第354話 狼の死闘

 瓦礫の中から這い上がったドン・フェンの脳裏によぎるのは、経験したこともない大戦争の記憶だった。


 荒れ狂う巨人と神々。天変地異は連続し、あらゆる艱難辛苦が訪れる日々だった。


 そこでドン・フェンは、戦い抜いた。戦い抜いた先で、牙をむいた。奴を、確かに殺したのだ。


 だが、それが誰で、どれほどの意味を持つのかを、忘れていた。きっと、思い出すこともないのだろう。


 自分は、恐らく、なのだから。


「……何だこれは」


 突如として訪れた惨状によぎる走馬灯のような記憶を振り払って、フェンは低く唸るように言った。


 視界に広がる、瓦礫、瓦礫、瓦礫。眼前に渦を巻く嵐。そして、その中心に立つ小さな影。


 神だ。フェンはそう直感した。神など、生涯で見たこともない。だが、不思議とそれが、一目でわかった。


「何だこれはァッ! 誰がこの、冷たくも安寧に包まれたニブルヘイムに、神などを招き入れたァッ!」


 激怒に吠えるフェン。だが、それに答える者はいなかった。


 少し遅れて、瓦礫の中から部下が這い出して来る。


「ドン、これは……!」


「動ける奴はついてこい! 戦争だ! 何者かが、このスラムに神を連れてきやがった!」


「わっ、分かりました! おい! ドンがあの中心に挑むそうだ! 動ける奴はどれだけいる!?」


 フェンの命令に、慌てて部下が動き出す。それに反応して、歴戦の部下たちが、ぞろぞろと眠たげに瓦礫の中から這い出してきた。


「くぁあ、何だよドン。あんな面倒くさそうなのやるのか?」


「ああ、やる。神なんぞニブルヘイムにふさわしくねぇ。ぶち殺してやる」


「神ぃ? 何だよ神って。ここは地獄だぜ? 何で神がきやがんだよ」


 ゲラゲラと笑って、部下はフェンの言うことを信じない。


 だが、信じないだけだ。


「ま、神がどうとか関係ねぇや。ドンが行けって言うなら、行くだけだ」


 部下の一人がそう言うと、ぞろぞろと「そうだな」「むしろ神に挑めるなんて楽しいじゃねーの」「おーおー派手に暴れてよー」「腕が鳴るぜ」と集まり始める。


「行くぞ、お前ら。神狩りだ」


『応!』


 フェンの号令に、部下たちが統率の取れた返事をする。同時、フェンたちは駆けだした。


 誰よりも速いのは、フェンだった。嵐の中を脚力だけで駆け抜ける。嵐の中で、真空の刃が回っているのか背後で悲鳴が上がるが、フェンの剛毛は傷を許さない。


 そして、フェンは敵の神をその目で捉えた。上半身裸で、三又の槍を手にした髭の男。


 フェンは、唸るように問う。


「テメェ、何モンだ」


 神はフェンを睥睨し、答えた。


『我が名はポセイドン。海と地震を司る、偉大なる神なり』


 フェンの爪と三又の槍が、激突する。


 ギャリリリリリリ! と耳障りな音が激しく響いた。フェンはすぐさま劣勢を悟って引き下がる。


「その槍、ただの槍じゃねぇな……。権能か」


『貴様……覚えがあるぞ。巨人。その血の匂いだ。貴様、何者だ?』


 フェンとポセイドンは、お互いの武器を弾きあって距離を取る。それからフェンは、ポセイドンについて考える。


 会話が成り立っているように見える。だが、恐らく違うだろう。支離滅裂になっていないだけで、フェンの中に何か懐かしいものを嗅ぎ取っただけだ。会話ではない。


 同時に、フェンは胸糞悪くて、ボソッと呟く。


「何が、巨人の血だ。俺は天涯孤独だっつーんだよ、クソが」


 その辺りで、タフな部下から続々とフェンの元に集まり始めた。振り返り確かめると、大体十人ほど。


「おい! 少ねぇぞ! 他の連中はどうした!」


「すいません! あいつらは全員吹き飛ばされちまったみてぇです!」


「チッ! まぁいい。ここで吹き飛ばされたなら、その分安全ってもんだ」


 エーデ・ヴォルフの構成員は、暗殺ギルドに加盟する人口の、大体五割を占める千人ほど。そして今しがた倒壊した建物の中にいたのは、その二十分の一の五十人。


 つまり、フェンが呼びかけた部下の内、五分の四が嵐で吹き飛ばされたことになる。クソ、とフェンは内心で毒づく。


 今しがた倒壊したフェンの居た建物には、強い奴や伸びしろのある奴を集めていた。フェン直々の指名だ。


 その選りすぐりが、この始末。他の建物で過ごしていた構成員は、全員吹き飛んで再起不能だろう。


 魔人にとって恐ろしいのは、自分の死よりも環境の変化だ。例えば今のように、中途半端に建物が崩壊して生き埋め、なんて状態の方が、パッと殺されるよりよほど困る。


 フェンは意識を再びポセイドンに戻す。ポセイドンは、さらにさらに嵐を強くするために、三又の槍を高く掲げている。


 フェンは、命令を下した。


「俺の支配領域で奴を拘束する! その隙に全員でこいつを殺すぞ!」


『応!』


 もはや手を抜く理由は一つとしてない。今すぐに全力を持って、この暴虐の神を殺すだけだ。


 フェンは自らの体を掻き抱き、まるで拘束されたように縮こまって、言う。


「支配領域、『黄昏待つ狼の戒めグレイプニール』」


 嵐の中心を包み込むように、膨大な量の紐が、周囲を走り出す。


『ふむ……?』


 ポセイドンは、それに奇妙そうな顔をした。フェンは再び胸を張って立ち上がり、ポセイドンに指をさす。


「拘束しろ、グレイプニール」


 周囲を覆う大量の紐から、無数の紐がそれてポセイドンに向かった。


 グレイプニールは、頑強な拘束の紐。神に近い存在ですら、容易くねじ伏せてきた強力な拘束具だ。


 フェンは、確信している。目の前に立つこの神でさえ、グレイプニールに縛られれば助からない。あとは一方的に雁字搦めにして八つ裂きにするだけ。


 だが、ポセイドンは寸前で、トン、と槍の柄尻で地面を叩き、言う。


『支配領域「水底の都アトランティス」』


 地面を叩いた柄尻から、膨大な量の水があふれだす。


「なんもががぁっ!?」


 物量。ただその一点で、フェンの支配領域は押し流された。口に入ってきた水のしょっぱさで理解する。海水。海の神というのは、こういうことか。


 しかし、その程度で諦めるフェンではない。「グレイプニール!」と叫びながら海面より手を伸ばし、伸びてきた紐により海から脱出する。


『ハハハハハハハハハ!』


 だが、ポセイドンは己の優勢で手を緩めない。海を操り、強烈な鉄砲水でフェンに襲い掛かる。


「侮るなァッ!」


 それを、フェンは退けた。グレイプニールは寄り集まって壁を作り出し、フェンに襲い掛かる鉄砲水を弾く。


『まだまだだ、獣よ!』


「しゃらくせぇ!」


 鉄砲水は、四方八方から襲い来る。だが、体勢を整えなおしたフェンの繰るグレイプニールは、そのすべてを弾ききった。


 そうして、膠着。紐によって吊るされ、鉄壁の守りを構築するフェンと、海中の濁流に守られながら、ギラギラと笑うポセイドンの図が出来上がる。


「クソッ! 他の奴らは……流されちまったのか」


 荒れ狂う海によって、フェンの部下たちはもはや、どこにいるのかすら分からない。


 恐らく、支配領域の拮抗によって、フェンだけが生き残っている。


「……すまねぇ。俺の采配ミスだ。ここまでの奴なら、全員逃がしてやるべきだった」


 フェンはギリリと歯を食いしばる。


 エーデ・ヴォルフは、フェンにとって家族も同然の共同体だ。魔王軍に掴まり無用に苦しめられるのなら、救わねばならない相手だ。


 その意味で、フェンは大失態を犯していた。多くの家族が、波に攫われ苦しんでいるはず。


 初手で避難させていれば、と相手の力量を見誤ったことを悔やむ。


「……支配領域なら、ここから倒しちまえば……いや」


 支配権を競ってポセイドンの支配領域を潰すことも考えたが、諦めた。


「ダメだ。支配領域だけじゃねぇ。戦況も完全に拮抗してやがる」


 ポセイドンを攻撃しに海に潜れば、濁流に呑まれて流されるばかりのフェン。


 だが同時に、ポセイドンもフェンへの有効な攻撃手段を持たないでいる。


「……チッ」


『ふ……』


 お互いに支配領域を解かないまま、無言で距離を取った。フェンは頭上から降りてくるグレイプニールで高く吊るされ、足場になるように張られた一本に乗り上げる。


「これじゃ済まさねぇぞ、神。お前は、俺が殺す」


『すべて、すべてを飲み込んでくれる。我に逆らう者、すべて!』


 フェンは後悔と共に、張り詰めたグレイプニールの反動を使って、猛スピードでその場から飛び去った。


 残されるのは、ただ海神の支配領域ばかり。スラムを沈める海が、荒れ狂い続ける。

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