⑦ 皇統の歴史

 奈良時代、現在と似通った形で直系相続が行われていた。その流れの中で、数少ない直系男子の成長等を待つため 女性天皇が次々と誕生したわけだが(4人5代)、無理な継承がたたり、約一世紀あまりで その皇統は断絶。その反動もあってか 次代の天皇がた(桓武第50代嵯峨第52代など)は子沢山となった。


        「———光明子

  藤原不比等——宮子 ‖—孝謙【46】

   天武【40】  ‖  ‖ ・称徳【48】

    ‖——草壁 ‖—聖武【45】

天智——持統 ‖   ‖

【38】 【41】‖——文武【42】

  |————元明 ∟元正【44】

  |    【43】

  ∟—— 施基—光仁【49】—桓武【50】

        ‖—他戸親王

        井上内親王(聖武の娘)

※ 持統、元明、元正、孝謙・称徳が女帝。

称徳女帝は 姉妹である井上内親王が産んだ子の成長を待つため、という話もある。年齢的に厳しいとは思うけど…


 701年成立の大宝律令には 太上天皇の権限は天皇と同等と規定されており、この時代8世紀には太上天皇が 歳若い天皇を後見する仕組みが採られていた。が、9世紀前半に起こった"平城第51代太上天皇の変"(薬子の変:810年)の後、その変を収めた嵯峨天皇が 上皇としての権力を振るわなかったことで、その修正が図られている。


桓武———平城【51】—阿保—在原業平

【50】|—嵯峨【52】—仁明【54】—時康

   | ‖——————正子

   | 橘嘉智子   ‖— 恒貞

   | (檀林皇后) ‖

   ∟————————淳和【53】

※ 嵯峨野に隠居したから"嵯峨"天皇。

若い頃、"薬子の変"と習った気がするけど、そこは察してくださいませ。まぁ、道鏡とかと一緒で、周辺が悪かったということにしたわけだわな…


 直系相続の失敗の後、次の皇統は成人した兄弟間の相続を採用したが、誰に相続させるかで、皇子の周辺の人物の間で主導権争いが起き(承和の変:842年)、再び 直系相続に立ち戻った。しかし、またまた幼帝がたて続けに即位し(清和第56代陽成第57代)、その幼帝が粗暴なるに及び、再度 成年した天皇(光孝第58代)の登極へと回帰した。

 ちなみに、摂政がこの時期清和期 誕生したのは、天皇が太上天皇の後見を受け入れられなかったため 代わりに後ろ盾として外祖父が政治を補佐したという側面もある。そのが継承され となったことで、後世 摂政・関白が力を持っていた時代は"摂関政治"と呼ばれることとなった。


 「藤原長良——基経

 |     ∟————高子「貞保

 ∟藤原良房——明子  ‖ ——陽成

        ‖ ——清和  【57】

嵯峨——仁明——文徳 【56】

【52】【54】|【55】 

       ∟光孝—宇多(源定省)

       【58】【59】

※ 藤原基経とその妹 高子の仲が悪かったため、陽成天皇は廃され、その弟(貞保親王)も位に就けなかったという話も。光孝天皇は 自分はだと思っていたため、子供を臣籍降下させていたという。

高子は 在原業平の恋人と推測されている。

「ちはやふる〜」は この辺の関係の歌。


 天皇の外戚として近しい藤原氏がいなくなったあと、父系上皇による天皇の後見,いわゆる"院政"が開始されたとされる。だが、天皇側の近臣には変わらず藤原氏の主流がおり、上皇側に傍流の一族・氏族が抜擢され、やがて その間で争いが勃発。そこで武威が示され 紆余曲折を経て とうとう武士の世となった。


後三条—白河—堀河—鳥羽———崇徳【75】

【71】【72】【73】【74】|—後白河

             | 【77】

             ∟—近衛【76】

※天皇の譲位については、

 ① 臣下が君主に交代を強いる。

 ② 後嗣等が自ら登極するため退位を強要。

 ③ 政治上の責任追及を回避しつつ、かつ、影響力を保持するため後継に譲位。

 ④ 政治上の志を失って隠居

などがある。(中世は普通に譲位してるよ。)

崇徳天皇は 白河法皇の胤との噂があり、父である鳥羽上皇に"叔父子"と呼ばれたとか何とか… 鳥羽上皇の院政下、後白河に天皇の位が受け継がれ、その後嗣に自分の血脈が外され、院政ができなくなることが確定するに及び、崇徳は政変を画策。鳥羽上皇の崩御後、"保元の乱"が勃発した(1156年)。


 武士の世の中はそれから約700年間続くが、一時的にせよ それを打破することに成功したのが後醍醐天皇(第96代)だった。当時14世紀は 平安時代初期と同じく兄弟相続をして皇統が分かれていたが、政治的状況も相まって約10年ごとで早期退位し、相続が複雑化した結果、南北に分かれて相争うこととなった。現在の皇統が 基本終身制となっているのは、南北朝の禍を避けるためという建前となっている。歴史は連綿とつながっていて、問題・瑕疵はいつの時代にも存在し、その時々の選択で、皇統は現代まで継承されていた。


持明院統

    「後深草—伏見——後伏見—光厳

    |【89】 【92】|【93】

後嵯峨—|        ∟花園—直仁

【88】 |         【95】

     ∟亀山—後宇多——後二条

     【90】【91】 |【94】

大覚寺統         ∟後醍醐—

              【96】

※『とはずがたり』は 後深草院とか亀山院の時代の話。余聞だが、さきの深草天皇というのは 仁明天皇の別名こと

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