第363話 ヒュギエイア

 トキシィの作戦はこうだ。


 まず、トキシィとサンドラで別行動をとる。


 サンドラは常時毒の霧の中にいるのは向かない一方で、機動力があり、毒霧を一時的に晴らせるため、奇襲に向いている。


 そしてトキシィは作戦のメインとして、毒の霧の中を直進する。幻覚も、幻覚であると分かるならば問題はない。


 いざとなれば、ヒュドラに殴らせてでも正気に戻る予定だ。


「よし、行こう。行くよ……!」


 深呼吸を終えて、トキシィは歩き出す。毒の霧の嫌な空気が、トキシィを包み込む。


 それから、無言で歩いた。時折、『小娘、問題ないか』とヒュドラが聞いてくるので、「問題ないよ、ヒュドラ」と答える。


 霧の中は先ほどにもまして視界が遮られている。たまに聞こえる空のバツッ! というサンドラが放つ電気の音がなければ、きっと迷っていたことだろう。


 不意に、ゾワゾワと嫌な気配がしてくる。「ヒュドラ」と声を掛けるも、返ってこない。幻覚が始まったか。トキシィは一拍おいて、「殴って」と告げる。


 衝撃と痛み。視界がチカチカする。だが、ヒュドラの姿が目視で捉えられて、安心した。『問題ないか、小娘』と言われ、「ありがと、幻覚解けた」とまた進む。


 幻覚、と言いつつ、聴覚にも問題が出るのだから、この霧は最悪だ。入ってくる情報のすべてが塗り替えられる。


 そして幻覚を信じれば、最低でも無力化、人によっては自殺まで行く。溶けるほどのダメージを回避してこれだ。どれだけ気合の入った毒だというのか。


 そうやってまた少し歩くと、毒が蓄積しているのか、またすぐに幻覚を見る。


『トキシィ、お前の所為だ。お前の所為で、私は……』


『あなたが変なものを飲ませるから、お父さんは死んでしまったのよ、トキシィ』


「……幻覚だと分かってても、うるさいなぁ」


 トキシィの表情は険しい。ギリリと歯を食いしばって、トキシィは前へ前へと進む。


 終わったことだ。どうにもならないことだ。死人は生き返らないのだから。ギリシャ神話圏の彼岸、冥府で魔人となっているはずなのだから。


「……そう考えたら、私、お父さんに会えるのかな。でも、記憶とかもうないかな。……やめよう。考えたって、仕方ない」


 トキシィは、きっと父にはもう会えない。会えたところで、どんな言葉を交わせばいいか分からない。


 トキシィはもう救われたのだ。ウェイドによって、まず金銭や禍根的に救われた。


 そして、ウェイドが苦労して父親と和解する姿を見て、トキシィもまた救われた。


 父はきっと、今こうしてウェイドのために頑張れている自分を見て祝福してくれる。それを信じるだけだ。


「余計なこと、思い出させてくれちゃってさ。覚悟しなよ、ヒュギエイア」


 そう言いながら数歩。トキシィは強く目を瞑って、頬を何度か張ってから、目を開いた。


 目の前には、汚泥の溜まった巨大なクレーターがあった。ヒュギエイアや魔人たちが溶けあった、奇妙な汚泥。それはスラムの地面を溶かして、クレーターの中に沈んでいた。


 トキシィがこれだけ近づいても、動く気配すらない。目の前にしても、汚泥はやはり汚泥で、生命らしさは感じなかった。


 ヒュドラが『ドラゴンブレスを叩き込んでもいいぞ。当たった部分は確実に消し飛ばせる』と言うが、トキシィは首を横に振る。


 トキシィは、高らかに呼びかけた。


「ヒュギエイア! あなたの父親、アスクレピオスの身柄は預かった! 神ならばそれが気配で分かるはず! 殺されたくなければ今すぐ姿を現し、自害して!」


 トキシィの要求に、目の前の汚泥は反応しない。それに、トキシィは眉根を寄せた。


「いいの? あなたのお父さんが、今も苦しんでるんだよ? それなのに微塵も動きません、で済むと思ってるの?」


 だが、やはり汚泥は動かない。意思があるのかないのか。それとも眠っているのか。


 分からないが、要求に答えないならば仕方ない。


「ヒュドラ、吐き出して」


『うむ』


 ヒュドラはえずきながら、アスクレピオスをその場に吐き出した。アスクレピオスはなおもネルガルの病魔を中和すべく、権能を用いて抗っている。


 だが、毒の霧の中で一呼吸したところで、様子が変わった。呻きは大きくなり、『がはぁっ』と血を吐く。


『ひゅ、ヒュギ、エイア……?』


 アスクレピオスの、問うような声に、汚泥は波紋を立てた。大きく動き出したわけではない。


 しかし、反応した。


 確かに、ヒュギエイアは反応したのだ。


 トキシィは、前のめりで言葉を放つ。


「ヒュギエイア、いいの? あなたの毒の霧で、お父さん、こんなに苦しんでるよ? とりあえず、毒の霧止めなよ。じゃないとさ」


 トキシィは、笑う。


「あなたの毒で、お父さん、死んじゃうよ?」


 その言葉に、汚泥が明らかに波を起こした。クレーターのそこで、右に左に波が揺れる。


 ヒュドラが言った。


『小娘。どうやらヒュギエイアは、お前に似て跳ねっ返りらしい』


「え? 何いきなり。――――っ?」


 毒の霧が、明らかに濃くなったのをトキシィは感じ取る。とっさに口を押えるが、トキシィは濃くなった毒霧を吸い込んでしまった。


 視界が歪む。目の前に、恨めしい顔でトキシィを見つめる両親の姿が現れる。


『お前の所為だ』『お前の』『あなたがあんなことをしなければ』『あなたの所為でお父さんが』


「うる……さい、うるさい、うるさい! ヒュギエイア! こんなことをやっても無駄! あなたのお父さんが苦しめられるだけ! 違う!?」


 毒の霧がまた濃くなる。両親の姿が無数に増え、そのすべてがトキシィを責め立ててくる。


『トキシィ、お前が』『なんて、何てことを』『あなたさえいなければお父さんは』『さようなら、トキシィ』『お父さんのあの姿を見た? トキシィ』


 声が脳裏に反響する。これは実際の声じゃないと分かっていてなお、頭が割れそうなほど痛い。声を聴くたびに罪悪感が蘇り、死にたくなる。


 だが、今更死ぬわけには行かない。


 トキシィは、愛する人を殺す幸せにする怪物になるのだから。


「ヒュドラ!」


 殴打。トキシィはその場に倒れるが、視界は正常に戻っている。


 アスクレピオスはもがき苦しみ、『やめてくれ……父を助けてくれ、ヒュギエイア……!』と呻いている。


 その胴体に突き刺さるナイフ、呪われた勝利の十三振りである黒死剣ネルガルを、トキシィは掴んだ。それから、アスクレピオスの体をえぐるようにかき回す。


『ぎぃあぁぁぁあああああ……! ヒュギエイア……! ヒュギ、エイア……!』


 アスクレピオスは訳も分からないまま、ひたすら娘の名を呼んだ。毒の霧は濃くなる一方だ。あんな汚泥の姿をしておいて、ヒュギエイアはどこまでムキになるというのか。


 トキシィは叫ぶ。


「今だけだよ! 生きている今だけ、止まることができる! 後悔してももう遅いの! 反抗期で優しくできないことも! 素直な形で励ませないのも! あとで全部後悔する!」


 トキシィは当時反抗期だった。授かった毒魔法で奔走する父を、半眼で見ていた。


 ―――良いじゃない、毒魔法でも。お父様は大げさなの。穢れ魔法だって使いよう。役に立つってこっそり教えてあげる。


 そんな思いで、荒れる父に、毒魔法産の高揚する薬を混ぜた酒を渡した。一人で、単体でそれを飲む分には、少し気持ちが晴れる程度の薬だった。


 だが、当時のトキシィは知らなかったのだ。酒と薬は、合わせて飲むことで相乗効果をもたらす。作用も副作用も、ずっと大きくなる。


 そうして、父は首を吊った。そんな光景が、トキシィの目の前で蘇る。


 だが、もう、おしまいだ。


 トキシィの体の中に、毒の霧に対する抗体が作られた。ヒュドラに殴らせなくても幻覚は解けるように消えていく。


 そうして、トキシィはアスクレピオスを見下ろした。アスクレピオスは弱弱しくもがいていたが、少しして動かなくなった。


 アスクレピオスが、ヒュギエイアの父が、ヒュギエイアの毒で死んだのだ。


 毒の霧に体が侵され、汚泥へと姿を変える。ネルガルが落ちて、カランと音を立てる。


 重力に従って、アスクレピオスの汚泥が、クレーターの中へと落ちていく。


 それを目で追いながら、トキシィは言った。


「あーあ、言ったのに」


 アスクレピオスの汚泥が、ヒュギエイアの汚泥に混ざった。汚泥は跳ね、震え、渦を巻き、嵐の中の海のように荒れ始める。


「ヒュギエイア、どんな気持ち? あなたが素直に従わなかったから、こうなった。ううん。従わないだけならいい。私を殺そうとして、結果あなたがやったのは、私じゃなく父親殺し」


 トキシィの言葉に、汚泥が荒れ狂う。毒の霧はさらに濃くなり、粘度さえ感じられるほどに重苦しくなってくる。


『小娘、これでは飛べぬぞ』


「そうだねヒュドラ。ここで一旦退こっか。十分すぎるくらい恨みは買えた。あとは釣り出して殺すだけ」


 ヒュドラの忠告に、トキシィはネルガルを拾いながら首肯した。


 トキシィたちの撤退の雰囲気を感じ取ってか、汚泥は触手めいたものを、トキシィ目がけてすさまじい勢いで伸ばしてくる。


 当たれば痛打になるだろう。トキシィの不死は、ウェイドのような完全に近いものではない。一撃で体の半分を持っていかれれば、トキシィとて死ぬ。


 しかしヒュドラの言う通り、飛んで逃げることも難しい。毒の霧は、かき分けても視界から十センチ先を見通せない。


 だから、トキシィは言った。


「サンドラ、出番だよ」


「サンダーボルド・バーストアウト」


 雷が、毒の霧を焼き払う。


 この周囲一帯の毒の霧が、雷に引火して瞬時に燃え上がった。毒の中に含まれる有機物が、連鎖するように火を広げてサンドラを中心に晴れていく。


「途中から見えなかったけど、首尾は上々?」


「うん。ほら、ヒュギエイア怒ってるから、さっさと逃げよ」


「了解」


 トキシィはヒュドラの翼を広げ、サンドラは雷の魔法で空中に飛び上がる。


 それを、ヒュギエイアは追ってきた。


 汚泥を触手状に伸ばして、逃げるトキシィたちを追うように迫ってくる。


 それにトキシィは、何故だかひどく笑えてしまった。


「あっははははは! やっぱり逃がす気なんか起こんないよね! 分かるよ、ヒュギエイア! あなたは私の神! あなたと私は、こんなに似てるもの!」


 トキシィがトラウマを突きつけられてキレたように、ヒュギエイアだって自分の手で父を殺させられて、キレないわけがない。


 汚泥はまるで全身を筋肉のように稼働させて、高く空中に伸びてくる。


 トキシィは「速さ勝負だよ!」と笑いながら、翼に力を籠め、グン! とさらに高度を上げていく。


 トキシィとサンドラは、全力で空へと高く高く飛んでいく。ヒュギエイアの汚泥は空に全力で手を伸ばすように、二人を汚泥で絡めとって、呑み込み殺さんと迫りくる。


 高度はスラムに立つ魔王保護塔を超え、高台に立つ魔王城をも超える。


 ヒュギエイアの汚泥はそれでも意地を見せ、まるで細木のようになってもトキシィを追ってきた。


 そこで、トキシィは反転する。その手のひらには、ヒュドラの吐いた古龍の印が浮かんでいる。


「ヒュドラ。ここから一撃撃ったら、ヒュギエイアの全身に当たるかな?」


『うむ。ドラゴンブレスは破壊の概念の塊。太く、地獄の底を貫いて虚無にまで至る一撃だ』


「なら、神は殺せる?」


『愚問だな、小娘。ドラゴンブレスは、神を殺すために作られた、最初の魔であるぞ?』


 ヒュギエイアの汚泥が固まる。死を予感すると、あらゆる生物がそうなる。


 蛇に睨まれた蛙も、猛獣を前にした人間も、そして怪物の大口を前にした神でさえ。


「ヒュドラ、撃って」


『さぁ神よ。創造主に祈れ』




【ドラゴン・ブレス】




 トキシィの古龍の印から、極太の光線が放たれる。この世でもっとも破壊に特化した、古龍の特権。それが、ヒュギエイアの汚泥の、高く細く伸びたすべてを飲み込む。


 たっぷりと放たれた破壊の権化は、いつものヒュドラ特製の毒々しい猛毒息吹ドラゴンブレスとは違って、真っ白な光を放ってから、軌跡を残して消えた。


 そこには、何も残されてはいなかった。二柱の神を含んだ死者の汚泥は、確かにドラゴンブレスを前に消し飛んだ。親を殺させられた恨みも悲しみも、何もかもなかったように。


 その直後、トキシィの全身に、強烈な感覚が走った。魔法印が育つときのそれと、似て非なる感覚。


 トキシィは全身を抱きしめて、言う。


「……権能を、奪えた」


 スールの語る通り、本当に神から権能を奪った。奪えてしまった。それが、全身に走る感覚から、分かった。


「トキシィ、ナイス。どんな感じ?」


 電気を伴って飛び、ヒュドラの上にしがみついてくるサンドラ。しかし、トキシィはそれどころではない。


「ふ、ふふ、あははっ、あはははははっ……!」


 体から溢れんばかりの全能感に、トキシィは震える。その様子を見て「トキシィが楽しそうで何より」とサンドラは満足げに頷くのだった。

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