第17話



目が覚める。上に、左、体が波で揺れている。

鼻腔が、なんか甘たるかった。すぐ近くにある土産物屋でマダラが買った、サンダルウッドのトロピカルジュースみたいな香水の匂いがする。マダラが妙に気に入ってしまって毎日のようにつけるから、シーツを洗ってもだいぶ残る。

この国の気候からしたらずいぶんと重たい気がするが、道行く老若男女からはよくこの香りがしていた。

クルーザーの中が明るい。今日は夏至だ。


デッキに出ると、舳先にマダラが座っていた。じいさんが被るような麦わら帽子が振り向く。釣りでもしてるのかと思ったけど、振られた右手は手ぶらだった。


「おはよー」

「おはよ。なにしてんの?」

「昼ごはん。たべる?」

見えなかった左手には、焼いた魚の入ったサンドイッチがあった。手首に下がったビニール袋が、まだ膨らんでいる。

「食べる」

包みを受け取って紙をむいた。長細いパンを切ったやつに、焼いた白身魚と野菜と、マダラが働きに行っている定食屋のオリジナルソースがはさんである。

端からかじるとライムの匂いがした。



あのあと、俺らは向かいの国へ向かって、しばらくハマーのなかで暮らした。言語は同じだったから、何かと役に立った。

俺は知らなかったけど、俺らのあの国は他国からは「そんなような国」と思われていたらしい。そんなような国から来た俺とマダラはまだ未成年で、下の地区の生まれで、親もいないから、国を捨てることができた。あの国は一度なくなって、上の地区の人間だけの国として、名前を変えて生まれ変わった。

燃やされた教会に、よくわからない白色の像が神さまとして鎮座した。俺が生まれて育った国は、消えて、神の国になった。


「あ、そうだあアミナさんが鶏運んで欲しいって」

「どこまで?」

サンドイッチをもぐもぐしながら返す。

「ダンさんち」

「あー、わかった」

「よろ!」

俺もマダラも、手のひらを二回振った。


ビザが出てから、マダラは早々に定食屋の仕事を決めて面白そうに働いている。朝から昼の14時まで、ベーコンの乗ったパンケーキとか、オムレツを運んでる。客がわんさかチップをくれるから、それでサンドイッチや揚げたドーナツをふたりぶんずつ買ってくる。

金は口座にまだほぼあるから、別に働かなくてもよかった。マダラの愛想と愛嬌は俺にはない。やる気もない。この国の言語は、まだうまくできなかった。でもまた俺だけなんにもしないのも嫌で、でも健康的に働くのもなにか怖くて、マダラが俺と住んでいるのを知ってる人に頼まれるまま、こうやって鶏を運んだり、鶏からとれた卵をまた定食屋に運んだり、そこの店主の親戚の畑や農地の草刈りをして日銭をいくらか貰ったりして、プラプラしていた。


最近はよく、ガキのころの記憶が見える。親父がフォークで刺した二の腕が腫れていた。ガーゼを剥がして黄色く膿んだ傷口を指でつついた。

それで、可笑しくなる。こうやって浮かぶ記憶が、本当にあったことなのかわからなかった。事実だったかもしれないし、いまの俺の脳みそが無理やり作ったやつかもしれない。

これが、脳に良いことなのか、それとも地獄の始まりなのか、俺はわからなかった。だから毎回マダラに聞いていた。にじむ膿を見て記憶は終わる。これにはマダラが出てこないから、でっちあげかもしれなかった。


マットの剥製がどこに行ったか。それもこの間、思い出した。というよりもマダラに聞いた。覚えてないの?尋ねたときに、マダラは目玉を丸くして、湖の端に埋めたじゃん。そう言う。

俺の家からいちばん遠い対岸のデカい木の下に、穴を掘って埋めた。俺はぐじゃぐじゃに泣いていて全然役に立たなくて、マダラひとりだといつまでも穴は深くならなくて、日が暮れて心配して来た等々力がほぼ一馬力で掘った穴に、マットは眠っている。


日射しが、背中を灼いてくる。首筋に垂れた汗を拭って揺れる桟橋を飛び越えて、荷物の鶏をもらうためにアミナおばさんの家に向かった。亡くした夫のクルーザーを、もう使わないから。そう言って、破格の値段で譲ってくれた。年季の入った、でも綺麗な船室に置かれたボードのなかに、日記帳があった。マダラがそれを返しに行き、すぐに帰ってきて、アミナおばさんすごい泣いてた。そう言った。

胸が痛む。でも、俺らがしたことを、喋っても喋らなくても結局は同じだった。どっちに行ってもただの卑怯だ。数日後にクリームパイをもらって、ありがとうね。そう言われたから、いえ。そうやって、俺の得になるように返した。


道の真ん中に子どもがいた。黒い瞳をしていた。すすけた服から出ている手足が、とても細い。

天国は空にひとつしかないのに、地獄は全て地上にあるのかと、俺は考えた。でも、彼は履いていた青いサンダルを飛ばして、けらけら笑っていた。




夏至の太陽はだいぶ高くて、思ったより目が痛かった。二週間ぶりに会ったアミナおばさんは、織りの綺麗な服を着ていた。いい天気ね。会話をした。

もらった黄色い果物と、鶏を十五羽積んだハマーのなかに乗り込んで、いつもの場所に見当たらなかったサングラスを探した。雑にグローブボックスを開けると、なぜかぎちぎちになっていた中身ががらがら落ちてくる。首振り人形やガムのボトルや、なんか細々したものが広がった。覚えがないものばかりだ。


ビーズのブレスレットの下に、サングラスを見つけたから上から順に片していると、落ちた諸々のいちばん下に、ペーパーバックがあった。一瞬、なにかわからなかった。裏返して表紙を見る。神と交信するやつだった。

苦笑いしてぱらぱらめくった。青い書き文字が見える。ふっと、ロマンチックなことを考えたけど、まじまじと眺めてみてもこの筆跡に覚えはなかった。願望が達成されることを私は知っています。これを書き込んだ人間の、願望は叶ったのだろうか。叶ったからこそ売ったのか、絶望したから手放したのか、丁寧で無機質な字体からは、なにもわからない。

クルーザーのことを考えた。人を殺して貰った金を、金の力で増やした金で買った。そこにいま俺は住んでいる。人の脳みそは見なくなった。死んでほしかった親父は死んだ。マットも等々力も、母さんも、国もなくなって、マダラはまだ俺の隣にいた。


助手席の窓がノックされる。マダラがいた。

「ねー、おれも行く!」

ドアを勝手に開けてそう言う。フロアマットに散らけた雑貨を目にしてすぐ、ばつの悪そうな顔をする。うしろに載せた鶏が鳴くから、視線を外した俺が右手をひらひらさせるとマダラはハマーに乗り込んでくる。

「歩いてきたのか?」

「うん。天気いいし」

「そ」

「ダンさん元気かなあ」

「だといいな」

「ねー」

マダラが首振り人形をボックスにしまい、乱暴に閉める。半身をこちらに向けて、後部座席を覗き、鶏の入る檻かごを見て羽の匂いがする、と言う。

なんとなく、不思議に思ったから、尋ねた。


「マダラさ願望ってある?」

「がんぼー?」

「だったらいいなって思うこと」

「えーあ、あしたのまかないフレンチトーストだったらいいなって」

「なんだそれ」

「美味しんだって。粉砂糖かけてさぁ〜あ、でもそれ持ってこれないからあした昼過ぎにお店来てよ。一緒に食べよ」

「いいよ」

「やった!」


まだ、明日のまかないはわからないのに俺はそう返した。

笑うマダラのネックレスがきらきらしている。






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patriot フカ @ivyivory

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