【cafe&bar あだん堂へようこそ】正弦空は人を観続け、空虚に彩を望む。
霜山 蛍
正弦空
――都会の片隅。「cafe&bar あだん堂」は、佇むように、そこにある。マスターは初老の男性。恐ろしく美しい顔をしており、昼はcafe、夜はbarの形態で営業している。
僕――正弦空――はそんなカフェで、一人の客に目線を忍ばせながら、ここで働くようになった経緯を思い出していた。
半年前、その日は確かいつも通り学校をサボっていたはずだ。駅前で、適当に。
別に、勉強自体は嫌いじゃない。数式は理解を明確に解として提示してくれるし、国語だって下らいと思わなくはないが、とりたててつまらない訳でもない。
要するに、単に人付き合いが嫌いなだけだ。
時間を潰すといっても、大抵は金がかかる。バイトもしていなかったものだから、気がつけば昼食代すら無くなっているなんてざら。
その日の所持金は確か500円ほどで、僕がそのカフェを見つけたのは偶然だけど、扉を開いたのは必然だった。惹かれたのだ。質素な、都会の気取ったそれとは異なる――もはややる気があるのかも分からない――独特の佇まいと、チラと見えた店内の、初老の男性とに。
Cafeなんて普段入らない。金がないのだから当たり前だ。別にコーヒーが嫌いな訳では無いが、とりたてて好きな訳でもない。だからそれは気まぐれで、でも間違いなく必然だったのだ。
明るい照明が、木造を模した店内を照らし、そこに子気味よ良いジャズが彩りを装飾していた。印象に残りそうにはない、ただのどこにでもあるカフェだ。――そこにいる「人」を除けば。
外から見えた初老の男性は、この店の店主だろうか。慣れた手つきで接客し、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。一つ一つの所作には彼独特の美学が見え隠れし、無意識の中に丁寧さが両立していた。
カウンター席で彼と話しているのは、目に見えて曇りのなさそうな、邪気のなさそうな女性。女子大生だろうか、色白で座っていても背が高いのがよくわかる。彼女は明らかに、彼に対して好意を向けていた。
――曇りのなさそう、というのはあくまで傍から見た時の偏見だ。なんの確証もなければ、むしろああいう人間こそがそうである、と僕は考えていた。
彼が背を向けたならばしきりにその背を追い、そのくせ目線を泳がす。彼が彼女に向き合えば、目線は彼の目ではなく胸の辺りを留まりさまよう。わかりやすいものである。
店内は空いていた。時計を見れば、15時34分を指し示しており、なるほど当たり前の話である。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
僕は軽く会釈すると、そのまま女性の隣をひとつ開けて、その隣に座った。椅子もテーブルも年代物で、座り心地がいいとはお世辞にもいえなかった。
彼がお冷を出してくれたあとで、ついでにと僕はブレンドコーヒーを注文した。隣では僕が来たのが気に食わないのか、彼女が頬杖をついてまた視線を店主の背中へと向けていた。
待ち時間の間に、僕は店内を見渡した。人は少ない。参考書を開いたまま何をするでもなくぼうっとしている女子高生に、外出慣れしてなさそうな若い女性。しきりに腕時計を確認するスーツ姿の男性。
程なくして出されたコーヒーは、苦味をまとった独特の芳香が漂っていた。
僕が彼に話しかけたのは、多分気まぐれだ。
「タイミング、悪かったですか」
「いやいや。ラストオーダーまではまだ時間があったから大丈夫」
僕はそれを聞きながら、カップに口をつけ、芳香の元を口の中へと滑らせた。
「あつ……」
当たり前だが、淹れたてのコーヒーは舌を焼くのに造作もなかった。
「ははは。ゆっくりで構いませんよ」
そして痛みの後で、口中に苦味が迸った。
だから僕は、徐に砂糖、ガムシロップ、ミルクの3点セットを容赦なくその液体に流し込み、静かにかき混ぜた。
「苦いのは苦手かな?」
「……まぁ」
隣では、アピールするかのようにわざとらしく、彼女がカップに口つけていた。彼が呆れているのが目に見えてわかった。
「あぁすみませんね、少々賑やかしくて」
「いえ」
賑やかしい、と彼は表現した。別に彼女が騒いでいる訳ではなく、音だけに絞ればこの場でする音は店内に響くジャズと、ソーサーとコーヒースプーン、或いはカップがぶつかる音くらいのものである。詩的な表現だが、些か気に触った。
「……ここに来るのは訳ありばかりだ」
だから、僕があの時わざとらしくそう言ったのは、ただの未熟以外の何者でなく。
「違いますか?」
「……どうでしょう」
彼は肯定しない。しない理由は立場柄ではないか、と感じた。
「だとしたら、ひょっとしたら僕もそういう人の、1人かもしれません」
「……何か相談事で?」
僕はその一言を待っていた。何となくである。そこに確証や証拠なんてものは無い。ただ、店の雰囲気と、彼と彼女とのやり取りが、ここがそういう場であるのだ、と僕の直感が告げていたのだ。
だから僕は精一杯の、悪意のある笑顔で持って、苦笑を作って見せた。
「なにぶん、今の世の中何をするにもお金が必要です。店の経営だってそう」
「えぇ、その通りです」
「相談事という表現は違います。正確にはお願いです」
僕はそう言うと、その苦笑をやめ、頬杖をついて、冗談めかしてその台詞を吐いたのである。
「お金を貸してくれませんか」
――どう来る?馬鹿なこと言うなと追い返す?それが妥当だ。それを飲んだら帰ってくれ、と。或いは冗談はよしてくれ、と躱されるか。
何れにせよ、僕の言葉には精一杯のわざとらしい悪意が籠っていた。結局、彼に話しかけたのは気まぐれで。どこまでいっても、人付き合いなんて面倒くさいだけなのである。
僕は話しかけたことを、後悔しつつあった。
けれど予想に反して、彼は少し間を置いてからからかうように笑った。
「はっはっは。何を言うかと思いきや」
僕はその言葉を聞き流しながら、苦味が薄れ、甘ったるくなったそれを口元に運び、喉元へと流し込んだ。苦味を、喉奥へと流し切りたかった。
「確かに世の中お金はついてまわる。けれど、だからといって見ず知らずの人間に公然とお金を貸してくれ、とは……なかなか度胸がある」
「そりゃどうも」
「そうだな。君の歳では金貸しは無理だろう。お父さんやお母さんに頼むのが手っ取り早く効率がいい。そもそも金貸しなんて、よっぽどじゃないと使うべきものじゃないよ」
馬鹿にしたような台詞だ、と思った。
「けれど君はこれを相談事と称した。ならば、私はそれに答える必要がある。答えを提示する必要がある」
彼はそう言うと、彼は拭いていたコップをそっと置き、僕を見据えた。
そして、微笑んでみせた。そこに悪意はない。彼の視線をは僕の目に向かい、彼の興味は僕に向いているのが分かった。僕は思わず目を逸らした。
「君にわかりやすく言えば、そうだね……」と、彼はわざとらしくウィンクを僕にして見せた。「従業員が足りなくてね。君、名前は?」
彼は僕に、履歴書と判子と通帳を持ってきて欲しい、と重ねて言った。
結局僕は、その冗談とも本気とも捉えきれない彼の台詞に、表情や仕草の外にある、彼を惹きつける何かに駆られたのだ。
数日バカバカしくも悩みながら言葉の裏を探り、手繰り、けれどもついぞ確証を得られることはなく。僕はここでバイトをすることとなったのである。
加えて僕は店主(マスター)――安壇征四郎と言うらしい――に諭され、高校を通信制に変えた。悔しい話だけれど、どこか気が楽になった心地がした。
さて、思い出にふけるのもいいが、そろそろ時を戻そう。時刻は14時35分。加えて特別に曜日を列記すれば、金曜日。更に日にちまで語るなら月末。
僕は先程から、一人の客に目線を忍ばせている。スーツ姿の、30代程の男性である。
店主はいつぞやの女子大生――佐藤由紀といい、どうやら僕の認識と現実は大した相違がなかったらしい――とやり取りをしていた。僕はカウンターでカップを吹きながら、視線だけをそうしていたのである。
「スーツ姿の彼」に関しては、僕はよく知らない。だが「彼」については知っている。毎週土曜、時刻は前後することがあるが、大抵がラストオーダーの30分前。Tシャツにジーンズとラフな格好で、黒縁のスクエアメガネをかけてやってくる常連客。黒の整った髪をしており、常に眉にはシワがよっている。
彼はいつも決まってアメリカンコーヒーを頼む。ブレンドやキリマンジャロ等ではなく、決まってアメリカンコーヒーだ。
そして、追加でその日によって変わるが、サンドウィッチやトーストなど、パン類を決まって頼む。
普段はノートpcを持ち運び、開き、何やら仕事をしている。
今日来た彼は、メガネを外し、格好もスーツなので一見わからなかった。pcもどうやら持ち運んでいるようだが、それを開く気配も、そもそもテーブルに載せる気配もない。その上、本日は金曜日であり、彼をこの曜日に見た事はない。加えて彼はアメリカンコーヒーではなく、今日に限ってブルーマウンテンを注文し、追加の軽食の注文はなかった。
僕が彼を観察し続けているのは、これらが大凡の要因である。即ち、何かがあると感じたのである。横目で店長を一瞥すると、彼は気づいてないのか、或いは気づいててそうしているのか、相変わらず彼女と楽しそうにしている。
「彼」と「スーツ姿の彼」が同一人物だと気がついたのは、ある所作を見てからである。彼はおそらく本人も気がついていない癖が3つほどある。
ひとつは目。彼は首や目線を変えることなく、視線を動かす。まるで周囲に悟られないように、常に周りを気にしている。僕に似ている。
ふたつめは手。彼は決まってカップを左手で持って飲み、左手で箸やフォークを使う。要するに左利きだ。今日この日も、左手で椅子を引き、左手でカップを持っていた。
そしてみっつめが足。彼は座っている時、決まって右足のつま先を立てて、踵をあげる。そして左足ののくるぶしが右の太もも裏に置かれる。そして時折足が疲れたのか今度はその足を反対に組みなおす。
今日は平日だが、客の入りはそこそこである。とあるテーブルでは思い出のあの場にもいた、参考書を開くだけ開いて何もしない――今日はスマホを弄っている――女子高生や、三人でテーブルを囲んで談笑する女子大生。スーツに身を包みキーボードを叩く男性に、スマホをいじる男子大生。或いは二人組の主婦。他にもスイーツを頬張り学校をサボっている女子高生に、と相変わらずな店内である。
――と、スーツ姿の彼が、徐に席を立った。彼の目は決してさまよっている訳では無い。けれど僕には、その目線が明らかに何かを探しているように見えた。
彼はトイレの方角へと歩いている。
――見ていたのがバレたか?
この手の人間は、特に誰かに見られること嫌う。それが僕にはよくわかる。だからこそ、その可能性が浮かび上がった。
けれど予想に反して、どうやらそうでは無いらしい。
彼は参考書を開くだけ開いて、スマホを見てぼうっとしている彼女のテーブルの近くによった。確かにそこは御手洗への経路だ、そこまでは何も不自然さはない。
彼女は不用心なことに、廊下側の椅子にカバンを置き、しかもその上にブランド物の長財布を載せているのがカウンターからでも分かった。
彼がその傍を通りかかる際、何かに躓いたような動作をした。床には何もない、故に躓く理由もない。奇妙な事に、躓いた時に音のひとつも立てることなく、極めて静かにその動作をしたのだ。加えて彼はその動作の際、左手――椅子側の手――を隠すように動かしていた。
彼はそのまま何事もなかったかのように、御手洗へと向かっていった。
――わかりやすい。
見れば、彼女のカバンの上に載せていた財布が無くなっていた。
程なくして、彼はテーブルに戻ると、そそくさと残りのコーヒーを飲みきり、会計をしにレジへときた。
店主が対応しようとしていたのでそれを制して、僕が応対した。背が低いので、見えるようにわざとレジに置かれていた台座に乗って対応する。これでよく見える。
「480円です」
僕はそこで、彼を改めて確認した。黒いビジネスバッグひとつを左手に下げ、取り出した財布はボロい年代物のやすそうな長財布。ちらりと見えた左腕にかけられた腕時計は、男性物だがブランド物では無く、恐らく1万円もしない安いもので、シルバーのそれはあちこちに傷や塗装落ちが見られる。
彼の視線が財布の中に落ちている隙にその中身も軽く確認すると、光熱費の支払い書やレシートの類が大量に入っており、お札はあまり入ってないらしい。クレカの類はあるが、パッと見で電子マネーの類は見当たらない。せいぜいSuicaくらい。
「これで」
僅かに彼の声が上ずっているのを感じた。
――罪悪感を感じるなら辞めりゃいいのに。
僕はこの場で言うかも迷ったが、店主の方を一瞥して、やめた。
彼は500円を左手で出して、僕から釣り銭を受け取ると、足早にこの場を後にした。
よく見ると、スーツのズボンの左ポケットが膨らんでいた。
僕は彼が出ていくのを確認すると、嘆息した。
「仕方ない」
こういう事は、なるべく穏便にやるべきだ。彼の事を思うなら尚のこと。
「店主(マスター)、忘れ物届けてきます」
「へ?ちょっと正弦君?!」
だから僕は、店主の了承も得ずに、彼の後を追いかけたのであった。
僕が外に出ると、彼は早足で人混みを進んでいた。行き先は駅の方だろうか。
僕は彼と一定の距離を保ったまま、見失わないように注意しながら後を追いかけた。
ストーキングというのは、大抵は気付かれないように気をつけるものである。しかし、今回は趣が違う。堂々と、むしろ気づいてくれと言わんばかりに彼の後をつけていく。
彼はしきりに周囲を気にし、度々目線をそのままに、視線だけを動かして確認していたが、とうとう恐怖心に抗えなかったのか、振り向き、そして――僕に気がついた。
彼は僕に気がつくと、殊更焦ったように足取りをさらに早め始めた。僕は無言で彼を追いかける。
彼は不器用なのか、僕を早足で振り切ろうとはしても、入り組んだ場所に入って僕を巻くような事はしないでいた。できなかったのかとしれない。
そうして駅の方角からそれて路地へ、しきりに僕が着いてきているのかを確認しながら路地へと向かっていく。彼としても、人混みは避けたいらしく、都合が良い。
やがて完全な路地裏へと迷い込むと、彼は歩き疲れたのか、或いは観念したのか、唐突に立ち止まり、僕に振替った。
「や、やぁ店員さん。何か用かな?」
「声、上ずってますよ」
彼は明らかに動揺していた。冷静を保とうとして、かえって動揺が表に出ていた。
彼は咳払いをすると、改めて僕に努めて冷静に口を開いた。
「なんの、用かな」
「用がなかったらわざわざ仕事を放棄してまで追いかけてきませんよ」
彼の口元は震えていた。
「僕はあのお店は初めてでね。なにか粗相をしたかな?それとも忘れ物、とか」
「えぇ、忘れ物はしましたよ。ただ初めては嘘だ。貴方は毎週土曜日、多少時間は前後しますがラストオーダーの30分前……15時半によく来て下さる、常連の方だ」
「そんなわけ――」
「人は目元でその人を判断する、てのは案外その通りなんですね。眼鏡をかけていないだけで、なかなかそうだとは分かりませんでした」
僕は、彼との距離を縮めるために1歩、1歩と歩みを進めた。彼は少しずつ後ずさりながら、閉口していた。
「あなたには3つの癖がある。ひとつは目線、目元……首を動かすことなく、視線だけを動かして周りを見ようとする」
「そんなこと――」
「2つ目は癖というよりは利き手。貴方は左利きだ。椅子を引く時も、カップを持つ時も、そして会計で金を渡す時も、全てが左手だった」
彼はついに、それ以上僕から逃げることをしないでいた。
「3つ目は――」
「もういいだろ!あぁ確かに俺は常連だ!だからなんだってんだ!」
彼は明らかに焦っている。いや、そんなのは今日、ウチの店に来た時からずっとそうだ。
「言ったじゃないですか。忘れ物だ、と。ただしそれは貴方にとってのものでは無いですし、この表現があっているかはわからないですが」
彼は静寂の中で、1人助けを求めるように閉口していた。
「ここからはただの推理です。確証もなければ、証拠もない」
僕は彼を挑発するように、手を広げて見せた。彼への歩みはとめない。
「疑問に思った点は2つ、いや3つ。なぜいつもと違う曜日に店に来たのか。なぜ常連であることを隠したがったのか。そして……なぜ、事に及ぶ必要があったのか」
そう、これは推理だ。僕は探偵ではないし、弁護士でもない。だからそもそも、この推理に意味などない。
「ヒントは結構あちこちに転がってました。ひとつ、今日が月末であるということ。ひとつ、貴方は軽食を頼まなかったこと。ひとつ、財布にはあまり金銭が見られなかったこと。加えておそらく支払いが立て込んでいたこと」
僕は彼の目の前に辿り着くと、彼に背を向けた。
「ひとつ、盗ったものが財布であること」
背を向けていても、彼が何かを言おうとしているのが分かった。だがそのどれもが、意味をなさないことも同時に理解しているはずだ。
「盗った?財布を?……ははは。証拠はあるのか」
彼は乾いた笑いを零し、違うと呻いていた。現行犯、と言えばそれまでだが、それで事が解決するならそもそも事に至らない。
「ありませんよ。だからこれは推理です」
僕は思わず笑を零した。証拠がない?そんなわけが無いだろうに。そしてそれは、彼も気がついているはずだろうに。
「今あげた要素から考えるなら……シンプルな答えはお金が無い、でしょうか?それでおおよそは説明がつく。けどなら何故、わざわざ金曜日に来てくれたのか。これだけは解決してない」
僕は振り返り、彼の目を見た。彼はそれを受けて、視線を逸らした。
「ま、推測できる要因はひとつしかないので、これが当たってる保証も確証もありません。が、そうですね……ヒントは月末という点でしょうか。むしろこれしか推測に至れるものがない」
そう言いながら、僕は彼の周りをお退けて回って見せた。鬱陶しいくらいが、丁度いい。僕は精一杯の悪意を込めて、その言葉を発した。
「お兄さん。リストラでもされましたか?」
静寂の中で、電車の音が鳴り響いた。僕らの間を列車が横切った思いがした。
彼は僕の言葉を受けて小さ首を振っていた。「違う」、と。けれど彼の表情が、「そうだと」告げていた。
「慣れないことはあまりしない方がいい。ましてやこういうことなら、そもそも慣れない方がいい。慣れてしまってはいけない」
僕は彼の前で止まり、そしてもう一度彼の目を見た。彼の視線は明後日ではなく、足元を見ていた。
僕は満を持して、彼のズボンの左ポケットを指さした。
「ズボンの左ポケットに入ってるもの、出してください」
彼はそこに手を翳し、そしてかぶりをふった。
「違う、これは――」
「なんで僕が、レジで指摘しなかったのか。なんで僕が、街中で呼び止めなかったのか。僕は別にあなたをどうこうする気はありません。言ったでしょう?僕の推理に意味は無いと」
僕は彼の視線の中に映るように、手のひらを差し出した。
「ですから、それを出してください」
彼はそれでも、躊躇いがぬぐえないらしく動けないでいた。
「大体、相手は年端も行かない女子高生ですよ。やってることは最低の極み。……いや、そんなことはあなただって理解しているはずだ。でなければ狼狽える必要も、声がうわずる必要もない」
僕は彼を見続ける。彼はどことなく、僕に似ているような気がした。だからきっと今日、彼の事を視線で追いかけ続けていたのだと思う。
「分かっている。こんなことをしてもどうにもならないことくらい。けれど――」
「たとえどんな理由があるにせよ、それがまかり通っていいはずがない。というより……あの店で、店主に迷惑をかけたくはない。それは貴方も、僕も同じはずだ」
彼は肩をすくめると、嘆息した。見れば、彼は目を瞑り、震える唇を悟られたくないのか、必死に抑えていた。
「……お返ししてください」
やがて彼はそう言うと、そのポケットから、長財布を取り出し、僕の手に乗せた。ブランド物の、正真正銘の彼女のものである。
「それから、申し訳ございませんでした」
そう言うと、彼は頭を下げた。こういうのは、被害者に言うべき――と言おうとして、やめた。事は隠密に、穏便に済ましたいのだから、盗られたという事実もまた、隠すべきだ。
「これは責任を持って、彼女に……秘密裏に返してきます」
僕はそう言うと、店主のあの時のウィンクを思い出し、それに倣っていた。
「本当に、すみませんでした」
「別に、僕はあなたを罪人だとは思っちゃいません。一時の過ちを犯したとはいえ、今のあなたには余裕が無いように見える。だから……」
こんな言葉を、高々17の僕が言えた立場ではないことは重々理解している。それでも僕は彼に、言わなければならないと感じていた。だから――
「だから、また来てください」
この話は結局、彼から彼女の財布を預かり、彼がしたような所作を真似てこっそりと財布を戻して終わりを告げる。
別に僕は探偵でもなければ、正義の味方でもない。人付き合いが苦手なわけでも、得意な訳でもない。ただ人付き合いが嫌いなだけだ。
だからこそ、僕はあの店主には迷惑をかけたくない。
こんなのは全部傲慢で、強欲で、ただのエゴだ。
――だからこそ、僕は未だにこの店にいるのだろう。この、【cafe&bar あだん堂】に。
【cafe&bar あだん堂へようこそ】正弦空は人を観続け、空虚に彩を望む。 霜山 蛍 @shimome878
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