第258話 『香箱の神』アルケー・フレグランス
モルルは、必死にこの場を乗り切る方法を考えていた。
無論、勝利する、ということはすでに思考から外している。パパは勝てとは言わなかった。正しく逃げられるように、モルルを試験した。その意図が分からないモルルではない。
だが、この場合の逃げるというのが、モルルにとっては困難だった。
ただ逃げるだけならばいい。必死で逃げればいいだけだ。時折こちらからも攻撃して驚かせれば、さらにうまく逃げられるだろう。
だが、リージュはひどく衰弱していた。振り回せば死んでしまうのではないか、と思うほどに。今も、苦しそうにモルルの背で喘いでいる。
どうする。モルルは焦る。自分一人の戦いもままならない中で、モルルは誰かを守る戦いに身を投じている。
アルケーは言った。
「あら、飛び掛かってくるかと思っていたのに、案外慎重ね。なら、こちらから」
アルケーは指で円を描く。するとその中で靄が渦巻き、形を成した。
蛇。
大量の蛇が、泉から湧き出す水のように、渦を巻く靄の中から吐き出された。それらはシュルシュルと地面をはって、百匹近くの数でもってモルルたちの周囲を囲む。
「逃げたそうだったから、逃げ道を塞がせてもらったわ。強硬突破はお勧めしないわよ。その蛇の一匹一匹が毒蛇。モルルちゃんは平気かもしれないけれど、リージュちゃんは、ね?」
「……!」
モルルは、下唇を噛んで考える。
地面の道はなくなった。だが、モルルは古龍だ。走って逃げる道が塞がれたことが、むしろモルルの道を開く。
―――躊躇うな。一瞬で事をなし、逃げ延びろ。
モルルは古龍の印を吐き出し、即時に変身した。角を生やして無限の魔力に自らを繋ぎ、リージュを背負う形から抱きしめる形に移行し、翼を生やして飛び上がった。
「まぁ」
驚くアルケーの声を置き去りにして、モルルは上へ上へと飛び上がる。一度羽ばたくごとに何百メートルと上昇する。
だが何故か、靄が晴れない。何かがおかしい。そう思いながら高く飛んでいると、モルルは天井にぶつかった。
「!? な、何? 空に、天井?」
天井が開く。モルルは、絶句する。
「あら、可愛いわね。小さな小さな、ドラゴンさん」
見上げ足りないほど巨大なアルケーが、はるか上空からモルルを見下ろしている。
今ぶつかった天井。それはアルケーの手の平だった。アルケーはどういう訳か、モルルたちがほんの小さな豆粒に見えていそうなほどに、巨大な姿で立ち塞がっている。
その意味の分からない状況に、モルルは悲鳴を上げるところだった。だが、寸でのところで飲み込む。腕の中で、リージュが苦しげに呻く。
「ッ!」
「あら、また逃げるの? でも、無駄よ。あなたたちは、わたくしから逃げられない」
もうここは、香箱の中なのだから。
天から響く声を無視して、モルルは飛びまわる。横に、下に。時間間隔がおかしい。頭がおかしくなりそうなほどの混乱を抱えながら、モルルは靄がかった地面に着地する。
すると、周囲の靄が晴れた。シャー、と蛇の威嚇の声を聞く。無数の毒蛇がモルルたちを囲っている。
そして、眼前には、しっとりとモルルを見つめるアルケー。
モルルは、顔面を蒼白にして目を剥いた。
「空の旅は楽しかった? モルルちゃん?」
「あ、ああ、―――それでもッ! モルルは負けない!」
リージュの両耳を塞ぐ。古龍の印を喉に出現させ、思い切り叫ぶ。
【ドラゴン・ボイス】
激しい音が周囲を震わせる。石造りの廃墟の壁が僅かに崩れる。ドラゴンボイスには、それほどの威力がある。
その叫びに、いかにアルケーと言えども無事では済まない様だった。両耳から血を流して、うずくまっている。蛇はみんなひっくり返って動かない。
今の内に、とモルルは駆け出す。だが、背後から声が迫ってきた。
「流石は、古龍ね。やってくれるわ……。ますます、逃がせない」
「うるさいっ! モルルたちはもう逃げるの―――ッ!?」
全速力で走っていたモルルは、眼前に迫った陰に咄嗟に止まる。靄が晴れた先には、アルケーが立っていた。それを見て、モルルはアルケーを破らないと脱出できないのだと悟る。
「ぅ……」
「あ、ご、ごめ。リージュ、ごめんね。苦しかったよね」
お姫様抱っこの形で抱えるリージュが、苦しげに呻いた。モルルは歯を食いしばり、どうしていいか分からなくなる。
遥か格上。守らなければならない無力な仲間。モルルは、実力不足と高い壁の間に立たされ、葛藤していた。
どうしようもない。どうしようもないほどに強い、敵。難しい困難。
まだ生後一年も経っていない早熟な古龍は、高すぎる負荷を前にパニックを起こしかけていた。飛んで逃げてもダメ。走って逃げてもダメ。どんな逃げ方でもダメ。
なら、戦うしかないのか。でも、全力で戦えば、リージュに負担がいく。リージュは死にかけるほど弱っているのに、そんなことはできない。
モルルは、全身が震えている。歯を食いしばり、強い闘志を秘めながら、その幼さゆえに涙をこぼしてしまう。
アルケーは言った。
「ああ、そう。ごめんなさいね。わたくしは、勘違いしていたみたい。小さいとはいえ、古龍。戦える敵だって思ったの。違ったのね。あなたは、保護しなければならない子供だった」
「違うっ! モルルは、モルルは戦えるもん!」
「なら、掛かっておいでなさい。優れた才能が、泣いているわよ」
「う、うぅ、うわぁぁああああああ!」
【ドラゴン・ブレス】
リージュを大切に抱きしめながら、モルルは口からドラゴンブレスを放つ。原初の破壊。破壊の概念そのもの。そんな光線は、何物にも遮られないはずだった。
「時よ、止まれ」
だが、『香箱の神』はそれを簡単な指振り一つで止めて見せた。
真っ白な光線が、空中でピタリと止まる。モルルはそれに困惑し、同時に自分も動けないことを知る。
「ふぅん……。すごいわ。時を止めているから問題ないけれど、長時間見ているだけできっと目が潰れてしまう。今この瞬間も、この停止の魔法を破壊し続けている」
研究者の目つきで、アルケーはドラゴンブレスに近づき、まじまじと見つめている。
「古龍の存在は知っていたけれど、本当にすさまじいわ。幼体でこれなら、成体はどうなってしまうのかしら。ああ、でも、成体のドラゴンブレスは多分こんな魔法効かないわね」
まぁいいわ、とアルケーは言って、ドラゴンブレスの真横に立って指を振る。
時間が戻る。ドラゴンブレスが廃墟を砕いて消えていく。ガラガラと瓦礫の崩れる音ばかりが、残酷に反響する。
モルルは、もう何も言えない。涙をこぼしながら、強すぎる敵から目を背けられないままでいる。
絶望の静寂の中で、アルケーは言った。
「古龍の幼体の、かぼそいドラゴンブレスだけれど、とても参考になったわ。ここまで解析が進めば、十全に模倣もできる」
「あ……あ……」
「モルルちゃん、あなたとリージュちゃんを、揃って連れて帰ります。あなたは肉体操作能力がありそうだから、無力化は少し痛いけれど、我慢してね」
アルケーが指を鳴らす。古龍の印が無数に、モルルを囲うように現れる。
モルルは、とっさにリージュを庇うように抱きしめた。ドラゴンブレスは容易にモルルを貫きリージュを殺すかもしれない。それでも、それ以外にモルルにできることはなかった。
古龍の印たちの中心に、真っ白な光がともる。モルルは覚悟を決めるように、ぎゅっと目を瞑る。
【ドラゴン・ブレス】
だが、古龍の光線は、いつまでたってもモルルたちを貫くことはなかった。
「……! ……。……?」
モルルは、しばらくの沈黙を挟んで、恐る恐る目を開ける。真っ先に視界を覆うのはやはり靄。だから、すぐには分からなかった。
晴れていく靄の中に現れる影。見慣れた大剣。獰猛な笑み。いつだってモルルを助けてくれるその背中。
「……パパ……?」
「ああ、パパだ。よく頑張ったな、モルル。リージュをよく見付けた」
靄がさらに晴れる。モルルたちを囲っていた古龍の印のすべてが、両断して消えていくのを見る。そのさらに先で、瞠目してパパを睨みつけているアルケーを知る。
「……! まさか、こんなタイミングで登場するとはね、『ノロマ』のウェイド。今、あなたは何をしたの? 古龍の印なんて形ないものを、どうやって切り伏せたの?」
「いや、だってあれ粗悪な紛い物じゃん。本物斬るならもう少し頑張らなきゃだったけど、お前のそれはもっと脆かったぞ」
煽るようなパパの物言いに、アルケーは顔を真っ赤にして手を振るう。
「言ってくれるわね……! ならば、まずはあなたを倒すことにしましょう! 『ノロマ』のウェイド。わたくしはアルケー・フレグランス、『香箱の神』よ」
パパはそれを無視して、モルルの頭を撫で、リージュの頬を心配そうに触れた。
「モルル、少し離れてな。ここからは、大人の戦いだ。リージュのこと、守ってやってくれ」
「う、うんっ」
モルルはリージュの呼吸がか細くなるのを感じながら、大切に抱えて離れる。パパはモルルたちのそんな様子をいくらか見守ってから、アルケーに言った。
「悪いな。えっと、アルケーだよな。口上変わった? 何か格好良くなってないか?」
「どこまでも、コケにして……! いいでしょう。以前のわたくしとは全く状況が違うことを、その身に分からせてあげます」
「分からせる? はは、冗談キツイぜ」
靄の奥で、パパが渇いた笑いを上げる。
「これから、分からせられるのは、お前だ。よくも俺の大事な大事な愛娘泣かせやがったな。よくも可愛い妹分をあんなに弱らせやがったな」
底冷えするような声が響き、「ひ」とアルケーは息をのむ。モルルは改めて、パパの恐ろしさを知る。
「お前、神とか何とか言ってやがったな。神を語る詐欺師が。覚悟しろ。今からその舌引き抜いて地獄に落としてやる」
パパが、ドンと強く足を踏み鳴らす。大剣を大きく振るって肩に担ぎ、その場の靄が一息に晴らされる。
「お前は『誓約』の右腕だ。だから俺の右腕と同じように、落としてやるよ」
そしてモルルは、知ることとなる。己の父親が、どれほど恐ろしい武人であるかを。
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