第431話 懺悔

 魔人の多くは、罪を重ねている。


 それを、今更どうこうとは思わない。ニブルヘイムは地獄。虐げるもの、虐げられるもの、すべてが悪であり、だから、罪も罰も、すべては些事であると。


 そんな言い訳がましいことを考えながら、キリエは必死に、ウェイドの嫁三人に守られながら走っていた。


「待ってよ~、みんな~♡ キリエお姉さん、ローロにちょうだいよ~」


 気味悪く笑いながら、ローロはどこまでも追ってきていた。


 キリエを守る三人が、魔法を撃ってもダメ。反転して切りかかってもダメ。


 幻覚、幻覚、幻覚。


 本当に追ってきているのか、それとも幻覚なのか。何も分からない状況が続いていた。


「はぁっ……! はぁっ……! ローロ、しつ、こい!」


 ウェイドの嫁の一人、毒魔法を使うらしいトキシィが、ローロに挑みかかった。毒の刃を飛ばし、ローロの体が上下に両断される。


 しかし、ローロはすぐにくっついて「トキシィ様ったら乱暴なんだから~!」と笑って、歩いてくる。


「~~~~~っ」


「トキシィ、諦めた方がいい。アイスの氷鳥も、あたしの電撃も意味がなかった」


「サンドラちゃんの言う通り、だよ……! 体力は温存して、仕掛けが分かるまでは逃げるしか、ない……!」


「っ……うん……! もう! これ、どうすればいいの……っ!?」


 それにトキシィは歯噛みして、再び走り出す。キリエは、自分よりも遥かに強い三人が手の打ちようもない状況に、絶望しながら走るばかり。


 みんなと同じに。力の尽きるまで。






 ヨルムンガンドが倒れるまでは、キリエ達は以前の隠れ場所に、隠れたままでいられたのだ。


 だが、ヨルムンガンドの動きは、一挙手一投足が破壊の権化。倒れこんだ先で砕けた瓦礫が飛んで、キリエたちの隠れていた廃墟は隠れ家として機能しなくなった。


 そこを的確に、ローロは見つけてきたのだ。


「――――そこ」


 最初に気付いたのはサンドラだった。振り返りざまに、小さな電撃を放った。それが、キリエの背後で炸裂した。


 キリエが驚いて背後を見ると、そこには手を焦がしたローロが立っていた。ローロは痛みに顔をゆがめながら、「にひひっ♡」と笑った。


「ほーんと、サンドラ様の勘って厄介だよね~!」


 腕を振るう。同時に、サンドラの目がつぶれ、血が噴き出た。


 その直後、アイス、トキシィの二人が、それぞれ魔法攻撃を加えた。しかしそれはすでに意味はなく、そのローロは掻き消え、この鬼ごっこが始まったのだ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! ま、まだ、ついてきてる……!?」


 キリエは必死に走りながら、アイスに並んで最前列を走っていた。


 というのも、速度順にすると、アイス、トキシィが遅く、上手く固まって逃げられないからだ。


 だから速度があって勘も鋭いサンドラがしんがり。一方前から順に、アイスとキリエ、トキシィという風になっていた。


「待ってよ~♡ にひひっ」


 ローロは、まるで歩いているような足運びなのに、驚異的な速度でキリエ達を追ってきていた。


 恐らく幻覚だろう、とは思うのだ。しかし、どこまでが幻覚かが分からない。追っているのがまるきり嘘なのか、あるいは幻覚に追わせて、本体は隠れて追跡しているのか。


「キリエさん、こっち……!」


 アイスに手を引かれ、キリエは細い路地裏に飛び込んだ。


 体を壁に何度か擦らせながらも、二人は必死に走る。そうしながら、息を切らしつつアイスは言う。


「キリエ、さん……! はぁっはぁっ、く、お願い、目を瞑って、くれる……!?」


「えっ? なっ、何で?」


「攪乱策があるんだけ、ど、ハァッ、なるべく、見られたくない、の……! お願い……!」


「わ、分かった」


 こうなっては、キリエの命はアイスたちに預けたも同然だ。だからキリエは、言われるがままに目を瞑る。


 そうしながら、走る。走る。走る。しばらく手を引かれるままに走って、「もういい、よ……!」と言われ、目を開ける。


 目を開く。アイスはそれからもう少しだけ走って、足の運びを緩め始めた。


 キリエは慌てながら、アイスに聞く。


「えっ、あの、アイス? 体力切れちゃった?」


「ううん……。攪乱策を打って、向こうが混乱してるのが分かったから、休もう……?」


 アイスは、いくらか安心した様子をキリエに見せる。アイスが言うのならば、恐らくはそうなのだろう。


 二人は、瓦礫の陰の小さなスペースに座り込み、体を休め始める。


「……アイス。他の二人は?」


「攪乱策の強度を強めるために、二人とも別の場所に誘導してる、の。ローロちゃんが完全に撒けたって分かったら、こっちに案内する、つもり……!」


「そ、そうなんだ……」


 多少の不信感はあるが、唯一ローロとの心理戦で互角に戦っていたアイスだ。ここは信頼するしかない、とキリエは納得する。


 そうして、キリエは息を潜める。静かにしていると、不安や悲しみがぶり返してくる。


「……うぐ、う、ぅぅ……」


 リィル、ガンド。キリエが、この数時間で失った家族たち。


 何でこんな目に遭わなければならないのだろう、と思う。


 キリエたちは、ただの平凡な魔人だった。たまに略奪や殺しはするが、その程度誰でもやっている。その意味でも、平凡な魔人。


 なのに、実は神の分け身だった、なんてことが判明してから、そんなよく分からない理由でここまで追い込まれることになった。


「何で……! どうして……! リィル……! ガンド……!」


 涙をボロボロと流しながら、キリエは呻く。アイスが隣で「キリエさん、あんまり声は出さないで……」と諫めてくる。


 だが、それに従えるほど、キリエには余裕がなかった。


「おかしいよ! 何でキリエが、こんな目に遭わなきゃいけないの!? キリエは、こんな風になるくらい悪いことしたの!?」


 怒りの矛先を向けるべき相手は、アイスではない。そんなことは分かっていたが、キリエにはどうしても耐えられなかった。


「確かに、キリエも多少は悪いことしてきたよ!? 商人から彫像奪って、取り返しに来た百人を撃退したり、店を壊されたオーナーさんを拉致って分けて奴隷にしたりしたよ!」


 でも、とキリエは続ける。


「でもそんなの、魔人みんなやってるじゃん! こんな小さなに、何でこんなひどい仕打ちを受けなきゃならないの……!?」


 キリエは、小さな声で叫ぶ。頭を掻きむしりながら、どうしようもない事態に悶える。


 そこで、アイスの様子がおかしいことに気付く。キリエは何だと思って、その呟きに耳を傾ける。


「商人から彫像……取り返しに来た百人……? それに、店を壊されたオーナー……」


 アイスは、キリエを見る。


「―――キリエさん、もしかして、出会ったばっかりのあの依頼、わたしたちを騙して戦わせた、の?」


「……あ……」


 キリエは、口を押える。アイスは、口を引き結ぶ。


「それだけじゃない。わたしたちがお世話になった骨董品屋さんの店主、バーカウさんも奴隷にして売ったって、こと……?」


「あ、ち、ちが、違うの、アイス。これは、その」


「キリエ、さん」


 アイスの周りに、氷鳥が飛び始める。その威力を見て知っているキリエは、震えながら首を振る。


 アイスは、キリエを問い詰める。


「今は、本当にギリギリの状況、なの……っ。自分のために嘘を言うような人のことは、信用できない……!」


 アイスのその静かな剣幕に、キリエは動けなくなる。それから、歯をガチガチと鳴らしながら、頷いた。


「……う、ん……。キリエは、ウェイドたちを騙し、てた」


 アイスの視線の鋭さに、キリエは咄嗟に言い募る。


「でっ、でも、でもね? キリエ、ウェイドたちが直接損をするような嘘は、吐いてないよ? パパの時だってちゃんと協力して」


「キリエさん……っ」


「う、ぅ……! だ、だって、だって……!」


 キリエは、ぎゅっと拳を握り固める。


「み、みんな、みんなやってる事じゃん……! キリエはむしろ、優しい方だよ……!? 弱ってる奴全部売り払ったりしないし、見境なく略奪もしないし……!」


 キリエの言い訳に、アイスの視線がより厳しくなる。


 当然だ。アイスは人間。魔人の倫理観で説明しても、通じるわけもない。


 だが、キリエには、それしかなかった。通じるわけもないと分かっていながら、キリエは言い募る。


「そうだよ! 悪いことはしたよ! でも、アイスはしてないって言うの!? 前の大商店大規模襲撃には、アイスだって参加してたじゃん!」


 アイスは、それに眼差しを緩める。キリエは涙をこぼしながら訴える。


「悪いことはみんなしてるよ! キリエだって、アイスだって、みんなそうじゃん! なのに、何でキリエばっかりこんなことにならないといけないの!? おかしいじゃん!」


 ぉぇ、とえずきながら、キリエは叫ぶ。


「せめて、せめてさぁ! キリエが傷つけてきた人にやられるなら、少しは納得できるよ!?」


 でも、違うじゃん! キリエはかぶりを振って嗚咽する。


「キリエをこんな風にしてるのは、キリエが何もしてないローロじゃん! 何で!? 何で何の恨みもないはずのローロに、こんな風にされなきゃならないの!?」


 その問いかけに答える者はいなかった。アイスは無言でキリエの背中を撫で、キリエはすべてを失った悲しみに暮れるしかない。


 キリエの思考は、ぐちゃぐちゃになる。何が何だか、よく分からなくなる。頭を抱え、右向くように呟く。


「……罪は、あるよ……。キリエは、ひどいこと、してきたよ……。でも、ローロは償う相手じゃない。ローロに追い詰められて、食べられても、キリエは許されない……」


 アイスは、そんなことを呟くキリエに、質問してくる。


「……キリエさんは、許されたい、の……?」


「……分かんない……。許されたい、のかな……? でもね……何か、こんな話をしてると、思い出しちゃうんだ……」


 キリエは自嘲するように、微かに口端を持ち上げる。


「キリエが今まで傷つけてきた人たちが、キリエを見るときの目……。みんな、キリエのことを恨んでた……。その恨みが、罰が、今、戻ってきてるのかな……」


 キリエは、分からない。


「どれだけ追い詰められれば、許されるのかな……。どれだけ苦しめば、罰は終わるのかな……。キリエは、分かんないよ……。これは、罰なの……? どうすれば、終わるの……?」


 キリエの思考は、千々として乱れている。走ってすぐに唸り、叫び出したせいで、体からはほとんど体力が失われてしまった。


 そんなキリエに、アイスはふと、こんなことを言い始める。


「……祈り」


「……なに……?」


 アイスが、キリエを見る。先ほどのような軽蔑のにじむ視線ではない。憐れむような目で、キリエを見つめている。


「キリエ、さん。その、何の解決にもならない話になっちゃうんだけど、いい、かな……」


「……いいよ、今更……。どんなに泣いても、怒っても、リィルもガンドも、戻ってこないんだし……」


 キリエが消極的な許可を出すと、アイスは小さな声で話し出す。


「……キリエさんの言う通り、わたしたちは、一片の曇りもなく罪人じゃない、なんて、きっと言えないんだと、思う」


 アイスは、目を伏せる。


「謝ったから許されるわけじゃない、し、謝ることもできない事だって、多くて……。やってしまったことの酷さは、到底許しを請うのもおこがましい、なんてことだって、ある」


「……許してって言うのも、ダメなこと……?」


「……あるよ。そういうことは。取り返しがつかないことをすると、許しを請うことすら許されない。人間にとって、人死にとかが、そうなん、だ」


「……」


 キリエは、魔人だ。だから取り返しにつかない事態にはならない。


 この城下街だって、これだけ大規模に破壊されても、いずれは復興する。魔人たちは死せど消えず、今も瓦礫に埋まりながら生きて呻いているから。


 だが、何となく分かるような気がした。


 魔人とて、元々は生きていた。その失われた記憶が、キリエにほのかな理解を促したのかもしれない。


「……どうやっても許されないとき、どうすればいいの……?」


 キリエの問いに、アイスは答える。


「祈るの」


「……何ていう風に? 魔王様よお許しを~、って?」


「ううん。魔王に、同じく神に許されたからって、ひどいことをした相手に許されることにはならない。許しは、与えられるもの。望むものじゃない、から」


「……じゃあ、何て祈ればいいの?」


 アイスは、言った。


「『憐れみたまえ』」


「……憐れみたまえ」


「罪はきっと、望んでするものじゃないはず、だから。その、望まざる罪に駆り立てられた自分を、許しはせずとも、せめて憐れんで欲しい。神に、ううん。主に、祈るの」


「……主……」


「神は、見返りをくれる。けど、主は、創造主はくれない。ただこの世界を、わたしたちすべてを祝福しているだけの


 だから、主に祈る。


「何も要らない。許しも求められない。けれどどうしようもない自分を、せめてお憐れみください。―――そんな風に祈ることだけは、きっとどんな人にだって、許されているはずだと、思う、の」


「……」


 キリエは、何の気なしに、そっと手を組んだ。それから目を瞑り、静かに、静かに呟く。


「……主よ、憐れみください」


「……うん」


 アイスの目で、柔らかく、優しくなるのを感じた。重く、沈鬱になっていた心が、ほんの僅かに、落ち着き、軽くなるような。


 そんな、少しだけ穏やかになった気持ちで、キリエは目を開く。


「やめときなよ。あんな奴に祈るなんて」


 そこには。


「え……?」


 そこにいたのは、ローロだった。


 周囲を見回す。場所は変わっていない。だが、アイスはいなかった。


 そっくりそのまま、アイスが消え、ローロがキリエの目の前にしゃがみこんでいる。


「あ……あぁ、ぁぁあああ……」


「にひひっ♡ キリエお姉さん」


 ローロは、キリエの胸を指で突く。


「つーかまーえたっ♡」


 ローロは、悪戯っぽく笑っていた。


 まるで、神のように悠然と。

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