第414話 名を呼ばれた日
レンニルの最初の記憶は、ニブルヘイムの辺境で、その辺の村人魔人に掴まって重い荷物を運ばされていた、というものだった。
当時のレンニルは、今同様に青年の肉体で、しかしそれ以外に何もなかった。記憶も、知識も、魔術も、何も。
だから、自分の名前さえ知らないままに、荷物を背負っていた。
何故自分が荷物を持たなければならないのか、と困惑したが、やめようとすると村人魔人が殴ってきた。だから、そいつに殴られないため、レンニルは荷物を担ぎ直した。
運んだ先は、少人数が住むばかりの寒村のようだった。
家の中で笑い声を上げながら飲み食いをする魔人と、家にも入れてもらえず凍えている魔人で分かれていた。
その中でも、ひときわ異彩を放っていたのが、ローロだった。
四肢を切り落とされ、裸で、魔人ですら惨いと言葉を失ってしまうような惨状で、かかしのように木に括りつけられて、雪の降る外に放置されていた。
顔は腫れあがっていて、元の容姿のほども分からない。切り落とされた四肢以外も殴打痕が多く残り、下腹部はドロドロに汚れていた。
レンニルは、それに、息を詰まらせた。目も当てられないほどひどい惨状であったのに、その光景から目を背けることができなかった。
そんなレンニルに、ローロは気づいた。僅かに顔を上げたのを見て、まだ生きているのだ、とレンニルはおののいた。
だから、ローロが放った言葉に、レンニルは硬直した。
『……えんいう……?』
今なら分かる。腫れ切った顔に血を流す舌で、ローロは『フェンリル?』と呼んだのだ。だがレンニルは当時何も知らなくて、そんな風には読み取れなかった。
『……レンニル、って言った、のか?』
『……』
レンニルの様子に、ローロは、口を閉ざした。レンニルは、そんなローロに近づいていった。
村人魔人が『おい! どこへ行く!』と制止するのも聞かず、レンニルはローロの肩を掴んだ。
『俺を、俺を知ってるのか? 俺は、誰なんだ? 何でこんなところにいるんだ? 俺の名前は、お前の名前は? 俺は、どうすればいいんだ?』
そんな矢継ぎ早の質問は、村人魔人に殴り倒されることで止められた。その後レンニルは何度も殴られ、四肢を切り落とされる以外ローロ同様の処遇を受けて外に縛り付けられた。
そんなレンニルを見て、ローロは横目に笑って、言った。
『
こんな状況になってなお軽口を叩けるのか、と思うと、レンニルは何だか笑えた。それからレンニルは、ローロにこう言った。
『
そう言うと、ローロは過呼吸になるくらい笑った。笑い過ぎて目を付けられ、とうとう首を落とされて殺されてしまった。
そうして、復活してやっとまともな姿で現れたローロが、まだボロボロのままのレンニルに言ったのだ。
『そうだね~。じゃ、よろしくね、お兄ちゃん♡』
それから、レンニルとローロは、何度もその村で苛烈な折檻に遭った。機を見て逃げ出しても、逃げ出した先で同じような目に何度も遭った。
その度に、レンニルとローロは、並んでひどい目に遭ってきた。自分たちは極めて弱い、無力な魔人だから。
それでも見捨てず、並んで不幸になることが、家族の絆なのだと信じていた。
レンニルの策のハマリ方は、我ながら見事な物だった。
「あの三人だろ。リーダーキリエは思った以上にやるが、それ以外はザコも同然だ。上手く罠にかけて、先に分け身をもらうぞ」
「そうだね~。お兄ちゃんの今の魔術なら、結構簡単だと思う。じゃ、よろしく~」
打ち合わせてやったことは、そう難しくない。
目標ことクライナーツィルクスは、戦闘力として見るなら、キリエのワンマンチームだ。
キリエは強い。油断すると、一回二回殺されてもおかしくないくらいの魔術を有している。
しかし一方で、キリエはローロに絶対的に弱かった。ローロが居れば、キリエはその場から逃げざるを得ない。
つまり、それだけだ。
レンニルは隙を見て、獣人魔人リィルをグレイプニールで捕まえ、キリエが助けに来ようとするのをローロがけん制する。
あとは、レンニルが食い終わるまで、ローロに張ってもらっていればいい。キリエはそれで封殺できる。もう一人、巨人のガンドも同様だ。
状況を覆しうる戦力である、左大将シリーナはもういない。クライナーツィルクス単体では、キリエに気を付けるだけで敵でない。
だからレンニルは、クライナーツィルクスに撒かれた振りをして、建物の屋上を伝って連中を追い、油断して立ち止まったところを急襲した。
「―――――ッ!?」
「捕まえたぞ、分け身」
グレイプニールでリィルの足を掴んで持ち上げ、壁面に吊るす。するとキリエとガンドが、目を剥いて立ち止まる。
「リィル! 今助け」「ダメで~す♡ リィルお姉さんは、助けさせませ~ん!」
素早く救出に動こうとしたキリエを、突如現れたローロがけん制。軽く指を鳴らそうとする所作だけで、不利を悟って逃げていく。
そうして、クライナーツィルクスの一人、獣人少女リィルの捕獲は終わった。あとは、ローロに見守ってもらいながら食べるだけだ。
「じゃ、レンニル兄さんはゆっくり食べててくださいよ。自分は残る二人の動向を追うんで」
「ああ、よろしく頼んだ、ムング」
「頑張ってね~!」
ムングは気が利くな、なんてことを思いながら、レンニルは地上に降りた。
リィルを吊るしていたグレイプニールを切る。するとリィルが落ちてくるので、その首根っこを掴んで抑えつけた。
するとリィルはこう叫ぶのだ。
「リーダーッ! リーダーぁぁあああああああッ!」
その叫び方は、まるで親を見失った子供のようだった。必死になって叫ぶ様に、レンニルは目を見開く。
「助けてぇっ、助けてぇええ! リーダー! リーダーぁっ!」
病的な必死さで、リィルは叫ぶ。そんなに叫んでもどうにもならない状況なのに、それも理解せずに、ただただ全力で叫んでいた。
「リーダーぁっ、リーダーぁぁあああ! 助けてぇ! 早く! 早く助けてぇええ!」
それに、レンニルは思うのだ。
……何だこいつ、と。
「うるさ~。お兄ちゃん、さっさと食べちゃいなよ~」
ローロが耳を塞いで嫌な顔をしている。だが、レンニルはそれ以上にリィルの騒ぎ方が気に入らなくて。
拳を、振りかぶる。
「うるさいな、黙れよお前」
殴る。「ぎゃぁっ」とリィルが短く呻く。
うるさい相手を黙らせる常套手段。騒ぐレンニルがよくされてきた手。
だが、リィルは黙らなかった。涙をこぼし始めても、声だけは変わらない調子で張り上げる。
「痛いっ! 痛いよぉっ! リーダー! リーダーぁぁあああ!」
「……お前、何だ?」
再び、拳を振りかぶる。殴る。殴る。黙るまで、何度も殴る。
「……あの、お兄ちゃん?」
ローロが、訝しそうな目でレンニルを見る。だが、レンニルはムカつきすぎて、手が止まらない。
そうやって、何度殴ってもリィルは泣き叫ぶのをやめなかった。病的な悲鳴と助けを求める声が、バザールの片隅に響き渡る。
「痛いよぉっ! 痛いよぉおおおっ! 助けてぇっ! リーダーっ、助けてぇぇええ!」
だが、そんなことをしても、誰も助けにこない。来ないのだ。ニブルヘイムとはそういう場所。悲鳴が上がれば、厄介ごとは御免だと戸を閉ざす。
キリエも、きっと同じだ。叫べば叫ぶほど、リィルの無事を知る。時間が稼げていると知る。だから今の内に、きっとドンドンと離れていっているはず。
だから、それは良いのだ。レンニルがムカつくのは、むしろその現実が分かっていないリィルの方。
殴りながら、レンニルは言う。
「お前、何で『助けて』だなんて言えるんだ。お前ら、家族だろ? 自分だけ捕まったなら、『逃げろ』じゃないのかよ。何で家族を巻き込もうとするんだ。その所為で家族まで捕まったらとか、思わないのかよ」
「助けてぇえええ! リーダー! リーダーぁぁぁああ!」
「だからさ」
レンニルは、拳を変わらない調子で振り下ろす。「あがっ」とリィルが痛みに呻く。
「家族なら、逃げろって言うだろ。助けてなんて、口が裂けても言うはずないだろ。被害デカくするだけだろ、それ。それとも他の誰かにって? 他人に助けてもらったことなんて一度もねぇよ。なぁ。なぁ!」
「り、ぃだー……! 助け、てぇ……!」
殴り過ぎて、リィルの声の大きさが小さくなってくる。だが、それでも助けを求めるリィルに、レンニルは舌を打った。
「……こんなのが、俺の最後のピースなのか……? 何だか、情けなくなってくる」
だが、まぁ、もういい。うるさくはないし。食ってしまおう。
レンニルは、リィルの頭蓋にかぶりつく。
分け身を食い始めるとき限定で、魔人の体は不可解なほど柔らかくなる。あるいは、食う側の咬合力が、不可解なほど上がるのか。
「やだぁっ、やめてっ、たすけ、あぎ、たす、ぁぇ? た……ぅ……? ぃ」
レンニルは、ゴリゴリとリィルの頭蓋を割って食い進める。頭蓋骨をかみ砕き、脳をすすり、リィルの叫びが不明瞭になって消え行っていくのに満足しながら、残りもすべて食べた。
食べながら、リィルの記憶をレンニルは得ていく。キリエをどれだけ信頼していたか。キリエにどれだけ助けられたか。そういう理由を知っていく。
そうして食べ終え、口端に残る血をなめとってから、レンニルは呟いた。
「そうか……、お前、助けてもらえた事があったから、叫んだんだな」
だが、今回はそうならなかった。どうにもならなかった。キリエは我が身を捨ててまでリィルを助けなかった。
それが、今回の顛末だ。
「お兄ちゃん、食べ終わった~?」
「ああ、余計な時間かけてごめんな」
「ううん。お兄ちゃんが余計なことするのはいつものことだし、いいよ~!」
「お前はいつも一言多いんだよ、ローロ」
レンニルはローロの鼻をつまむ。それにローロはもがく。そんないつものやり取りに満足して、レンニルはローロから手を離した。
「ほら、行けよ。そろそろご主人様がやってくる頃だ。今遭遇するのは良くないだろ」
「うんっ! じゃ、ここは任せたよ~、お兄ちゃんっ」
ローロが走り去っていく。それを見送ってから振り返ると、建物の上から、じっとレンニルを見下ろす者がいた。
「……悲鳴が上がってるのを聞きつけて、全力で走ってきた。遅かったけど」
「サンドラ様じゃないですか。一番乗りですよ。何というか、ホント猫みたいな人ですね」
レンニルは体の内側で、ゾワゾワと力が湧き上がってくるような感触を抱く。なるほど、これが揃うということか。これを掴んで、解き放てば、本来の姿に戻れるのか。
「じゃ、そっちはあんまり人が揃ってないみたいですけど」
レンニルは、湧き上がる力を掴み、解き放つ。
「サンドラ様強いんで、いっちょ始めましょうかね」
レンニルの体が、内側から大きく弾けた。
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