第356話 ポセイドン

 窓から飛び降りた直後、クレイは言った。


「立ち上がれ、テュポーン」


『オウ』


 海中からボコボコと土くれが上がりだし、クレイを包み込んで、巨人テュポーンの姿を構築する。


 その肩に、スールが着地した。クレイにスールは言う。


「クレイ様、こちらの準備は完了です。いつでも行けます」


「ああ、行こう。テュポーン、行けるね?」


『オウ! オレを誰ダト思ってヤガル! ガハハハー!』


 テュポーンは両腕をドラゴンの頭の形に変えて、ドラゴンの口から無駄に炎を吐かせた。やる気は十分ということだろう。


 クレイは、テュポーンに語り掛ける。


「テュポーン、見ての通り、敵は支配領域を広げている。水深は恐らく十メートルを超えるだろう。けどそれは、君にとっては川流れのようなもの。突き進んでくれるね?」


『クレイ、お前が聞いテルことはナ、ドラゴンに「ブレスを出せルカ?」って聞いてルようなモンだゼ』


 クレイの確認は、一種の煽りとしてテュポーンに響いた。テュポーンは前傾姿勢を取って、高笑いを上げながら突き進む。


『コノ程度! 朝飯前ダァ――――!』


 荒波を、断ち割るように、テュポーンはザブザブと進む。


「はははっ! さすがはクレイ様の奥の手ですね! 抵抗をほとんど感じない、すさまじい速度です!」


『ダロー!? オレは、無敵ダァ――――!』


 スールが褒めるから、さらにテュポーンの勢いは増していく。荒波の、支配領域の中にいてなお、テュポーンは力強い。


「ウェイド君に聞いた通りだ。実力があれば、支配領域内でも戦える余地はある」


 以前、支配領域に完全に取り込まれてなお勝利した、という話をウェイドから聞いている。多少の不安はあったが、十分戦える余地はあるという事だろう。


 だが勝ち切るには、情報はまだ不足している。


 そう考えていたところで、スールは嵐の飛沫を捕まえて、クレイに告げてくる。


「クレイ様、僭越ながら、支配領域についてご報告してもよろしいでしょうか?」


「むしろ僕からお願いしたいところだったよ、スールさん。お願いします」


「はい。この海には、弱体、軽度の混乱、恐怖の魔術、もとい権能の効果があるようです。よほど強固な精神防御がない限りは、海に触れた時点で恐慌状態に陥ります」


「……なるほど、海に触れた時点で半強制的に恐慌状態、か。冷静な対処を許さず、物量で飲み込む支配領域……」


 強力だ。下位の金等級では対応できないだろう。


 必ず溺れさせる海を、これだけ広範囲に展開する。まさに神の御業と言ったところだ。国を亡ぼす権能。、とクレイは思う。


 神は、ムティーの話によれば、神話に情報が揃っているという。強み、能力、そして弱点。


 幼いころから、祖先たる神として、ギリシア王族のクレイはギリシャ神話の神々について教えられてきた。主神たるゼウスに、その兄弟であり立ち並ぶ実力者ポセイドン。


 ポセイドンは、海と地震の神だ。司る魔法属性は水と土。その内、クレイは土で魔法を発現した。


 その性質は粗暴にして豪快。逆らう者があれば国ごと亡ぼす。荒れ狂う海の神だ。


 主神ゼウスに並ぶ実力を持つ以上、正面からの弱点は存在しないと言っていい。


 その意味では、先ほどのドン・フェンとの対決は意外だった。


 クレイは、ポセイドンの圧勝だと思っていたのだ。


 しかし、そうはならなかった。ドン・フェンは未知の支配領域を展開し、ポセイドンに抗って見せた。


 決着はつかず、ドン・フェンは攻め手がないと仕切りなおすように逃げた。敗走なら、ポセイドンはさらに手を増やし逃がさなかっただろう。


 だが、ポセイドンは逃げるドン・フェンを静観した。ポセイドンにも、ドン・フェンを殺しきる手がなかったことの証左だ。


 クレイは思う。


 まず、ドン・フェンは、想定したより何倍も強い可能性があること。支配領域くらいは使ってくるだろうと思っていたが、ポセイドンと拮抗するほどとは思わなかった。


 次に、やはり神は全能ではないということ。殺しうる余地がある。強大だが、絶対ではない。それがこの世界の神なのだと。


 ならば、策は嵌りうる。それは神話を元に考えた、一つの解釈。


「そろそろだ、テュポーン。敵は近い」


『アア! ……トコロデ、クレイ。この海、妙ナ懐かシサがあるンダガ、敵ハ一体、誰ダ?』


「……君にも因縁のある相手だよ。違う神話圏の神を、無理やりここに呼び出したんだ」


『ッテことは、ギリシャ神話の神カ? ダレだ? ゼウスか? 奴は強イゾ。元のカラダでヤット、オレの方が強かッタんだ。この土くれの体じゃ負ケル可能性がアル』


 テュポーンの話は知っている。主神ゼウスに、唯一勝利した怪物の王。最後には神の策略に嵌り敗北したが、それまではただ正面からすべてに勝利してのけた。


 ―――そう、すべてに、だ。


 クレイは言う。


「違うよ。僕らの敵は、海の神。ほら、そこだ。海の底で嵐を操る海神、ポセイドンだ」


 クレイが言うと同時、ポセイドンもまた、こちらに気付いたようだった。テュポーンとポセイドンの視線が重なる。お互いを認知する。


 そして。


 ポセイドンの表情が、激しくに歪んだ。


『な、な、な――――何故ここにいるッ! テュポーンッッッ!』


『ンン……? ―――ガハハハハハハハー! 何ダと思エバお前! オレに恐れをナシて逃げ出したポセイドンジャネーカー!』


 クレイは知っている。テュポーンの逸話を。


 テュポーンに立ち向かったのは、ゼウスたった一柱。それ以外の神は―――テュポーンの強大さに恐れをなし逃げ出したと言われている。


 それは、それまでの神話で名を上げた、多くの神々も同じこと。


 ポセイドンですら、テュポーンを前に逃げ出したのだと―――


「クレイ様。海から、恐慌状態の権能が消えました。同時に、嵐が弱まっています」


「――――! ありがとうスールさん。そしてムティーさん、流石は白金の松明の冒険者だ! あなたの言った通り、!」


 神を殺すならば神話を知れ。神話には、強大なる神の強みも能力も、そして弱点も載っている。


 ならば、この勝負は、初めから決まっていた。


 何がどうなろうと―――ゼウスギリシャ神話の最高神以外の神は、テュポーンには敵わない。


 クレイは言う。


「テュポーン、神話の効果が分かった。後は消化試合だ。強大な神だから手こずる可能性はあるけれど、それでも君の勝ちは揺るがない」


 クレイは勝ちを確信して、宣言した。


「神を殺そう、テュポーン。僕ら、怪物の矜持を見せよう」


『ウォォォオオオオオオオオオオ!』


 テュポーンが咆哮を上げる。空気が、海の底に沈む大地が、ビリビリと震えだす。


『あぁぁぁあああ! うわぁぁぁあああああ!』


 ポセイドンは半狂乱で、水を操って鉄砲水を放った。練られた水流は強烈な勢いでテュポーンの体を、四方八方から撃ち貫く。


「なっ!? 神話の相性で弱らせても、まだこれだけ強いのですか、ポセイドンは!」


 スールが慌てる。穴だらけになったテュポーンの体は、今にも崩れだしている。


 だが、クレイは気にしない。ただ、淡々と命じるのだ。


「テュポーン、次に移ろう」


『オウ!』


 クレイはテュポーンの体から抜け出して、スールの横に現れた。それから「スールさん、ここからはあなたの力を借りたい」と告げる。


「っ。分かりました。私は何を」


「このテュポーンは、宿る力は本物ですが、体はただの土くれです。大威力には脆く、崩壊します。しかしそれは、テュポーンの死ではない」


 だから、とクレイはつなぐ。


「新しい体に乗り換えれば、テュポーンは復活する。だがこの海に落ちれば僕らは押し流されるだけ。つまり、あなたの橋が必要だ」


「―――分かりました。微力ながら、ワタシの力をお貸しいたします」


 腕を一気になぞり、炎の剣を顕現させる。それをテュポーンに突き刺し、前に滑らせた。


「支配領域『ビフレスト』」


 テュポーンから、虹の橋が架かる。クレイとスールは、急いでテュポーンの体から橋に移り、駆け出した。


 途端、テュポーンの体が崩れ始める。半狂乱のポセイドンの鉄砲水が、さらに土くれの体を打ちのめし、あっけなく巨大な土くれが海に沈む。


『ハ、ハハハ、ハハハハハハハ! やったぞ! かの恐ろしき怪物を、我も打倒した! これで我も、ゼウスにも並ぶ神に』


「テュポーン、次の体の準備は終わったかい?」


『今ッ! 終わっタァ――――!』


 海の中から、再び巨大な怪物が立ち上がる。むしろ勢いもサイズも増して、テュポーンの体はスールの虹の橋の先に隆起した。


『―――――ッ!? 何故! 何故お前は死んでいない! テュポーン!』


 ポセイドンは目を剥いて叫ぶ。それに、テュポーンは高笑いだ。


『ガハハハハハハハー! 今のオレは、召喚獣ダゾ! こんな借り物の体ガ、イクラ崩れヨウト、オレが死ヌカァ―――!』


 水底でポセイドンは歯を食いしばる。その隙にクレイとスールはビフレストを渡って、新しいテュポーンの体に移る。


「申し訳ございません、クレイ様。ポセイドンの支配領域がまだ優勢のようで、我がビフレストの真骨頂である『虹の橋の外の魔の無効』効果や、支配領域を閉じることができません」


「いいえ、十分です、スールさん。橋が架かるだけで、テュポーンは実質的に何度でも復活できるようになりましたから」


 クレイはテュポーンに触れ、そのまま中に潜った。テュポーンの体が、それで再び活発に動き出す。


 クレイはテュポーンの召喚主。いわば核に近い。中に入って初めて、テュポーンは召喚獣としての本領を発揮し始める。


『続きと行こうゼェ、ポセイドン! お前ラが逃ゲタあの日の戦いの、続キをヨォ―――!』


『来るなっ! 来るなぁぁぁああああ!』


 ポセイドンは必死になって鉄砲水を操り飛ばす。しかし、テュポーンは、高笑いを上げた。


『ソウ何度モ、オレが同じ攻撃ヲ喰らウカァ―――!』


 拳。


 鉄砲水に向けてテュポーンは、思い切り拳を放った。正面から打ちあう、テュポーンの拳とポセイドンの鉄砲水。


 勝ったのは、テュポーンだ。


 パァンッ! と音を立てて、ポセイドンの鉄砲水が弾ける。それに、ますますポセイドンの顔が引きつった。


『い、一発対処できた程度で、図に乗るなぁぁぁああああ!』


『ガハハハー! 何度撃っても、無駄ダァー!』


 四方八方からの鉄砲水のすべてに、テュポーンは拳で答えた。腕を無数に増やし、死角からの鉄砲水すら拳で打ち砕く。


 テュポーンは、様々な姿を持つ怪物だ。基本は巨人の姿だが、体をドラゴンにも、触手にも変幻自在に変わることができる。


『クソ! クソ! クソぉぉぉお! お前など! お前などぉぉおお!』


 水がうねる。渦ができる。テュポーンの姿勢がわずかに揺らぐが、クレイの言葉なき命令でテュポーンは強く足で地面を掴み、姿勢の不安定さを打ち消す。


 しかし、渦は予兆でしかなかった。気づけばポセイドンの姿は消えている。逃げたか? それを疑った時、スールが言った。


「クレイ様、水位が、大きく下がっています」


「何だって」


 嵐はいまだ吹き荒れ、殺傷能力こそ失ったものの、視界は大きく制限されている。


 だから、クレイたちは吹き荒れる雨と風の奥で、巨大な影が動くのに気付くのが遅れていた。


「クレイ様、アレは」


 クレイは目を凝らす。その向こうで、テュポーンの何倍も、何倍も巨大な影がうごめいているのが見えた。そして、その頂点に、小さな人影―――ポセイドンの姿が。


「津波だ」


『テュポーン! 貴様はここで殺す! お前から逃げ出したかつての恐怖を! その汚名を! この津波で雪ぎ落す!』


 呆然と見つめるクレイの言葉に、ポセイドンの絶叫が重なる。


 状況は絶望的。物量で戦うテュポーンを、その何倍もの物量で押しつぶそうとするポセイドン。


 だがそれは、神話を知らない者の見方だ。


「……テュポーン、君はこれを、どう見る?」


 クレイは、至極落ち着いた声で、自らの召喚獣に問いかけた。テュポーンは、いつものように豪快に笑って答える。


『確かに、デカイ波ダ。今でも体長五十メートルハあるオレが見上げるホドだから、数百メートル級の津波ダ』


 ケドナ、とテュポーンは笑う


『ソレデモ、オレは、負ける気ガシネェー! 何故ナラ! アイツハ! オレから尻尾巻いて逃げ出シタ! 臆病者のポセイドンだからダァー!』


『ほざけッ! 忌まわしい怪物がぁぁあああ!』


 津波が、襲い来る。


 気づけば、地面はすっかり干上がって、地面をむき出しにしていた。ポセイドンは、この津波に、支配領域で出した水のすべてを集めたらしい。


 だが、それはクレイに言わせれば悪手の一言。足元の瓦礫を次々に吸収しながら、テュポーンは膨れ上がって、二倍にまで成長しながら前に進む。


『これで死ねッ! テュポーンッッッッッ!』


『オ前ナンゾに負ケルカ、臆病者ガァ――――!』


 津波がテュポーンに落ちてくる。テュポーンが腰だめに構えを取り、力強く拳をためる。


 勝負は、一瞬だった。


 膨大な量の津波に、クレイは素早く、肩に乗るスールを内側に避難させた。その直後、津波がテュポーンの体をメチャクチャにした。


 巨大なテュポーンの、何倍も何倍も巨大な津波。膨れ上がったテュポーンの百メートル級の体を上から押し潰し、その体を構成する土くれを勢いだけで押し流す。


 濁流が、再びスラムにあふれた。猛烈な勢いで流れ出した水がすべてを押し流す。瓦礫を砕き、生き埋めのままの魔人たちを再び深い水底に沈め、何もかもを海に飲み込む。


 そうして荒れ狂う海が落ちたその中心で。


 テュポーンは、立っていた。


『オレの、勝ちダッタようだナァー……ポセイドン……!』


 二十メートルにまで縮んだ体は、海に半分ほど沈んでいる。だがその手の中には、海の核たるポセイドンの姿があった。


『ぐっ、放せ……! テュポーン、この、怪物めが……!』


 海から抜き取られたポセイドンは、必死な顔で三又の槍をテュポーンに刺しこんでいる。


 だがその権能は、今の津波でほとんど使い果たしてしまったのか、テュポーンの体に異常は現れない。


『サテ……、コレデオレの勝ちダガ、クレイ、このあとドウスル?』


 クレイはその問いに、ただ答えた。


「殺してくれ。それですべて解決する」


『ひっ、やめろ! 殺すな! 我は、もう』


『分かッタゼ、ガハハハー!』


 ポイっ、とテュポーンは、ポセイドンを宙に放り投げた。それから、体がねじ切れんほど強く、その体を捻る。


『やっ、やめっ』


『オラァ――――!』


 ポセイドンが、落下する。そのタイミングを見事にとらえ、テュポーンの拳が、ポセイドンの小さな体を打ち砕く。

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