第257話 立ち込めるは錬金の匂い

 廃墟の外に出ると、すでに夜になっていた。


 妙な色の靄が立ち込めて、視界が悪い。どちらに進めば拠点に近づけるのか。それも分からないまま、リージュは歩き出す。


 思考は明瞭だった。だから、リージュは自分がどうすれば帰れるのかの条件を考えていた。


「ワタクシの知る拠点の入り口は、恐らく知られています。それでも攻撃を仕掛けるという話は聞きませんでしたから、今の拠点の入り口はワタクシの知らないものでしょう」


 となると、自力で拠点に帰還することは不可能に近い。だが同時に、テリンと『誓約』の会話をリージュは聞き逃していなかった。


「扉の破壊、とテリン様はおっしゃいました。なら、少なくともこの辺りで、ワタクシの陣営の人間が活動しているはず。その方に見つけてもらい、保護してもらえれば」


 考えるに、リージュにとって最も良い行動は、恐らく人影が見つかるまで歩き続けることだろう。透明コートがあるから、もし敵に見つかっても誤魔化せる。


 そう考え、リージュは歩く。いるかどうかも分からない味方が、きっといると信じて、ひたすらに歩みを進める。


「ふぅ……、ふぅ……」


 リージュは、先ほどまでの睡眠でずっと回復した。だが、それはあくまでも監禁され衰弱のために動けなかった、先ほどのそれを基準にしてのものだ。少し歩くだけで、消耗する。


「こん、な、こんな弱っているだなんて……。自分で自分が、恥ずかしいですわね。モルルに、笑われてしまい、ますわ」


 透明コートで身を隠しながら、リージュは道の片隅でうずくまる。歩いただけで乱れた呼吸を落ち着かせ、また立ち上がり歩き出す。


 苦痛。歩いているだけで、ひどく、ひどく辛かった。息が乱れ、苦しさが喉元からせり上がり、『誰か助けて』という心の声が湧いて出る。歩いているだけなのに涙さえにじむ。


 だが、リージュは涙をぬぐって歩き続ける。リージュが帰ることでウェイド陣営に利益をもたらせる。ただ生きて帰るだけじゃない。だから、ウェイドのため、モルルのために歩け。


「く、ぅ、ぅぇ、う、……くぅっ」


 甘い匂いの混ざった靄の中を、一心不乱に進む。まっすぐ進み、偶に右に曲がり、左に曲がり、当てどもなく、道を進む。


 冷や汗。


 拭う。息が荒い。休もうと屈んで、そのまま倒れる。


「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」


 動けない。この程度で、リージュは動けなくなる。


 情けない、と涙がにじむ。リージュは、まともに歩いて、帰ることすらできない。透明コートというテリンからの強力な助力があってなお、ダメなままだ。


「ぅ……。……、……」


 透明コートで顔を覆い、せめて見つからないように。そうして、リージュは再び倒れたまま休憩に入る。だが何故だか、今までの休憩と違って体が酷く寒い。


「……この、ま、ま……」


 リージュは、このまま死ぬのだろうか。そこまで考え、やはり自分が拉致されるので正解だったと思う。他の人は死なせられない。だが、リージュなら死んでもいい。


 だって、リージュは――――


「リージュッ!」


 そこで、リージュは体を強く揺さぶられ、意識を取り戻す。


「リージュ、リージュっ! ダメ! 起きて! そんなとこで寝たら死んじゃうよ! 起きて!」


「……モル、ル」


「っ! 起きた! リージュが起きた!」


 涙目になって、モルルはリージュを抱きしめる。リージュはそれに、何故だか涙がにじむ。


「わた、ワタクシ……」


「リージュ、ごめんね……ッ!」


 モルルが、正面からリージュを見つめる。何を謝られているのか分からなくて、リージュは呆ける。


「モルルが、モルルが弱かったから、リージュのこと守れなかった……! でも、もうリージュのこと、守れるからね。モルル、強くなったんだもん!」


 涙をぬぐって、モルルは強い目をする。リージュは、それが眩しくて目を細める。


「……それを言う、なら、謝るのは、ワタクシ、ですわ」


「え?」


「だって……」


 半ば朦朧とする意識で、リージュは言う。


「ワタクシ、は、最初から、誘拐される、つもり、で、出かけたんです、もの……」


「……え……?」


 モルルが、意味が分からない、という顔でリージュを見る。リージュは一拍して、言うべきでないことを言ってしまったことに気が付く。


「リージュ、それ、どういう、こと……? わ、わかんない。モルル、分かんないよ……」


「……それ、は」


 答えるか、それとも誤魔化すか。リージュは惑う。


 その瞬間、モルルが急激な勢いで背後に振り向いた。素早くリージュを背負い、口をもごもごと動かす。


「……モル、ル……」


「リージュ、しばらくじっとしてて。リージュは、モルルが守るから」


 モルルが睨む道の先。その靄の中から、ツカツカと歩み寄るシルエットがあった。


 妙齢の女性。ひどく美しい女性だった。しっとりとした雰囲気を纏い歩く、長く尖った耳を持った女性。


 彼女はモルルに気付く。


「こんばんは。あなたは、『ノロマ』陣営の女の子だったわね。ああ、思い出したわ。リージュちゃんを攫うとき、動きが素早くって見逃すことにした子だった」


「……パパ、言ってた。アルケー・フレグランス」


「さん、は付けてくれないの? ふふ、敵とは言え年上は敬っておくと、後々に活きるわよ」


「うるさい。敵は倒す。パパはそう」


「パパって、もしかして『ノロマ』のこと? そんな首輪をしているから奴隷だと思っていたのだけれど、『ノロマ』も悪趣味ね」


「これはモルルの趣味!」


「あら、それは失敬したわ。にしても、そう。随分才能豊かな子ね。あなたの逃げる速度、結構すごかったわよ」


 わたくしが捕まえるのを諦めるくらい。そう言いながら、アルケーは手を回す。靄がうねり、広がる。


「ねぇ、あなた、名前は?」


「……モルル」


「ありがとう。わたくしはアルケー・フレグランス。森の賢者『神の香箱』派筆頭錬金術師よ。それでね、モルルちゃん。質問して良いかしら?」


「ダメ」


「ダメ? ふふ、意地悪ね。じゃあ、質問ではなく詰問をしようかしら」


 アルケーは、目を細めていった。


「あなた、リージュちゃんを隠してるわね?」


「……何言ってるか分からない」


「とぼけ方が下手ね」


 くす、とアルケーは口端を歪める。


「錬金術師はね、匂いに敏感なの。特に神秘を是とする『神の香箱』派はね。だから、人の体臭で考えていることくらいは分かってしまう。モルルちゃんの体臭は、隠しごとのにお」


「―――戦闘のコツは、常に、一番の火力を叩き込むこと」


【ドラゴン・ブレス】


 モルルの喉から放たれた真っ白な光線が、靄も空気も引き裂いて、アルケーへと迫った。アルケーは目を剥く。避けられる軌道ではない。


 だがアルケーは笑った。


「お転婆ね。でも、そういう子ほど強くなる」


【ドラゴン・ブレス】


「!?」


 モルルの口から放たれた光線が、アルケーが放った光線とぶつかり、消滅する。それに、モルルは動揺した。リージュは、何が起こったのか分からないまま、その光景を眺める。


「何で」


 モルルは、信じられないという口調で言った。


「何で、アルケーが、ドラゴンブレスを使えるの? ドラゴンブレスは古龍以外には使えないはずなのに。何で……」


「……驚いたわ。モルルちゃんあなた、古龍なの? 確かにすさまじい攻撃だったけれど」


「そんなこと、どうでもいい! 答えて! 何で! 何でアルケーはドラゴンブレスを出せたの!?」


 モルルは、混乱を隠せない様子で叫ぶ。アルケーは大人の余裕たっぷりに微笑んで、「いいわ。子供の質問に答えるのが、大人の責務よね」と言う。


「―――『神の香箱』派の錬金術師は、錬金術の香薬が満ちる空間で真価を発揮するの」


 アルケーはゆったりと腕を動かし、立ち込める靄を、匂いを操作する。


「逆に言えば、香薬のない場所では単なる錬金術師も同然。さして強い存在ではないわ。けれど、いざ真価を発揮した時、その実力は白金に迫る。分かるかしら」


 靄が、アルケーの顔を隠す。匂いが意識を朦朧とさせ、神秘がこの空間に満ちる。


「『神の香箱』派の錬金術師は、香箱の中で錬金術師の皮を脱ぐ。すなわち、反転。香薬に包まれ、わたくしは『香箱の神』になる」


 だから、こんな事も出来るのよ。


 渦巻いた匂いの中に、魔法陣めいたものが二つ浮かんだ。それを見て、モルルは総毛立つ。アルケーは二つの魔法陣に、匂いを送り込んだ。


【ドラゴン・ブレス、二連】


 モルルが放ったはずの光線が、二つモルルを狙って放たれた。モルルは必死になって光線を避ける。光線は容易く建物を貫いて瓦解させる。


「わたくしは、あらかじめこの地域一帯が戦場になることを見越して、香薬を大量に仕込んでおいたの。だから、この地域一帯が、わたくしの『香箱』」


 アルケーは、クスクスと笑う。


「にしても、まさか古龍の幼体だったなんて。面白いわね。香箱の神となったわたくしと、神に届く種族の幼子。『ノロマ』の前哨戦として、楽しませてもらうわ」


 改めて、とアルケーは言った。


「『神の香箱』派筆頭錬金術師、『香箱の神』アルケー・フレグランス。……あなたに、リージュちゃんは渡さないわ」


「うるさい。モルルは絶対リージュを連れて帰る。絶対に、負けないから」


 香箱の神に、古龍の幼子は挑みかかる。

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