったローロが、これだけ落ちぶれることができるのって、すごくな~い?」
にひひっ、とローロは笑う。
「牢を脱出するために小さく分かれて、そしたらみんな散らばっちゃってさ~。それ以来、魔人でも最弱レベルでずっと過ごしてきたんだよ~?」
ローロは、笑みを口に貼り付けて、そう話す。
だが、不意に近くの凍った水たまりを見て、反射した自分の目の仄暗さに笑えてしまう。
だからことさらに、歌うように朗らかに、ローロは続けるのだ。
「騙されて、殴られて、犯されて、殺されては序の口でさ~。なーんにも持ってないのに、あいつらドンドン、ローロから奪ってくんだよ~? すごいよね~」
ローロは、キリエの首を絞める手を、僅かに強める。キリエは涙をこぼしながら、ローロから目をそらすことができないでいる。
「キリエお姉さんって、結構強いよね~。奪う側だったんじゃな~い? ね、奪う側の気持ちって、どんななの~? 教えてよ~♡」
ローロは、思い出を想起しながら尋ねる。
「何年も優しくしてきた奴隷を、急に裸で飢えた魔犬の群れに投げ込むのって、どんな気持ちでやるの~? 肉を全部削ぎ落として血管と内臓だけにして、どのくらい死なないか試すのって、どんな気持ちなの~? 何年も家具にして動くのを許さないとかって、何でするの~?」
ローロの話に、キリエの顔から表情が抜けていく。恐怖を超えた先の、地獄の底の底を聞いて、キリエは何を思っているのか。
ローロは、優しく語り掛ける。
「ね、知ってる~? 犯されるのって、実は結構ありがたいんだよね~♡ 痛みとかってそんなだし~。ムチとか好きなクズも少なくないけど~、アレも大して痛くないし~」
だからさ~、とローロは続ける。
「売られるときは、思いっきり性欲を煽るのが、かなり使える手なんだよね~。そうすると性奴隷で済むじゃ~ん? ホントのホントにオモチャにされるのに比べれば、ずっとずっとマシなんだ~♡」
ローロは、笑顔でそう話す。するとキリエが、不意にこんなことを聞いてきた。
「……何、で……?」
「ん~?」
「何で、神、だったのに、こんなに落ちぶれることができる世界で、良かったって、思うの……?」
「……」
ローロは、笑みのままで答える。
「そんなの決まってるじゃ~ん♡ どんなに偉くなっても、強くなっても、ずっとそのままでいられない世界だよ~? ってことは~、あいつらはいつか、必ず報いを受けるってことでしょ~?」
ローロの説明に、キリエはハッとする。
「神でさえ、ここまで落ちぶれられる。ってことは、ただの魔人でしかないあいつらは、もっと高い確率でいつか落ちぶれるはず」
それは、弱者にとって、救いだ。
「そう思えば、その場は耐えられるし、復讐に狂わなくてもいい。ローロは全部許して、全部忘れて、幸せになろうって思える」
だって、ローロがそんなことをしなくても、奴らは勝手にひどい目に遭うのだから。
世界が、地獄が、望まれる通り、そういう構造をしているのだから。
「創造主はろくな奴じゃないけど~、そこは感心してるんだ~。世界のデザインは上手いな~って」
祝福。この世界のすべてをして、それは創造主の祝福であるという。
ローロも、キリエも、ニブルヘイムに降り積もる雪も、大迷宮の塔を登った先にある地上世界も、さらに果てにある天界の雲も、すべて。
「でも、やっぱりさ~。祈るなら、別の神とか、魔人なら魔王がいいと思うな~」
ローロは、キリエに言う。
「神とか魔王とかは、見返りをくれるからね~♡ 魔法とか、魔術とかさ~。創造主は何にもくれないよ~? だから、祈るならそっちにしときなって~」
そんな風にローロは、キリエに言う。
するとキリエは、口を引き締めてローロを見て、それからまた、手を組んだ。
そして、言うのだ。
「主よ、憐れみください」
「……」
祈り。神にも、魔王にも、キリエは祈らない。ローロは、それを静かに見つめる。
「キリエは、さ。悪いこと、たくさん、してきたんだ……」
祈りながら、目を瞑りながら、キリエは言う。
「キリエ自身の悪事は、魔人にとって普通の物ばっかりだったけど、長生きした魔人が、強くなった魔人が、どんどん激化してくのを、目の当たりにしたことがあって」
ローロは考える。思い当たるのは、キリエの父、団長キエロか。
「……パパは、最初は穏やかだったのに、どんどんすることが過激に、悪趣味になっていって、何でかって言うと、パパは、色んなものが楽しくなくなって、飽きてきちゃってるみたいで」
飽き。それは魔人にとっては、痛みや苦しみよりも恐ろしい感情だ。
何せ飽きは、唯一魔人にとっての終わり、塩化を招く感情であるから。
……思えば、ローロを一際ひどい目に合わせてきた魔人は、塩化に恐怖していたのかもしれない。裕福で、恵まれていて、変化の乏しい日々を過ごしていて。
それは確実に、塩化という終わりに近づいていることの証左だった。
「そんな風に、パパはおかしくなっていって、多くの人を傷つけて……最後には、ローロに食べられちゃった」
キリエは、ふ、と口端を緩める。
「程度は違くても、きっと、リィルもガンドも、……キリエも、同じ」
キリエは、目を開く。ローロを見つめる。
「だから、祈りに、見返りは求めない。求めたくないの、許しを。でも」
ローロをまっすぐに見るキリエの目から、涙が一筋零れ落ちる。
「みんなが居なくなって、辛くて、悲しくて……。だから、せめて」
キリエは、再び目を閉ざす。
「主よ、憐れみください……」
「……ふ~ん……」
ローロは、キリエの体を手繰り寄せる。
「覚悟は、出来てるってこと~?」
「……主よ、憐れみください」
「にひひっ♡ いいね。キリエお姉さん、ローロ実はかなり嫌いだったんだけど~、でも、良いと思う。悪事に、罪に、許しを求めないの、いいね」
ローロは、その首に口を寄せる。触れ、小さく噛む。皮を、肉を。
噛み千切り、飲み下す。血が、ローロが口を離すなり、流れ落ちる。
「っ……。主よ、憐れみください……!」
「キリエお姉さん」
ローロは、キリエに優しく微笑みかける。
キリエは目を瞑っているから、そんなことは知りもしないのだろうけど。
「その罪、ローロが背負ってあげる。飲み込んであげる」
「主よ、憐れみください……っ」
耐えるように、キリエは繰り返す。ローロは、小さな口で、少しずつ、少しずつ、キリエを食らっていく。
「主よ、憐れみください……」
「キリエお姉さんは、全部失うけど、罪も苦しみも、残さないよ」
「主よ、憐れみください……!」
「だから安心してね?」
「主よ、ぃぎっ、あ、憐れみ、ください……!」
「全部ローロが、背負っていくから」
ローロはそれから、黙したまま、淡々とキリエを食べていく。
「主よ、憐れみ、くだ、ぁぐぃ、さい……!」
淡々と。
「しゅ、よ……! あわ、憐れ、み、くだ、さい……!」
淡々と。
「しゅよ、あわれ、み……? くだ……さ……」
淡々と。
「主よ、あわれみ、ください……」
淡々と。
「……
……淡々と。
そうして、ローロは、たった一人そこにいた。血も、肉も、骨も、キリエのすべてを食らい、ローロは一人、瓦礫だらけの路地の暗がりに立っていた。
「――――ローロちゃんっ、見つけた、よ……! キリエさんを、……キリエさん、は……?」
そこに、アイスが訪れる。ローロは振り返り、にっこりと微笑んだ。
「アイス様、ナイスタイミン~グ! ね、みんなに伝えておいて欲しいことがあるんだ~♡」
「……ローロ、ちゃん。もしかして、もう……!」
「ローロ、魔王城の謁見の間に戻るね~。だから、みんなでおいで~♡ ローロ、準備をして待ってるから~!」
言い終えて、ローロは指を鳴らす。アイスはすかさず「待ってッ!」と氷鳥を飛ばした。
だが、すべての分け身を取り戻したローロにとって、居場所も空間も些事そのもの。
氷鳥は空を切る。ローロの姿が掻き消える。
それは、これまでとは違う。幻で消えたように見せかけたのではなく、本当に指鳴らし一つで、ローロはその場から去っていった。
「……間に合わなかった……」
アイスは、強く歯噛みする。それから再び、息せき切って走り出した。
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