第352話 邪神顕現

 邪神召喚作戦には、ウェイドに話していない続きがある。


『皆様が邪神を殺した際に、何が起こるのか、という話をいたしましょう』


 語ったのはスールだ。邪神召喚が魔術に当たる以上、スールが一番詳しい。


『邪神は、穢れた血で出てきた肉体と、肉体によって穢された神の精神、そして神の権能で構成されます。そして神の権能は、神の肉体と精神がなくなることを想定されていない』


 どういうことか、とスールは続ける。


『神の権能は、常に宿り主があることが想定されています。宿り主を失った権能は、指向性をもたないエネルギーの塊。行き場と制御を失えば、ただ爆ぜるばかりです』


 その意味では、前回の邪神ヘイムダルは例外でした。スールは語る。


『以前殺したヘイムダルは、どうやら裏でムティー様が何か細工をしたために、そうはならなかったと聞いております。ムティー様は「恩着せがましくなるから黙っとけ」とのことでしたが……』


 ともかく、とスールは本題に戻る。


『その、宿主を失った神の権能は、近くにいる同じ魔法印の持ち主を、権能の持ち主であると誤認することが分かっています。邪神は死に、その魔法印の持ち主に権能は移動する』


 スールは、深呼吸の後に言った。


『これがすなわち、神殺しの効能。邪神に堕とし、権能を簒奪する―――魔術の真髄に値する、冒涜的で、絶大な力の獲得方法です』











 クレイは樽の血を魔法陣に注ぎ込んだ直後、死を予感して全速力でその場から退避した。


 幸いにして、一拍ほどの猶予がそこにあった。


 だから退避してすぐにテュポーンに血を与え、地面に開いた巨人の口の中に身を投じた。


 その直後、魔法陣から巨大な地震が発生した。巨人テュポーンからの視点で、クレイはその惨状を目の当たりにした。


 半径数キロにわたって、あらゆる建物が倒壊していた。それどころか地盤ごと割れ崩れたのか、地面から生えた巨大な岩々がスラムの建物を刺し貫いていた。


 道端を歩いていた魔人たちは軒並み死に瀕し、しかしその脳に直接刻まれたルーンのために、感涙しながら「おぉ……神よ……」とうめき声を漏らした。


 そしてその中心。魔法陣の敷かれたそこ。


 そこに、筋骨隆々な上半身を晒し、三又の槍を携え、濡れたひげを蓄えた男が立っていた。






 トキシィがヒュドラの幻影を使って、樽の中身を魔法陣にぶちまけた直後、底冷えのするような感覚に襲われ、とっさにヒュドラの翼で空高く舞い上がった。


 すると魔法陣を中心に、スラムの一区画を覆いつくすような勢いで毒の霧が広がった。


 道端を歩いていた魔人たちは、ひと呼吸をしただけで、その霧の中に沈んで溶けていった。魔人たちは死ねば復活する。だから復活と共に毒霧を吸い、死に、溶けるのを繰り返した。


 毒の霧は低いところに、水のように移動し垂れこめていく。その奥底に、魔人が溶けたことでできた汚泥が溜まっていく。その汚泥は見る見るうちに増えていく。


 ハッとして、トキシィは魔法陣のあった場所を見た。そこには、蛇の絡みついた杯を持った、ゆったりとした服装の女性がいた。


 しかし彼女はトキシィを見上げ、奇妙に歪んだ笑みを浮かべ、自らの毒霧を吸って溶けた。その溶けた神の汚泥は、他の魔人の汚泥に混ざっていく。


 そうして、神は姿を消した。痕跡と影響を、そこに残したまま。






 俺は、アイスの氷兵が魔法陣に血を流しこむのを、警戒と共に見守っていた。


 他二人は、恐らく無事に召喚できるだろう。何かあっても、自分の身を守る能力を持った二人だ。邪神の一番近くにいても、心配はしない。


 だが、アイスは別だ。どうなるか、まったく分からない。


 だから、俺、サンドラ、スールの三人で、何があってもすぐに動ける体制を作っていた。ローロとレンニルは、巻き込まれても死んで生き返るだけなのでいいとして。


 樽の中身が、魔法陣の中にすべて収まる。大量の血は、魔法陣の中で、見えない壁に阻まれるように貯められていく。


 それから一拍おいて、何が強烈に嫌な予感が、俺たちの背筋に走った。


「全員! 厳戒態勢!」


 俺の号令に、全員が警戒を固める。魔法陣に貯められた血が、ぎゅっと凝縮され、人の形になる。


 そして、こびりついた血のように、あるいはメッキのように赤錆びた表面が剥がれ、中身が露出した。


「……え……っ?」


 そこにいたのは、アイスだった。体に何も纏わず、生まれたままの姿でそこに座り込んでいる。


「……!?」


 俺は絶句する。それから視線を、本物のアイスへとやる。


 アイスもまた、魔法陣の中に立つアイスを、目を剥いて見つめていた。


 アイスが、二人。


 状況を正しく認識できる人間は、一人もいなかった。俺は遅れて、「スール!」と一番詳しいだろう魔術師の名を呼ぶ。


「も、申し訳ございません、ウェイド様。わ、ワタシにも、この状況は……!」


 困惑する俺たち。しかしそこで、唯一動き出すものがいた。


 他ならぬアイス―――魔法陣の外側の、本物のアイスが、魔法陣に向けて歩き出した。


「っ!?」


 アイスは、何かに惹かれるように、ふらふらと魔法陣に近づいていく。俺はその光景に、止めるべきか否か全くわからず、ただそれを見つめていた。


 そして、アイスとアイスが触れ合う。敵意はお互いになく、ただそっと手を重ね。


 魔法陣の中にいた、邪神と疑われる方のアイスが、崩壊した。


「……、……。……あ、アイス……!」


 俺は、躊躇いながらも、小走りにアイスに近づく。アイスは、魔法陣で呼び出されたアイスに触れた手のひらを、じっと見つめている。


「だ、大丈夫か? 今、何が起こった? 何で、邪神が……」


「……」


 俺の呼びかけに、しかしアイスは、手のひらを見下ろし続けている。それから少しして、手を開いたり、指を動かしたりしてから、言った。


「邪神召喚は、失敗した、みたい」


「え?」


「でも、大ごとにはならなかった。むしろ……ううん。ちょっと、分からないことが多すぎる、から。ごめんね、ウェイドくん。分かったら、また、お話しする、ね……っ」


 アイスは、いつもと様子が変わらなかった。ただ、感覚的に何か、俺の知りえない何かを知ったような口ぶりだった。


「……分かった。力になれることがあれば、教えてくれよ」


 俺は、アイスの物言いに、ただそう言うしかなかった。アイスはすでに強い。そのアイスに過保護になれば、また怒られてしまう。


「……よく分かんないんだけど、失敗したならリトライする感じ~?」


 ローロが聞くと、アイスは「ううん……っ。多分、何回やっても結果は同じだと思う、から」と首を振った。


 俺は、状況の不可解さに腕を組む。


「じゃあ、どうするか。アイスが失敗したとなると、二人の方も心配になってく」


「ウェイド君! 今すぐ逃げろ!」


 俺の言葉を遮るように、クレイの言葉と、テュポーンの拳が俺たちのいる空き家を断ち割った。


 何だと思った瞬間には、テュポーンの手が地面ごとこの空き家を持ち上げ、高らかに投げ上げる。


「うぉぉぉおおおおおおおお!?」


 まさかのクレイの反逆に、俺は情けない声を上げてしまう。いや、クレイが今更反逆するわけないだろ。落ち着け俺。


「オブジェクトウェイトダウン! オブジェクトポイントチェンジ!」


 一旦建物ごとこの場の全員の重さをゼロ近くまで下げて、空中で固定する。すると、テュポーンから乗り込んできたクレイが、俺に絶叫した。


「何やってるんだ! 今すぐ逃げろって言ってるじゃないか!」


「はぁ!? いやだから、こうして空中に」


「それじゃ足りないから言ってるんだ! あの神は、ポセイドンはこの程度じゃ」


 クレイの言葉の途中で、俺たちの間に銀閃が走った。見れば、地面から矛先を上にして、三又の槍が生えている。


「え」


「まず」


 俺の困惑に、クレイの動揺が続く。


 そして、声が響くのだ。


『荒れよ嵐』


 三又の槍を中心に、空気が、うねる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る