第362話 毒の怪物

 ヒュギエイアは、ギリシャ神話圏で一般的に信仰される健康の神だ。


 有名な医学の神アスクレピオスの娘。医術の祖アポローンの孫。


 神話においては大きな役割を果たすことはなく、故に神としては力が一段劣り、しかし故に神話を由来とする弱点を持たない。


 つまり、一般的な神そのものに他ならない存在。それが健康の女神、ヒュギエイアなのだ。


「……」


 そしてそれを、どうにか苦しめて殺す方法はないか、とトキシィは考えていた。


 人には、何があっても触れられたくない場所がある。それに触れるならば、それ相応の覚悟の下に触れるべきだ。


 だが、ヒュギエイアは違った。溶かし殺す毒の霧の付随効果で、霧を吸った者のトラウマをほじくり返す幻覚作用でもついていたのだろう。


 だからトキシィは思った。


 確かに元をただせば自分が呼んだヒュギエイアだ。その反撃に怒り心頭だなんて、傍から見れば滑稽この上ない。


 だが、トキシィが怒っているのは反撃を受けたことではない。軽はずみに相手のトラウマを刺激するやり口を、良しとする精神性である。


 そしてそんな神が、『自分に似ている』という理由で、体に刻まれた魔法印に浮かんでいるという事実も、腹立たしいことこの上ない。


 ついででそんな精神攻撃を加えてくるような奴は、後悔と苦しみの中で死ぬべきであると、トキシィは思う。苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死ぬべきだと。


 だから、トキシィは言った。


「ヒュギエイアって、親にアスクレピオスっていたよね。医学の神の。アレ、ついでに召喚して瀕死にして、ヒュギエイアに『親を殺されたくなければ自殺しろ』って迫るの、どう?」


「『……』」


 トキシィの提案に、ドン引きの表情で応えるサンドラとヒュドラ。サンドラは無表情だが、口が開いているのでたぶんドン引きしている。


 毒の霧を脱出した、近くの辛うじて崩れていない空き家の中のことだった。二人と一匹で、今後どうヒュギエイアを攻めるかを話し合っていた。


「……トキシィ、ずいぶんひどい目に遭ったみたいだね。いい子いい子」


「サンドラ、そういうの良いから」


『小娘、お前の狂乱ぶりは、見ていて痛々しいほどだった。今日はもうヒュギエイアごとき気にせず、ゆっくり休んでもいいのだぞ』


「ヒュドラ、甘やかさないで」


 静かにブチギレるトキシィを、どうにか宥めようと二人が言うが、無駄である。


 トキシィはもう心に決めている。あのクソの泥に死ぬほどの後悔を与えてやると。


「じゃあ、現実的な話をする」


 トキシィの意志は固いと見て、サンドラは口を開く。


「さらに邪神を呼ぶのは現実的じゃない。そもそも血が足りない」


「ううん、余ったのがあるよ。ヒュドラ」


『うむ。んぷ、おげぇ』


 ヒュドラの首の一つが、丸呑みした血の樽を一つ吐き出した。サンドラは「余ってるとは思わなかった」とポカンと呟く。


「一つだけどね。でも、殺して権能を奪う目的じゃないし、人質にするなら弱い方がいい。部分顕現って感じで行けるかなって思って」


「一理ある。でも、信仰は? 血の素材になる魔人は、呼び出す神を信仰している必要があったはず」


「ちょっと微妙だけど、それも問題ないと思う。これ、ポセイドン信仰とヒュギエイア信仰の血の余りを合わせたものなんだけど、血統だけならいい感じなんだよね」


「良い感じ?」


 首をかしげるサンドラに『ああ、家系図的な話か』とヒュドラは言う。


『ゼウスの弟、あるいは兄にあたるポセイドン。ゼウスの子アポローン、その子にあたるアスクレピオス。そのさらに子供のヒュギエイア』


「……つまり、兄弟の血とひ孫の血を混ぜたら、良い感じに孫の血になる、みたいな話?」


「遠さとしては悪くないと思わない? いい具合に歪なのが呼び出されそう。それにその方が、ヒュギエイアにもダメージ入るでしょ」


 神一体を相手取っている今、神の十分の一の顕現など、恐るるに足りないはずだ。


 もちろん、油断するつもりもない。徹底的にアスクレピオスを叩き潰すことで、それがそのままヒュギエイアのダメージになる。


 トキシィは問う。


「で、どう? この作戦に賛成な人、反対な人。理由付きでよろしく」


「はい」


「はいサンドラ」


「何かトキシィの目が据わってていい感じなので賛成」


「よし」


 理由は適当だが、賛成なら文句はない。


『では』


「はいヒュドラ」


『賛成だ。善なる神を邪神に堕として痛めつけて人質にするなど、まさに我ら怪物の所業ではないか』


 ヒュドラの意地悪い笑いに、トキシィは感心する。


「……そうだね。私はヒュドラを宿した怪物なんだもんね。その自覚、薄いままだったな」


 思い返せば、全然自覚しきれていなかった、と思う。


「シグに毒で血を吐かせたときに『もっと早いと思ってた』って言われたのは、そういうこと。私は怪物で、英雄には出来ないことを求められてる。それに」


 アイスの言った、ウェイドを殺せるほど強くなる、という命題。悲しくて、寂しくて、いずれ来たる終わりが恐ろしかったけれど。


 でも、それはウェイドのために必要なこと。トキシィは一番弱くて、出来ることも少なくて。


 だから一番、手段を選ばない狂気が求められる。


「……怪物の自覚を、持とう。私は怪物になる。ううん、もう私は、怪物なんだから。だから―――」


 トキシィは、かすかに笑う。


「―――神も、穢し尽くして、無残に殺さなきゃ」


 すとん、と心が落ち着くのが分かった。人間らしさを下手に堅持する、無意識下のこだわりみたいなものが、消えていく。


 そうして、トキシィは前を見た。サンドラもヒュドラも、トキシィの覚悟を微笑ましく見つめている。


「さ、始めようみんな。ヒュドラ、魔法陣吐き出して」


『うむ』


 ヒュドラは魔法陣の書かれたシートを吐き出した。それをトキシィはすばやく広げて、血の樽をヒュドラに持ち上げさせる。


「我が呼びかけに答えよ、医学の神よ、崇高なる神よ。この魔法陣に触れ、我が祈りに応えたまえ」


 ヒュドラは樽の蓋をはがし、輝きだす魔法陣の中に、混ぜ合わせた血を勢いよく流し込んだ。魔法陣は穢れた血を勢いよく飲み干していき、最後にはすべて飲み込んで輝きだす。


 直後、気配をこの場の全員が感じ取った。強大な気配。だが万全に呼び出された神とは違う、不完全で、歪んだ気配を。


 それは、とろけた老人のような姿をしていた。


 ところどころ肌が爛れ、うつろな眼窩には目玉が入ってないように見えた。老人は杖を突かねば歩けないように見えるほど、衰弱しきっている。


 だが、杖だけは別だった。


 杖は、金に輝いていた。太い蛇がしっかと巻き付き、神性を湛えている。


 トキシィはその姿を見て、確信した。


 召喚は成功したと。これは、アスクレピオスの不完全体であると。


「サンダーボルド・バーストアウト」


 真っ先に動いたのは、サンドラだった。


 サンドラの放った雷が、アスクレピオスの体を貫いた。紫電が周囲に散らばり、バチバチと音を立てる。


 しかし、アスクレピオスは無傷だった。どこから呼び出したのか、ボロボロの死者らしき手が地面から生え集まって、アスクレピオスの盾として機能している。


『あ、あぁ……ここは、私は……』


 よたよたと杖を突きながら、アスクレピオスは逃げ出そうと歩き出す。


 それにトキシィは、ヒュドラの幻影による突撃でアスクレピオスを吹っ飛ばした。


『んぐ……私は……ここは……』


 アスクレピオスは、再び死者の体を集めた盾で、身を守ったらしかった。しかし衝撃までは殺せないらしく、吹っ飛ばされて地面を転がる。


「サンドラ、逃げて」


 トキシィは、このままだと埒が明かない、と懐から黒死剣ネルガルを取り出す。


「警句を述べる」


 その言葉で、サンドラはトキシィの意図を察した。「逃げる。サンダースピード」と言って、瞬時にいなくなる。


 逃げ足の早さはサンドラの長所だな、と可笑しく思いながら、トキシィは言った。


「『朽ちゆく体の、苦しみを知れ』」


 鞘を払う。ネルガルの刀身が現れ、周囲に病魔が荒れ狂う。


 幻覚を見ていた時とは、格の違う瘴気がまき散らされた。だが、ヒュドラは毒の王。『なるほどなぁ、これはこれは……』と言いながら、トキシィを守る。


 だから安心して、トキシィは腰だめにネルガルを構えた。立ち上がり、またも逃げ出そうとするアスクレピオスに向かって、駆け出す。


「ああぁぁぁぁああああああ!」


 トキシィの突進に気付いて、アスクレピオスが死者の盾を呼び出す。すかさずヒュドラの幻影で盾を砕く。アスクレピオスを押し倒し、その胴体にネルガルを刺しこむ。


 その寸前で、アスクレピオスは杖を振るった。


 浄化の力だ、とトキシィは感じた。神の使用する強烈な浄化の力。邪神になっても、医学神としての本質は揺るがない。ネルガルの病魔が払われる。


 だが、呪われた勝利の十三振りは、神の力さえ及ばないからこその、呪われた勝利の十三振りである。


 払われた病魔は、すぐにネルガルの内から湧いて出た。ついで、アスクレピオスのとろけた老体にネルガルが突き刺さる。


『ぃぎ、ぁぁああああ……!』


 しわがれた断末魔の叫びを、アスクレピオスは上げた。だがトキシィは、手を緩めない。さらに深くまで、ネルガルの刀身でアスクレピオスの肉をえぐる。


 そうして、トキシィは立ち上がった。


 見下ろすそこには、アスクレピオスが悶え苦しんでいる。医学の神は、癒しの権能でネルガルに抗うのに必死になって、身動きの取れなくなっていた。


「……」


 それを、トキシィは既視感と共に見下ろしていた。無残な首吊り死体となって、地面に転がされた父の姿は今でも覚えている。


 アスクレピオスも同じだ。不完全な姿で、ネルガルを刺しこまれて無様に地面でのたうっている。父親のこんな姿は、可能なら生涯見たくはないものだ。


 だからこそ、ヒュギエイアへの攻撃手段として相応しい。トキシィは声を張る。


「サンドラ! 戻ってきていいよ。ネルガルの瘴気は、もうアスクレピオスの中だから」


「ほんと?」


 窓の上から、サンドラはひょこっと逆さまに顔を出す。かと思えば、くるりと一回転して着地し、すぐに家の中に戻ってきた。


「ホントだ。トキシィ、ナイス」


「よし、あとは適当に縄で拘束して運びやすくしよっか。ネルガルは刺したままね。多分、抜いたらすぐに復活する」


「分かった。不完全体でも流石神」


 手早く二人で段取りを決めると、ヒュドラが楽しそうに笑う。


『良いな、良いぞ、二人とも。神に対し、この扱い。怪物にふさわしい』


「あたしは別に怪物じゃない」


「サンドラ、こういう時は乗っとくの」


「怪物いぇーい」


「めちゃくちゃ素直なのはサンドラのいいとこだよね」


 トキシィは苦笑しながら、アスクレピオスを縄で拘束し、ヒュドラに飲み込ませる。


 さぁ、ここからが真のヒュギエイア戦だ。怪物らしく、無慈悲に行こう。

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