第165話 勝つために:ヒュドラとの邂逅

 トキシィが目を覚ましたのは、広く深い毒沼の中心だった。


「わ」


 足元まで、トキシィの足は沈んでいた。足が溶けているのが分かった。けれど、気になるほどではなかった。


 毒はトキシィが慣れ親しんだもの。浴び、食み、常に触れていた。


 だから、溶けたから何なのだ、という気持ちで歩き出した。


「ヒュドラの神話って、どんなだったっけ」


 寝物語に読み聞かせられた覚えはあるのだ。英雄に倒される怪物。同化が成れば、トキシィも怪物になるのだ、と思うと何だか可笑しかった。


「ウェイド、何て言うかな。でも、優しいから。きっと受け入れてくれるんだろうな」


 トキシィは毒沼を、何だか照れ臭い気持ちで歩いていた。生憎とアイスには出し抜かれてしまったが、それでもウェイドは全員に振り向くと誓ってくれた。


 だから、トキシィは身をゆだねることにしたのだ。この身がどうなろうと、ウェイドのために、みんなのためになればいいと。


「えへへ」


 トキシィは軽やかな歩調で、前に進んだ。前に何か、大きな影があることは最初から分かっていた。きっとそれが、邂逅する怪物であることも。そして怪物と仲良くならなければならないという事も。


 そうして進んでくると、足元に痛みが走った。「痛」と視線を下ろすと、小さな毒蛇がトキシィに噛みついていた。


「……何だろ、この子」


 トキシィはしゃがみ込み、「どうしたの~?」と話しかけてみた。毒蛇は、懸命に、何かを守ろうとするように、トキシィに噛みついていた。


「……そっか。ならいいよ。噛みついたままで」


 トキシィは再び歩き出した。すると、再び新たな毒蛇がトキシィに噛みついてきた。


「人気者なんだ」


 トキシィは痛みも気にせず、毒蛇をはがすこともなく進んだ。一歩踏み出すたびに毒蛇がトキシィに噛みついた。だが、それが誰かを守るためだと自然と分かったから、怒る気にもならなかった。


 進み、進み、進んだ。毒蛇はトキシィに噛みつき、毒を流し込み、離れようとしなかった。とはいえ、毒は気にならなかった。ただ、堆積する一匹一匹の蛇の重さがちょっと辛かった。


「よい、しょっ。よい、しょっ」


 それでも、トキシィは進んだ。少しずつゆっくりになる歩みも、けれどまばたきほどの時間も止まりはしなかった。


 そうして、とうとう大きな影の前にトキシィは至った。はるか上空から、ぬっと怪物の顔が近づいてきた。


 九頭のドラゴン。邪龍ヒュドラが、トキシィを覗き込んでいた。


『我に何用か、人間風情、が……?』


 そこで、ヒュドラはトキシィの異様な風体に首を傾げた。


『小娘、……何故毒蛇たちに噛まれたままでいる?』


「え? ……何か一生懸命だったから、悪いかなって」


『……?』


 ヒュドラは、理解が難しい、という顔でトキシィを見つめていた。トキシィは巨躯の古龍に向けて、毒蛇に噛みつかれたままの右手を差し出した。


「こんにちは、私はトキシィ。あなたの力を借りたくて、ここに来たの。対価は私の身体。依り代として、貸してあげる」


『……そのような言葉、信じられるものか。貴様らは我を殺しし神の寵愛を受けるもの。その証拠に、無情にも我の眷属を殺して――――ないな』


「ないよ。何ならされるがまま」


『……?』


 ヒュドラは重ねて理解に苦しんだように、首を傾げ傾げしていた。爬虫類なのに表情豊かだなぁなどとトキシィは思った。


『何故殺さなかった』


 ヒュドラの問いに、トキシィは言った。


「可哀そうかなって。こんな必死に、あなたを守ろうとしたんでしょ? ……私も、そうやって、踏みにじられたことがあるから」


 ウィンディ。今は一緒に暮らす仲になっているが、ウィンディをトラウマに感じるメンバーは多い。彼はウェイドパーティの脆弱性を的確に突いた。つまり、ウェイドが突出して強く、ウェイド以外はさして強くないという弱みを。


 実際に仲間として見たウィンディは、従順だし言うことを何でも、本当に何でも聞くような召使体質だったので、気付いたら何となく許してしまったのだが。それでもあの記憶は根強くトキシィの中にもこびりついていた。


 ともあれ、そんなことを言うトキシィを前に、ヒュドラは『ふむ……』と吟味するようにトキシィを見つめた。


『小娘。そなたは、妙な存在だな。毒に深い親和性を持ち、自らに噛みつく毒蛇を慈しみ、我にこうして対等に話しかける。怪物と恐れもしなければ、退治してやると声高々に言うでもない』


「そんなことしないよ。失礼じゃない、力を貸してって言う相手にそんな態度じゃ」


『……く、くは、クハハハッ。そうだな。確かにその通り。連中は実に失礼な輩だった。小娘くらいのものだ。礼節をわきまえているのは』


「ふふっ、でしょ? 一応、ちゃんとした教育は受けてるからね」


 トキシィは、不思議だな、と思いながらヒュドラと笑い合っていた。人間同士でも、毒魔法と差別されることばかりだったのに、こうして種族の大きく違うヒュドラと笑い合っている。


『よかろう』


 ヒュドラは言った。


『我が名はヒュドラ。ヘーラクレースに敗れてなお、この毒で幾柱もの神、怪物を殺しし毒の神。うみへび座の真なる姿。古龍ヒュドラである』


「私はトキシィ。毒魔法使いのトキシィ。よろしくね、ヒュドラ」


『ああ、トキシィ。そなたの身体を借りるならば、再び現世を見て回るのも悪くない。その体を借りる代わりに、我が毒、我が特性、そして我が呪いを貸し与えよう―――』











 トキシィは目を開いた。そして鋭く問う。


「ヒュドラ、私に貸してくれるって言ってたの、もう一度言ってもらっていい?」


『む? そうだな……確か、我が毒、我が特性、我が呪い、と言ったはずだ』


「毒は分かってる。特性も、幻影と不死性だよね。―――呪いって、何?」


『ああ、そのことか』


 クハハ、とヒュドラは笑う。


『何のことはない。それも我が毒の一特性にすぎぬ。すなわち、神殺しの毒。神を殺すのに、まさかトリカブトのような弱毒では足りるわけがあるまい? だが我が毒ならば神とていとも容易く死ぬる。それは、我が呪い故』


 ヒュドラは続けた。


『我が毒は呪いでもある。神の不死性すら破綻させる呪いだ。目に見えぬ、創造主の定めた法すらも溶かし尽くす、我だけの呪い。すなわち猛毒息吹ドラゴンブレス。古龍にのみ許された魔は、同じドラゴンブレス以外の何物にも阻まれぬ』


「それだ」


『何?』


 トキシィは秘策を思いつく。そこで、階段の出口に張ったヒュドラの幻影が破られる。


 妖刀ムラマサは、燕の手によっていとも容易く道を切り開く。


「君の時間稼ぎに付き合うのは、もう飽き飽きだ。……勝負をつけよう、壊れた英雄。君は、この英雄殺しの刀が貫く」


 燕が、ムラマサを鞘に納めた。しかし柄は掴んだままに、体勢を低くした。その構えを居合と呼ぶことを、トキシィは知らない。


「私は英雄じゃなくて怪物だよ。……でも、わかった。勝負、つけよっか」


 トキシィは口に手を当て、それから直立した。トキシィに構えはない。ヒュドラが、意のままにトキシィの敵を薙ぎ払うが故に。


 トキシィと燕の間の距離は、僅か5メートルほど。お互いに致死攻撃の圏内。次の一合で勝負が決まる。


「警句。『王よ、英雄よ、貴様らには奴隷の手による死がふさわしい』」


 妖刀ムラマサに、怪しい気配が宿り始める。ウェイドに致命傷を負わせた、呪いの一撃。通常の攻撃すら躱せないトキシィにとっては、恐らく必中となる。


 緊張が張り詰める。どちらが先に動くか。均衡を破るのは誰か。焦れる。息が自然と荒くなる。ここで負ければ終わりだ。生唾を飲み下す―――


「君は、昨日の彼ほどではなかったな」


 トキシィは、何よりも早くヒュドラの幻影を燕に密集させたつもりだった。だがそのすべてを切り捨てて、燕はトキシィに肉薄していた。貫かれるは心臓。ウェイドが貫かれ、崩れ落ちた命の核。


「けれど、仇討ちで来たのだろう? なら、その縁くらいには敬意を払ってやるさ」


 横払い。燕はウェイドと同じやり方で、トキシィを下した。トキシィは崩れ落ちる。たった一人、味方もなく。


「終わったな。やりにくい相手だったが、そう強くはなかっ―――」


 そこで、燕は違和感に気付くのだ。


 昨晩ウェイドを下した時より続いていた万能感が、消え失せていることに。


「何……?」


「あなたの敗因はね、私を英雄だと勘違いしたこと」


 トキシィは立ち上がる。トキシィだって不死だ。心臓を破られたごときでは倒れない。


「だから、妖刀ムラマサの本気で斬れば勝てるって思いこんだ。それそのものが罠だとも気づかずに」


「何を、何を言っている?」


「もう一つの敗因は、私が自分の中に毒をしこめることを知らなかったこと。毒、厳密にいうなら呪い。呪いを呪い、吹き溶かす猛毒息吹ドラゴンブレスを、あなたは知らなかった」


 やったことは単純だ。トキシィは自らヒュドラの猛毒を飲み下し、体に神をも殺す毒を、呪いを宿した。そして、燕は妖刀ムラマサでトキシィを貫いた。だから


「分かる? 妖刀ムラマサがウェイドに掛けた呪いを、私は破壊したの。だからウェイドの運命はあなたに流れ込まない。あなたは、ウェイドを倒す前の強さに戻った」


「あ……、あ……?」


「だから」


 トキシィはニヤァと嗤う。


「ここからは、私の領域」


 燕は咄嗟にこの場を脱出しようとした。だがヒュドラの幻影が道を塞いだ。燕はムラマサを振るおうとするが、気付けばムラマサは、鞘に戻って抜けなくなっている。


「クソッ! クソッ! ムラマサ! すぐに英雄を食わせてやる! だから言うことを聞け! ムラマサッ! ムラマサッ!」


「アッハハハハハハハハハハハハハ! ねぇ、どんな死に方をしたい? ウェイドをあんなに苦しめたあなたを、私はどんな苦しめ方で殺せばいい?」


『クハハハハハハハハハハハハハッ! いい気味だな、小僧。さぁ。小娘、この小僧を存分になぶってやろう。奴隷ごときが怪物を相手取ろうなどとふてぶてしい。その傲慢さに報いる地獄を見せてやろう』


「助けてくれ、誰か、誰か助けてくれッ!」


 トキシィはゆっくりと燕に近寄っていく。ヒュドラの幻影は九つの首をもたげて、燕を睨みつけている。


「あぁ、あぁぁああああ……! ごほっ、ゴホゴホッ!」


 燕は顔面を蒼白に、尻もちをつき、トキシィを正面にして後ずさろうとする。だがその先に道はなく、ヒュドラの幻影が道を塞ぐばかり。


 トキシィは告げる。


「許さないよ」


「え……?」


「ウェイドを苦しめたあなたを、私は絶対に許さない」


 部屋に毒ガスが充満する。足元に毒液が満ち、その水位を上げていく。


「ゴホッ! ゴホゴホッ! おぇ、おぇええええ! い、嫌だ、こんな惨めな死に方。ひ、足が、腕が溶けてッ! 嫌だッ! 嫌だぁああああああ!」


「アッハハハハハハハハハハハハハ!」


 悲鳴が上がる。哄笑が上がる。蛇の怪物が、哀れな鳥を飲み込んだ。

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