第121話 綜制

 五時間が経った。


「ハァッ、ハァッ! く……!」


「ふっ、……ぅく、ふぅっ、……!」


 一度の休みもなく、俺たちは走っていた。五時間、ずっと。ずっとだ。


 ルートはカルディツァ全域。ムティーが場所を選ばず走り、俺たちはただ黙ってついていく。


 その速度は俺たちの限界ギリギリだった。つまり、全力疾走。それを五時間、ずっと続けている。


「ハッ! かぁ、く、……!」


 とっくにフルマラソン以上の距離を走っていた。街中を走ることもあれば、外壁沿いを走ることも、森を走ることもあった。


 最初は周りのことや周囲の目を気にする余裕があった。だが、その度にムティーが動いた。


 ムティーの無造作な拳が、俺の左胸を打った。




「意識逸らしてんじゃねぇぞテメェエエエエ!」




 至近距離で怒鳴られ、まるでライオンに目の前で咆哮を上げられたような恐怖が走った。だがそれよりも毎度心臓に響くような衝撃が、俺の意識を戻した。


「チッ。行くぞ!」


 ムティーは、全てを分かっていた。俺が意識を逸らしたこと。叱責ですぐに意識を戻したこと。不必要な叱責はなかった。ただ、厳格に、厳密に、俺たちの綜制を監視していた。


 叱責が起こったのは走り始めて三時間までの間だった。そこからの二時間は、一度もなかった。何故なら、周囲に視線を逸らすだけの余裕がなくなったからだ。


 消耗。強いストレス下で全力疾走を長時間。俺はとっくに心臓に向ける意識を他に向ける余裕を失っていた。走っている間、ただドクンドクンと鼓動する心臓を見つめていた。


「ハッ、ハッ……ぅ、……ハッ、ハッ……!」


 隣で走るサンドラも、限界だった。だが、限界なのだろう、と何となく思うだけだ。声をかければ叱責が飛び、意識を向けるだけでも左胸を殴られた。


 だから俺は、走りながら、心臓以外へと意識を向けることを次第に忘れていった。


 時間感覚が、曖昧になっていく。


 何時間走っているのか、段々分からなくなっていた。周囲に何があるのかももう分かっていない。自分が本当に走っているのかも判然としない。ただ、目の前には心臓があった。心臓が、ドクンドクンと鼓動していた。


 闇。気付けば俺は闇の中にあった。身体感覚を失われているようだった。何時間走った。今どこにいる。そんな問いも疑問も、今は俺の中にはなかった。


「……」


 ただ、ただ、心臓が浮かんでいた。ひたむきに、懸命に、鼓動している。


「……大丈夫かな」


 俺は、まるで他人事のように考えていた。懸命な心臓は、このままでは破裂してしまいそうなほど疲弊している。


「壊れたら、ダメだよな……」


 どうすればいいのだろう、と思う。触れる。労わるように。


 そこで、気付く。疲れているなら、エネルギーを渡してあげればいいのだ。


「あ、でも……」


 俺はそこで、体力は枯渇していることに気付いた。思考も理路整然としていない。まるで、夢うつつの中のような。


「どうしようか……」


 心臓を見つめながら考える。その時、不意に気づいた。


「魔力」


 俺は、心臓を抱きしめた。そして、祈るように魔力を渡していく。


 心臓は魔力を受け取って、僅かずつ、僅かずつ回復していった。激しくも壊れそうだった鼓動は、どんどんと速く、力強さを増していく。


「いいぞ」


 俺は魔力を注ぐ。心臓という大きな器が、魔力で満ちるほどに。


 幸い、魔力は潤沢だった。ずっと使っていて、鍛えられた魔力量は俺を裏切らない。


 そして、俺の全ての魔力を引き換えに、心臓が満ちた。それはエンジンのように激しく、獰猛に、活力に満ちて鼓動している。


 俺は、言った。


「そうか。俺が、俺の中に神たる己を作るって言うのは、こう言うことか」


 心臓が、肉体を離れ概念と化し、そして魔力に満ちて固定化した。もはやこの魔力の心臓は壊れることはなく。俺の第二の心臓として機能する。


 すなわち、心臓のチャクラ。アナハタ・チャクラ。


 そこで、水をぶっかけられた。


「ごはっ! がはっ、ごほっ、ゴホッゴホッ!」


 俺は盛大にむせながら起き上がる。そしてそこで初めて、自分が倒れていたことを知った。今まで見ていたものは一体何だったのか。闇と心臓。


「……へぇ」


 バケツ片手に俺を見下ろしていたのは、ムティーだった。ムティーは俺の左胸のあたりをずっと見つめていた。そして、俺と視線を合わせるようにしゃがみ込む。


「アナハタ・チャクラ、出来てんじゃねぇか」


「え……? あ、うん。……多分、できた、のか?」


「ハッ。なるほどねぇ……」


 そこで気づく。空。真っ暗だった。夜になったのだと思った。周囲にはサンドラとアイス、アレク。全員が、ひどく心配そうな目で俺を見ていた。


「え、と。どうしたんだ、みんな?」


「ウェイドくんっ!」


 アイスは俺に抱き着いてきて、サンドラも控えめに俺を抱き寄せた。何だ何だ、と思っていると、アレクが言った。


「ウェイド。お前サンドラが10時間で限界が来て脱落した全力疾走を、結局18時間ムティーとぶっ続けて、ぶっ倒れたんだよ。今は夜の10時だ」


「え、マジ?」


 俺はアイスとサンドラを見下ろす。アイスはさめざめと泣きながら「良かった……! し、死んじゃうかと、思った……!」と震える手で強く俺を抱きしめていた。


 一方サンドラは、こういう、心配という感情の表し方を知らないように、不格好に俺に触れていた。まるで寂しがりの猫のように、俺に手を絡めている。


「いや、焦ったぜ。すぐにでも回復措置をしてやろうかと思ったんだが、ムティーに止められてな。……ムティー、成果はあったんだろうな」


「アレクさんよ、心配しなさんな。しかし―――ハッ! なるほど、なるほどねぇ……。確かに、臨死を経るほどの疲弊と、無我の境地でのチャクラとの邂逅は、理論的には最速の三昧達成の方法だ」


 ギラギラとした目で、ムティーは俺を見つめている。それから、言った。


「名前、確かウェイドっつったな」


 俺は、その確認に瞠目する。


「ウェイド、お前は明日から悉地シッディの訓練に移る」


「え、もうか? すぐに出来ないみたいなとこ言ってたじゃんか今朝」


「誰が一日で綜制終わらす奴がいると思うんだ小粒野郎が。黙って言う事聞け」


 俺は、複雑な気持ちで口をつぐむ。罵倒は罵倒なのだが、何と言うか、ゴミクズから小粒に上がっている。


「あとこっちのガキんちょの綜制を手伝ってやれ。アナハタ・チャクラは習得は簡単でな。スワディスターナ・チャクラはややこしい」


 じゃ、今日の綜制終わり。ムティーは全員を置き去りに言い捨て、街の方へと歩き去っていった。

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