#15.

            ✳︎


 「う、うわぁ! どうしたの?」


今日もいつものようにバーの仕事を終え、片付けをしているとニケさんが着るスーツのお尻のポケットに見覚えのある文庫本の表紙が少しだけ覗いているのが見えた。その部分だけでその本が何か私には瞬時に分かった。それは間違いなく私が好きな小説家である百合かもめさんの本だった。そう思った私は考えるよりも先に体が動いていた。彼を驚かせるつもりは無かったけれど、本能的に動いた私の体は必要以上に彼との距離が近くにあった。私の顔にもいつもより力が入った。


 「本、読むんですね」


心を落ち着かせる為に声のトーンを一定にして、私はニケさんのお尻のポケットから出た文庫本を指差した。自分でも分かるくらい、私はロボットみたいにぎこちなく体を動かしている。それを見て動揺しているのか、ニケさんもいつにも増して目線がぐるぐるしている。


 「あ、あぁ、うん。この作家さんの小説、好きなんだ」


彼の声を聞いた私の胸の鼓動がトクンと大きく高鳴った。やっぱり彼も百合かもめさんが好きなんだ。心の中が落ち着かない。一層顔に力が入ってしまう。顔の筋肉が筋肉痛を起こしそうだ。


 「私も好きです。百合かもめさん」


強張った顔で彼を困らせたくなかった私は、精一杯の力で鉛のように重くなっている右側の口角を上げた。ニケさんの方を見ると、彼は僕、困ってますと言いたげに慌てふためいた。ニケさん。ごめんなさい。困らせるつもりは無かったんです。


 「い、いいよね……! ぼ、僕は話題になった作品から読み始めたミーハーだけど」


声が裏返りながらも彼は私に笑顔を向けた。あぁ、私嫌なやつだな。彼に気を遣わせてしまっている。彼が決して嫌なようには受け取らないでほしい。どう言葉を返していいか分からなくなった私は、時間が止まったように思考も体の動きも止まってしまった。彼は絵に描いたようなオロオロ具合で私を見ている。もういい。どうにでもなれ。私は半分開き直りながら口を開けた。


 「どんな理由であれ、それを読みたいと思う人の気持ちは尊重するべきです」


明らかに正常運転していない頭を、私は必死に回転させて言葉を絞り出した。選びに選び抜いたそれはまるで、AIやアンドロイドが予め組み込まれたプログラムから適切な言葉を提供したような無機質な言葉だった。やっぱり今の私はロボットみたいだ。


 「は、はぁ」


困惑したニケさんの顔に罪悪感を抱きながらも、私の頭は徐々に落ち着きを取り戻した。


 「ごめんなさい。困らせるつもりはありませんでした」


私は精一杯、気持ちを込めて深く頭を下げた。


 「い、いや大丈夫。気にしてないから顔上げて」


彼の慌てた声を聞きながら、私はゆっくりと顔を上げて再び彼の目を見た。すると、彼の方も時間が止まったように動かなくなった。しばらくそのまま目が合う時間が続き、ふと我に返ったニケさんが慌てて視線を逸らした。彼のそんな様子を見ていると、やはり何故か昼間に見た黒猫が頭に浮かぶ。何故なのだろう。本当に不思議だ。何の関係もないはずなのに。


 「き、気遣ってくれてありがとう……!」

 「来月出る新作、買う予定ありますか?」


彼と言葉を交わしていると、私の心はいつの間にか落ち着いていた。彼の方もさっきより随分と落ち着いたように見える。けれど、やっぱり彼とは視線は合わない。


 「う、うん。買うと思うよ」

 「そうですか。私も買うのでまたどんな事を思ったのか言い合いませんか?」

 「え、う、うん。いいよ」


今日の私は我ながら積極的に行動している。何だろう、今までに抱いたことのない感情が次々と心の中に生まれる。私はそれらを包み込むように大切に、誰にも気づかれない心の奥へしまった。けれど、多分私の顔は力が入ったままの状態だろう。彼を困らせたくはない。そう思えば思うほど力が入って再び悪循環に陥ってしまう。


 「ありがとうございます。じゃあ、私もそろそろ帰りますね」


見兼ねた私は、彼から逃げるように背を向けてバーのドアノブに手をかけようとした。その瞬間、


 「あ、待って……!」


ニケさんの消えてしまいそうな声が私の耳に届いた。もう一度振り返って見た彼を見る私の顔は、余分な力がすっと抜けてリラックス出来ている。


 「ちょっと待ってて。帰らないでね」


彼はタタタッと素早く階段を登っていき、そしてすぐに私の所へ戻ってきた。息切れ一つしていないことがとても意外だった。そんな彼の手には白い紙が入った透明なクリアファイルが握られていた。その中には小さな文字でびっしりと何かが書かれているものが見えた。


 「こ、これ……!」


彼はそのファイルを私に差し出した。そのぎこちなく動いた彼の腕が、さっきの私みたいに体中に力が入っているように見えた。ニケさんもロボットみたいな動きをしていて少しだけ笑いそうになった。


 「これは?」

 「じ、実はちょっと前から物語を書いていて。まだ書き始めたばっかりだし、ただの自己満足なんだけど、良かったら読んでみてほしいなって……」


彼の意外性は止まらなかった。私は驚きで頭の中が爆発しそうになった。彼に言葉を返さなくては。でもどうしよう。何も言う事が出来ない。再び私の顔に力が入る。そして、再び私たちの間に沈黙が訪れる。


 「ご、ごめん。やっぱり……」


消え入りそうな声で彼は私に渡したファイルに手を伸ばそうとした。


 「読みたいです」


私はその言葉が出たと同時に、自然に笑えていると自分でも意識出来る程に顔の筋肉がふにゃっと緩んだ。私は、今すぐにでもこのファイルの中にある物語の世界に飛び込んでみたくなった。ニケさんの作った世界に飛び込みたくなった。すると、ニケさんの顔を見てみると彼も自然な笑顔になっていた。すごく素敵な笑顔だと思った。それに呼応するように私の心臓が大きく動いた。今日の私は、確実にいつもとは違う時間を過ごしている。いつもとは違う感情が生まれている。とても心が満たされている。柔らかくて暖かい毛布を全身にかけてもらったような感覚だ。


 「また感想、言わせてください。それじゃあ、おやすみなさい」


 私がバーを出る頃には再び顔に力が入っていた。不器用な私の表情筋。彼にはもっと力を抜いて接したい。そんな後悔を抱えながらも、私は今日あった全ての出来事を抱きしめるように心の中へしまった。家へ帰った。私の中に抱く感情の正体が少しだけ分かった気がした。それと同時に、京子さんが師匠の事を話していた時の表情が頭に浮かんだ。そんな4月の夜の出来事だった。4月10日。今日はとても良い日だった。


            

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