第6話
不思議な空間だった。そこにいた彼は今まで出会って来たどんな人とも違う気がした。何がかは、よく分からなかったけれど……彼は僕が一人でここに来た理由や、母の居場所も何も尋ねることもしなかった。まるでそれが取るに足らないことだとでもいうように。
そして彼は、彼の深い瞳で僕を捉えた。
「はい」
パレットを持った方と反対の手で軽く椅子の背をたたき、彼はまた笑んだ。僕は固いひんやりする椅子、いつも小学校で使っているのと同じようなただの椅子に、記憶にないほど緊張して座った。
自然と、体が強張った。
目の前の、真っ白の画用紙。そこに、描く。手で、あとを残す。そんな行為を、自分がしていいのだろうかと、今まで考えたこともない事を考えた。自分の手で、この無垢なものを、汚してしまう。漠然とした不安、恐怖に、動けなくなる。
小さな瓶に入った水に、彼が筆を浸す。僅かな漣から引き上げそのまま、僕の手をとり、柄を握らせる。
「自由に」
優しく声がかけられる。
自由に?
自由に、などと言われたことなど、あっただろうか。「意思」というものを求められたのだろうか。僕は、言われることをするだけで、精一杯だった。いつも、いつも、目まぐるしく過ぎていく日々に、乗り遅れないように。
自由ってどういうこと?
軽く頭痛がした。目の前の白い紙が、未知のもののように迫ってくる。
何か決めてくれないの?
すがるように、背後の彼を見上げる。
暖かい茶色の目が、僕の目を受け止めて、笑んだ。
「自由に」
もう一度、彼が言う。
言葉にできないのなら、描けばいい。
包み込むような、不思議に温かい彼の声だった。
差し出されているパレットに筆の先を押し当てた。じわっと滲む絵の具。
そのまま、紙に色を乗せる。目を射るような、まばゆい赤が、筆をどかした後に、くっきりと残っていた。
君が、君の意思で付けた色だ。
背に彼を感じながら、僕は画用紙と向き合い、いつしか時間を忘れるほどに没頭していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます