海岸線へ

大枝 岳志

海岸線へ

 風呂から上がって部屋でゲームをしていると、同棲している女が背中から腕を回して突然絡みついて来た。


「何だよ、急にどうしたんだよ」

「別にどうもしないよ? ただこうしたいだけ」

「あぁ、そう。あー、ミスった」

「ざまぁ」


 テレビに向けていた視線を横に向ければ、すぐに目の前に女の唇がある。

 風呂を上がってしばらく立つが、ほんのりと熱の赤みを帯びた柔らかな唇。その唇を人差し指と親指でつまもうとして、逃げられた。


「あっ、逃げられた」

「それ、いつも痛いからヤダ」

 

 半乾きの女の赤い髪からは良い香りが漂って来る。同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてこうも違うのだろうといつも思う。

 再びゲームに集中し始めると、女が「ねぇ」と呟いた。シナリオがちょうど良い展開に持って行けそうな場面だったので、思わず声が尖ってしまう。


「何だよ?」

「……ううん。別にいい」

「別にいいならさ、声掛けんなよ」

「はぁ?……そんな言い方しなくたっていいじゃん」


 ここで素直に謝ればいいのものを、ついムキになって相手をしてしまうのが良くない。そう分かっていながらも、「ごめん」と言えない苛立ちを相手にぶつけようとしてしまう。


「せっかく良い所までいってたのにさ……じゃあ聞くよ、何だよ?」


 しまった。そう思ったが遅かった。女はペディキュアを塗ったままの姿勢で重そうな溜息を吐いた。


「あのさぁ、「じゃあ」って何?」


 仕方なくプレイを止め、コントローラーを置いて振り返る。こんな時にも関わらず、無意識に女のショートパンツの隙間に目が行ってしまう。

 しかし、言葉に棘は刺さったままだ。


「話を聞きますよ、はいどうぞって意味だよ」

「私は用事がなかったらあなたに話し掛けちゃいけないの?」

「あのさ。逆に聞くけどさ、用事がないのに話する意味ある?」

「何それ……もういいわ。寝る。話し掛けないで」

「おい、まだ話聞いてないんだけど。何かあるんだろ?」

「別にいい」


 そう言って女は先にベッドに潜ってしまった。

 一緒に暮らし始めてこんな些細な喧嘩が増えるようになった。女は日頃、献身的だと思っている。愛情も深く与えられている。それなのに、それを無碍にしてしまう自分という存在がいる。自分の自意識よりも色濃く、存在している。


 元々馬が合わないのかもしれない。


 ロクに互いの性格を探る事もせず、同棲を始めてしまったのだ。

 そこに歪が生まれるのは仕方のない事なのかもしれない。


 その夜。女の横で眠れずにいると、声を掛けられた。


「まだ、起きてる?」

「あぁ……起きてる」

「……ムカついたんだけど」

「うん」

「……たまにあなたを殺したいって思うの。その気持ち、あなたに分かる?」

「いや……殺したくはならない」

「そう。おやすみ」

「……」


 朝方。身体に重さを感じて起きた。

 女が私の上に跨り、既に始めていた。何か言葉を掛けようともしたが、身体にそれを潰されてしまう。

 いつもより、動きも声も大きかった。

 女が上下に動く度に熱が下りて行く。二度三度、耐えようとしたが呆気なく果ててしまった。

 女の短い髪が乱れていて、その奥の目は不確かに笑っていた。何の意味の笑みかも分からない口元は


「海に行きたい」


 と動いていた。


 夏が街から熱を逃がさない夕暮れ時に、二人で夕飯の買い出しに出掛けていた。

 他愛ない話をしながら商店街を抜け、国道沿いに出ると女が小さな悲鳴を上げた。


「ひゃっ……え? 嘘、嘘! ちょっと!」


 女の目線の先を見る。往来の多い道路の隅で、灰色の犬が横たわっていた。

 近付いてその命を確かめてみたが、腹が裂けて腸が露出していた。轢かれたばかりのように見えたが、血溜まりの上には早くも蠅が集まり始めている。

 目は虚ろに空を眺めたまま、ピクリとも動かない。灰色の犬の命が切れてしまっているのは一目瞭然だった。

 それでも、女は叫ぶようにして言った。


「ねぇ! 助けてあげなきゃ!」


 そんな女の声に、再び神経は尖って行く。


「おい、ちゃんと見ろよ。もう死んでるよ」

「だって……そんなの分からないでしょ!? 犬だって同じ命だよ!?」

「いや、見れば分かるだろ。舌も垂れてるし。大体、どうやって助けるんだよ?」

「動物病院まで運んであげたらいいじゃん!」

「……誰が?」


 その途端、女は絶句してこちらを酷く赤い目で睨みつけ始めた。心の底から湧く憎しみを向けられている、と感じた。

 唇が僅かに震え、目には薄っすらと涙が浮かび始めている。唇を噛み締める音すら聞こえてきそうで、その途端に「もっと泣け」と思っている自分の存在に気付く。


 女は肩に下げていたエコバッグをその場に置き去りにし、どこかへ行ってしまった。

 その背中を眺めてはいたものの、追い掛ける気力も感情も湧かなかった。

 バッグから飛び出しているビニール袋の紐が、国道を走るトラックが生んだ蒸し暑い風でひらひらと揺れていた。


 女はその晩、戻って来なかった。

 一人だけの部屋で何となく居心地の悪さを感じながら、女を待つだけ待ってみた。何度となく連絡も入れた。しかし、一晩明けても何の音沙汰も無かった。 

 連絡はないまま、心の奥に冷たい鉄が張り巡らされたような、重く冷たい感触だけが残り続けた。


 翌日の夜になって、女は平然とした顔で部屋へ帰って来た。

 昨日どこかへ消えてしまった時と、全く同じ格好だった。


「どこ行ってたんだよ」


 玄関を締める女に優しさを意識しながら声を掛ける。反応が何も無かったので女の赤い髪に触れようとすると、その手を払われた。

 

「触らないで。私の荷物がどれくらいあるか、確かめに帰って来ただけだから」

「はぁ?」


 靴を脱いだ女は顎に手を置き、突っ立ったまま部屋中を見回し始めた。


「あのさぁ、意味分からないんだけど。おまえさ、連絡も寄越さないで昨日から今日までずっとどこで何してたんだよ?」

「聞きたい?」

「当たり前だろ。ずっと心配してたんだぞ」

「それはあなたが言う「用事」という認識でいいですか?」


 硬く、張り詰めた声だった。他人よりもずっとずっと遠い声だった。それでも、返答が欲しかった。


「その認識でいいよ。連絡も無視してずっと何してたんだよ?」

「はい。「じゃあ」答えますね。昨日の夜からさっきまで、浮気してました。あなたじゃない人とずっと居ました。昨日の夜ミサキと飲みに行って、後から合流した男の子の家に行ってセックスしました。その子はあなたと会う前にずっと気になってた子です。昨日は私がその子を誘いました。はい、ご理解頂けましたか?」


 話を聞き終えると、何かの感情が湧くよりもずっと先に手が出ていた。

 部屋の中に自分でもゾッとする程の大きな音が響き渡った。

 この手によって張り飛ばされた女は頬を押さえながら、立ち上がるとあちこちにある私物をまとめ始めた。


 それが昨晩の出来事だった。


「海が見たい」


 あの朝方、そう口元を動かした女の願いを今、叶えている。思いついてから車もすぐに手配した。

 あまり遠くの海へ行けば時間が掛かると思い、東京の湾岸沿いを走るデートコースに決めた。

 女とのデート自体が久しぶりだったので、珍しく気分が高揚した。

 豊洲のビル群が闇夜に浮かび上がり、道路沿いに立つ近くのビルの窓ガラスがきらきらと夜を跳ねて輝いている。

 橋が見える場所まで出ると、遠くの方で花火が上がるのが見えた。思わず声を出してしまう。


「おい! 見たか? 偶然だよ、花火上げてるなんて知らなくってさ。写真撮った? あれ、まだむくれてるの? 本当ごめんって。何度も謝ったじゃん」


 車の中では一人分の笑い声だけが響いている。それはきっと自分の笑い声なのだろう。心の底から嬉しくて、楽しくてたまらなそうな笑い声だ。


 月が海上にぼんやりと浮かんでいる。その真下では花火が上がり海面に色をつけて行く。赤、緑、黄色、青、銀。

 その色がいくら明滅しようとも、女の返事は聞こえて来ない。

 

 しかし、車には女を乗せている。少なくとも、乗せている。

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