蟹と兄弟
イネ
第1話
俺は本当は蟹なんてものはよく知らなくて、ただの一度、行商にやって来たどこかの男が木箱に小さな沢蟹をたくさん入れて売っているのを見ただけだ。
蟹はもうみんな泡を吐きたいだけ吐いてしまって、ほとんど死んでいた。
行商の男はそのことがばれないように一生懸命に木箱を揺するのだけれども、臨終に赴く蟹どものなんとも具合の悪そうなことといったら、まったく、気の毒としか言い様がないのだった。
「旦那さん、蟹、買ってけさい。まだ生きております。生きたまま味噌汁さ入れるのす。うんまいのす。どうか、買ってけさい」
「生きたまま、ですか?」
思えばみんな、蟹も、魚も、鶏も、豚も、生きたまま殺されるのだ。死んでから殺されるという道理はない。
買ってやったって悪くはないのだが、けれどもこの泡はどうだろう。蟹の最期の呼吸でぶくぶくと泡立った味噌汁を、みんな好んで食うのだろうか。うまい、まずい、と言うんだろうか。
「旦那さん、お願いです。全部まどめで買ってけねすか。安くてもかまわねがら」
行商人はいよいよ俺に目星を付けて、なんともつらい顔をしてみせるのだが、やっぱりかあいそうなのは蟹のほうではないのか。
それで俺はつい、懐の小銭をチャッチャッと鳴らすなんて下品なことをしながら、
「いや、蟹はもう食い飽きました」
なんて嘘を言って家の中に入ってしまったのだった。
そのうち弟も学校から戻ってきて、やっぱりずいぶんと興奮している様子だった。
「兄さん、家の前に行商が来てるすね。蟹を見だすか? 本物の蟹だすよ」
「ええ、見だすよ」
「あいづら、なして泡を吹くんだす。戦争してるのすか?」
それで俺は笑ってしまった。
「んだす。蟹は人間をうらんでるのす。あの泡は爆弾のつもりなんだじゃい。クラムボンだじゃい。あっはっはぁ」
ところが弟はひとつも笑わないで、またいつものとおりに真面目くさって、
「クラムボン、というのは外国語だすか?」
などと聞くもので、俺はもう心底つまらなくなって、
「蟹に聞いてくれたまえ!」
と怒鳴って布団に寝てしまった。
弟は沈黙して、何かを待つか、反省するかのような情けない顔をしてしばらく俺の背中に張り付いていたが、やがて、兄さんは本当に眠ってしまったのだと思ったようで、音を立てずに障子戸を細く開けると、その隙間から、蟹のような横歩きでカサカサと部屋を出ていった。
弟が戦争へ行く、前年のことである。
【蟹と兄弟・完】
蟹と兄弟 イネ @ine-bymyself
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