#16.

            ✳︎


 主人公が猫であるその物語は、ある1人の少女と出会ったところから進行していく。まだ原稿用紙が5枚のニケさんが書いた物語は、もう既に続きが読みたくて仕方がなかった。言い方は悪いけれど、その物語の内容は素人の彼が書いたとは思えない内容だった。そして、彼の書いた物語を読んでいると私は自然と笑顔になれた。まるで心の中に優しくて柔らかい春の風が吹き抜けていくような穏やかな気持ちになった。その理由や根拠は分からないけれど、彼の書く物語にはそんな不思議で素敵な力があるような気がした。もしも、この物語が本屋に並んでいたなら、私はいち早く手に取ってその本の世界に入り込みたいとさえ思った。

 私はバーで仕事を終えた日には、彼から物語の続きを貰うのがいつしか習慣になっていた。彼から貰う作品を見る事で、今の私は彼に毛布をかけてもらっているように心の中が暖かくなる。そして、またすぐに続きが見たくなる。初めは照れくさそうに鼻の頭を触りながら私にファイルを渡してきた彼も、最近は慣れてきたのか以前よりも自然な笑顔を私に向けてファイルを渡してくれるようになった。それに、彼は私の目を見て話してくれるようになったのが嬉しかった。


 「き、今日は10枚ぐらい書けたんだ。駆け足で書いちゃったから変な表現とかがあるかもだけど。へへ」


そして、以前よりも、ほんの少しだけ自信のある表情で私に笑顔を向けてくれるようになった。ほんの少しだけ、彼が大人になったような気がした。


 「ありがとうございます。でもニケさんはどうしてこんなに猫の視点になって文章が書けるのですか?」


不意に思った素朴な質問を彼に問いかけてみた。彼の書く物語は、猫が見ている世界を実際に読み手が見ているように錯覚する。まるで自分自身が猫の姿になって、その世界を歩き回っているように私には感じた。すると、それを聞いたニケさんはいつも通りアタフタし始めた。一度動揺するとオロオロしながら目線があちこちに行くのは以前と変わっていない。そんなニケさんも猫みたいに見えた。


 「う、うーん。猫から人間を見るとこんな感じなのかなぁって思って書いてるだけなんだけどね。猫が好きだから感情移入しちゃうのかな」


照れくさそうに鼻の頭を触って笑顔で話す彼に、やっぱり私はあの公園にいる黒猫に何か近いものを感じた。


 「なるほど。猫が好きなんですね。そういえば私のお気に入りの場所にすごく可愛い黒猫がいるんです。そのお友達っぽい猫も2匹ほどいて。よろしければそこで今度、読書なんかどうですか?」


話の流れで私は人生で初めてデートのお誘いをした。してしまった。いや、公園で読書はデートになるのだろうか。カフェでSNS映えするスイーツを食べに行ったり、お洒落な音楽をかけながらお酒を飲んでバーベキューをしたり。同年代の人たちがする華やかで煌びやかなものがデートになるのなら公園での読書はデートにはならないか。心の中で解決の糸口が見つからない独り言を繰り広げていると、目の前にいる彼の顔が驚くほど真っ赤になっていた。熟れたリンゴみたいな頬になっていて少し可愛く見えたけれど、私は慌てて独り言をぼやく自分を押しのけた。


 「ご、ごめんなさい。突然デートのお誘いみたいな事を言ってしまって……。あ! デートにカウントされているのかまだ分からないですけど。ごめんなさい、私何言っているんだろう」


彼が慌てている時はこんな胸中なのだろうかと、私はこの時初めて思った。そしてこんなに焦っている自分を、自分で初めて見つけた。少しの沈黙が続き、私が次の言葉を迷っていると、徐に彼の口が開いた。


 「う、ううん。とっても行ってみたい。その場所に……」


彼は言葉と表情こそ一致していなかったけれど、私にそう言うとシャツのポケットから慌ててスマホを取り出した。


 「い、一番近くなら来週の火曜日とか昼間が空いてるけど、優子はどう?」


今にも消えてしまいそうな彼の声。確実に無理をさせてしまっている。彼の顔がさっきより赤くなっているように見えて、最早熱が出ているのかとさえ思えた。


 「ごめんなさい。ニケさん。無理をされているなら、また別の機会に」

 「い、いやそうじゃないんだ」


彼の声が突然大きくなった。大きな声を出してごめんと謝る彼の両手の拳は力強く握られ、ぶるぶると震えていて、顔は相変わらず真っ赤でどこか悔しそうな表情にも見えた。


 「僕もそこの場所、知っているかもしれない。ビルの間にある人気の少ない公園だよね?」


予想外だった。彼もその公園の存在を知っていた。私は彼の言葉に反応して首をゆっくり縦に振った。


 「嬉しかったんだ。優子もそこがお気に入りの場所で。だから、何か、恥ずかしくなって。今、多分顔とっても赤いと思う」

 「はい。とても赤いです。熱があるのかと思うほどに」

 「だ、大丈夫。熱は多分ないよ」


いつの間にか彼の赤い顔には再び笑顔が戻っていた。それは、体の力が抜けてとても自然な笑顔だった。顔は真っ赤だけれど。


 「感情表現、下手でごめんね」

 「それは多分、私も同じです」

 「へへ、確かに」

 「似たもの同士なのかもしれませんね」


私もニケさんとは本当にどこか似ている気がしてきた。特に最近そう思う回数が増えた。いつか師匠にも言われた覚えがある。その時は否定したけれど、今考えてみるとあながち間違ってなかったのかもしれない。


 「その公園にいる黒猫になりきって物語を書いてみてるんだ」

 「なるほど。なんだかニケさんに近寄っていくあの黒猫の姿が想像できます」


私は嘘をついた。彼とあの黒猫が似ている所は多くあるけれど、どうしたってその両方が同じ空間にいる画がイメージ出来ない。これも何故かは全く分からなかった。


 「ど、どうだろうね。あの黒猫、僕がいるとすぐに帰って行くから。多分僕、あいつに嫌われてると思うよ」


私には心を読む力なんてあるはず無いけれど、オロオロとわざとらしく手をバタつかせる彼は、何かをはぐらかしているような気がしてならなかった。彼だけが知る本当の事は誰にも話さない何かを隠しているようだった。


 「ニケさんは優しい人ですから絶対慕ってくれていると思いますよ」


彼が隠しているかもしれない何かを確認することは出来ない。それでも私は彼の口からあの黒猫の話が出て嬉しかった。こうして私と彼は、公園での読書デート(?)が決まった。気を良くした私は、普段なら目を通す事のない、ナチュラルメイクのやり方を紹介する女性雑誌をコンビニで買ってから私は家に帰った。表紙に黒猫が気持ちよさそうに寝転んでいる写真が控えめに貼られていて少し笑えた。

 

           

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