第361話 毒の霧

 トキシィは、悪魔が塩の塊になったのを見て「うわっ! 何したのアイスちゃん!」と目を丸くした。


「えっ、……と。わたしはその、別に何もしてない、よ……?」


「えー……? でも、そっか。これ塩だもんね。アイスちゃんの魔法とは何のかかわりもない、か」


 ムティーが言っていたが、我欲が完全に消え去ってしまった魔人は、塩の塊になって、すべての記憶と欲を失って転生するらしい。


 つまり、アイスとの最後の語らいで、そういう未練みたいなものがなくなった、ということなのだろうか。


 よく分からないまま、トキシィはアイスに笑いかける。


「ともかく、やったね! これでクレイに続き、勝ち星二つだ! あとはウェイドがドン・フェン倒して~……私がヒュギエイアの収集を付ける、と」


 言いながら、トキシィは肩を落とした。どうしよう。全然めどが立っていない。


 それに、アイスは苦笑しつつ「トキシィちゃん、元気出して……っ。私も手伝う、から……っ」と元気づけてくれる。


「ありがとう、アイスちゃん……! ……アレ? ところでローロは? 一緒にいたように見えたけど」


 トキシィが尋ねると、アイスはキョトンと首をかしげる。


 


「そう? まぁそれならいいや」


 見間違えだろう。トキシィは勝手に納得して、翼をはためかせて飛び上がる。


「じゃあ、アイスちゃんはどこかに避難してて! 手伝ってくれるって言うなら、遠くから安全にね!」


「うん……っ! ありがとね、トキシィちゃん。じゃあ、この子を預ける、から」


 アイスは小さな氷鳥を飛ばし、トキシィの肩に乗せた。「ありがとー! じゃ、一緒に頑張ろー!」と言って、トキシィはさらに空高く飛び上がる。


 そうして、中空まで上がって、滞空しながらトキシィは見るのだ。


 その、毒に汚染された神という災害を。


「……で、私はあれをどうすればいいの?」


 第二住居区の低地に垂れこめた、巨大な毒の霧。そして霧に溶かされた神と魔人の汚泥。


 ポセイドンの三分の一程度の被害範囲だ。しかし一方で、ポセイドン以上にどう手出しをしていいものか分からない何かが、そこにあった。


「とりあえずちょっかい掛けるしかないんだろうけどさー……うーん……」


 トキシィは高い毒耐性を誇るが、絶対の防御であるかどうか、という点には疑問がある。もし無策に突っ込んで即死、なんてことになったら目も当てられない。


 そう躊躇っていると、ヒュドラがトキシィに文句を言ってきた。


『小娘は臆病だな。毒の王たる余がついているのだから、あの程度の毒など気にするまでもないというに』


「そんな大口叩いて私が死んだらどうするの?」


 トキシィがムッとして言い返すと『クハハ、何を馬鹿なことを』とヒュドラは笑う。


『いくら邪神となって権能が歪んだとて、薬の神であるヒュギエイアが、毒の象徴たる余よりも上の毒性など持つものか。そして小娘。お前は我が毒に耐えた女であるぞ?』


「……信じるからね」


 トキシィは唇を尖らせつつも、毒の霧の中に飛び込んだ。


 着地。途端、嫌な空気がトキシィを包み込む。「うぇ」とトキシィは顔をしかめる。


 だが、それだけだった。トキシィは毒の霧の中で、嫌な感じに眉を顰めるも、それ以上のことはない。深く呼吸したくないな、というだけだ。


『それ、見たことか。小娘。余はこの世界で最も強い毒の王だぞ? 毒を使う以上、何人たりともお前を侵すことなどできぬわ』


「えー、でもまったく効かないことはないでしょ? 一応ほら、ヒュドラの毒も回ってくればキマるし」


『我が毒を嗜好品としている以上、他のどんなものも小娘の前には塵芥よ』


「はいはい。分かりましたよーだ」


 トキシィはちょっと拗ねつつ、毒の霧の中を歩く。


 霧の中は、不思議なくらい何の気配もしなかった。この霧の中で生命活動を行えるものなどいないのか。確かに溶けるのはこの目で見たが……。


 そう思っていた時、チチッと肩の氷鳥が鳴いた。「アイスちゃん、どうかした?」と見て、絶句した。


 氷鳥が、溶けている。毒の色が混ざりこみ、ずぐずぐと溶け、震えている。


「チ……」


 まるで謝るように一鳴きして、氷鳥はトキシィの肩から落ちた。ぺしゃ……と地面に溶けた氷の塊がつぶれる。


 トキシィは、青い顔で冷や汗を掻いた。


「……ヒュドラ。もしかしてなんだけど、この毒、私以外は……」


『よほどの不死性を持たねば、近づくだけで倒れるだろうな。霧を一吸いすれば、それだけで全身が溶けて汚泥となろう』


「ひゅ……」


 トキシィは言葉を失いつつ、テクテクと先へ進む。


 ヒュドラの話の通りならば、ヒュギエイアを相手取れるのは、トキシィかウェイドくらいのものだろう。


 だが個人的にトキシィは、ウェイドに力を借りたくない。自分がウェイドパーティでも弱い方だという自覚があるからこそ、自力でどうにかしたいという思いがある。


「……強くなるんだもん。ウェイドのおんぶにだっこは、ダメなの」


 トキシィは覚悟を決めなおして、ずんずんと先に進んだ。


 ―――街を荒らすだけならば、ポセイドンでも十分。


 そこにヒュギエイアを呼んだ理由。それはポセイドンがだめだった時に掛ける保険……というのは表の名目。


 本当は、トキシィがヒュギエイアを殺し、その権能を簒奪するため。


 クレイも、先ほどの勝利でポセイドンの権能を奪ったはずだ。だからトキシィも。クレイ同様にクリアしなければならない。


「申し訳ないとは、思うけどね。勝手に呼び出して、殺して。不敬なんて言葉じゃ足りないよ」


 でも、手は選んでいられない。そんな余裕は、トキシィにはどこにもない。


 ウェイドに、置いていかれないように。ウェイドを、一人にしないように。


「やりとげなきゃ。神を殺して、力を得るんだから」


 そうやってしばらく歩き、歩き、歩いて、トキシィは何かがおかしいことに気付く。


「……ねぇ、ヒュドラ。私、いつまで歩いたらあの本体のでろっとした奴につくのかな」


 問いかける。だが、ヒュドラは答えない。


「ヒュドラ?」


 振り向く。ヒュドラは、そこにいなかった。「え」とトキシィは言葉を失う。


「ヒュドラ? 嘘。何をされたの? 何でヒュドラがいないの。何で―――」


 訝しみながら、トキシィは右に左にと周囲を窺う。


 その時、背後で、ギィ、といつか聞いた音を聞くのだ。


「……え……」


 その音に聞き覚えがあって、本当に嫌な記憶で、トキシィは凍り付いた。


 過呼吸を起こしかけながら、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。だが、わずかに揺れ見え隠れする影が、その姿が、ああ、あああああああ。


 司祭を務める人間の、ゆったりとした白を基調とした服装。それが糞尿に汚れ、首に縄がくくられ、ギィ、ギィと音を立てて揺れている。


 それは、あの日に見た、最悪の光景。気づけばトキシィはもっと幼い姿になって、目の前では首をくくった父が揺れていて。


「な、なん、なんで、やだ、どういう、うそ、おとう、ちがう、こんなの、こんなの現実じゃないッ!」


 トキシィは強く首を振る。目を背け、逃げるように走り出す。


 何が、何が起こっているのか分からない。ここはニブルヘイム、大迷宮の底の地獄世界のはずで。


 だから、ここはあの時のトキシィの家のはずがない。ここはカルディツァじゃない。トキシィは無力な少女じゃない。


 なのに、なのに何で。


「何で、全部記憶の通りなのッ!? ここはどこ!? 何で、何でカルディツァの街並みがここに広がってるの!」


 周囲で歩いている人々が、叫ぶトキシィを奇妙そうな目で見つめている。すると、何者かに体を掴まれ引っ張られる。


「ッ!? 何! 誰!」


「トキシィ! あなた、どこへ行くの!? それにあの部屋の、お父様はどうしたの!」


「ッ」


 トキシィの手を掴むのは、母だった。そうだ、と思う。トキシィはあの時も逃げ出して、それで母親に捕まって。


「やだっ、やだぁっ、放して! 放してぇっ!」


「説明して! 何で、何でお父様はあんな風になってしまったの!? あなたなの!? あなたが飲ませていた、あのよく分からない飲み物の所為なの!?」


 トキシィは母親の手を払って逃げ出そうとするが、どうにも力が強くて、ろくに払うこともできない。


 苦しい。トキシィは思う。罪悪感が、忘れたかった記憶が鮮明に蘇る。


 そうだ。トキシィはそうなのだ。自分のために動いた父が、詐欺に遭って大きなお金を失うのを見て。反抗期でも、せめて元気づけようと、クスリを混ぜた飲み物を渡して。


 その時はよかった。楽しく見えた。落ち込んだ様子がなくなったように見えた。だがそれは麻薬成分の所為。ぶり返しが起こって、父は、深い絶望の中で―――


「お前の所為だ」


「ひっ」


 母親の物とは思えない声が響いて、トキシィはとっさに自分の手を掴むそれを見た。


 それは、母親ではなかった。首を吊り、首が伸び、糞尿を垂れ流し、顔が青紫色に膨れ上がった父が、トキシィの手を掴んでいた。


「お前が、あんなものを入れるから、私は死んだんだ。強い麻薬成分の含まれたそれの副作用が、深い絶望が私を狂わせ、縄を首に、私は椅子から飛んだんだ」


「やめて。やめてお父様。ごめんなさい。私、私が、悪かったの。あんなことになるなんて思ってなくて、ただ、毒魔法だってそんな悪い魔法じゃないって、元気づけたくて」


「だが、それで私は死んだぞ。なのに、お前はいまだにこうして、のうのうと生きている」


「あ、う、うぅ、うぅぅぅううううぅぅぅぅぅ……!」


 トキシィは頭を抱える。罪悪感が、信じられないほど大きく胸の内で膨らんでいく。


「何故、何故死なない。何故私の後を追わずに、このような場所にまで来ている。どうして人を愛することができる。お前にそんな価値があるというのか。父をこうして殺したお前に」


「ごめんなさい……! ごめんなさい……っ」


「謝るだけなのか。謝れば許してもらえると思っているのか。そんなことで、父を殺したその汚名を雪げると思っているのか」


「私、私は、じゃあ、どうすれば……!」


 そのとき、カラン、とトキシィの懐から何かが滑り落ちた。それは、当時のトキシィが持ちえないモノ。


 ウェイドから受け取った、呪われた勝利の十三振り、黒死剣ネルガル。


『それを使え。さぁ、今その罪を贖う時だ。私の後を追ってこい。そうすれば、許しはもたらされる』


「あ、ああ、ああぁ……!」


 トキシィは泣きながら、黒死剣ネルガルを握った。それから逆手に持ち直し、自らの腹に突き立てるように、大きく手を振りかぶる。


『さぁ、やれ。死ね。お前の罪は死でのみ許される。さぁ死ね。―――死ね、死ね、死ね!』


「う、あ、あぁ、あぁぁぁぁあああああ!」


 トキシィは思い切り、ネルガルを振り下ろす。ネルガルの病魔が、トキシィの体を蝕む。


 その、寸前だった。


「サンダーボルド・バーストアウト」


 激しい落雷が、トキシィの目の前に落ちてきた。それは地面を焼き、空気を焼き、毒の霧を焼き払った。


「あ、え……?」


 途端、トキシィの視界が正常に戻る。


 トキシィを拘束していた父の手はヒュドラの首で、トキシィが走り飛び込もうとした先に、ヒュギエイアの汚泥が溜まっていた。


 そして目の前には、毒の霧を焼き払って現れたサンドラが、金髪のサイドテールを揺らしてトキシィの手からネルガルを奪い取っている。


『正気に戻ったか! 小娘!』


「え、え」


「トキシィ、大丈夫?」


「え、あ、うん……」


 二人から同時に言われて、やっと理解が追い付いてくる。


 そうか、今まで見てきたのは、幻覚か。


 トキシィはヒュギエイアの毒の霧で、幻覚を見せられていたのだ。


「危なかった。どこで何をすればいいか全然分かんなかったから、トキシィに聞きに来て正解だった。まさか、トキシィの毒耐性を貫通して、幻覚作用を引き起こしてるとは」


『小娘、余からも詫びよう。まさかヒュギエイアが魔人たちを飲み込んで、ここまで力を増しているとは思わなかった』


「……、……、……」


 トキシィは、状況が掴み切れず、ポカンとしたままサンドラを見上げている。


「ともかく、一旦また離脱する。行くよ」


「う、うん……」


 サンドラに抱えられ、「サンダースピード」と雷になって空を駆ける。


 そうしながら、トキシィはヒュギエイアの霧を見つめて、思うのだ。


「……じゃあ何? 私は、ただの毒の攻撃で、あんな光景を見させられたの?」


 あんな、トキシィの奥の奥に眠る、もっと暗く淀んだ過去を、単なる攻撃の一環でさらけ出され、こんな思いをさせられたというのか。


 トキシィは、じっと毒の霧を見る。その奥に溜まる、毒の汚泥を見る。


 そして、トキシィは呟くのだ。


「許さない」


 ヒュギエイア。お前に、今のと同じか、それ以上の苦痛を与えて殺してやる。

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