銀の小舟

絵空こそら

銀の小舟

 長い夜を渡るには、舟が必要です。

 夜食なり、映画なり、編み物、あるいはそれらに類似した作業ーーー必ず対岸には着くのだから、それまでただ浮かんでいるのでは心もとない。舟が必要です。


 厚いガラスの向こうに映ったエンドロールをぼんやり見つめながら、私はもう一口、ポップコーンを頬張った。続いてコーヒーを啜る。夜なのにコーヒーを飲むのは、どうせ寝られやしないと諦めているからで、カフェインの効能云々に怯えていた頃の感覚は失われつつある。私は飲み物の中で一番コーヒーが好きで、昼夜を問わず飲めるようになった今のほうが、かえって健康的かもしれない。いや、もしかして、コーヒーの飲み過ぎでこうなったのかもしれない、なんて少し考える。

 目が少し疲れてしまったのでテレビを消した。一瞬真っ暗闇になり、音の一切が消えたよう錯覚する。でもすぐに家具の輪郭がやんわりと見え始め、大通りを行く車の走行音が遅れて耳に辿り着く。溜め息を吐いて眼鏡を押し上げ、ぐりぐりと目を擦る。

 電気をつける気になれず、床に転がっている品々に躓かないよう気をつけながら窓側に移動し、カーテンをそっと捲った。

 どうしようもないほどに夜だった。都心ほどではないにしろ、まばらに光る街灯はまぶしい。星なんかよりもずっと強く、それらは夜の生き物だということを主張する。嘆息。これは溜め息じゃない。

 こんな時、私はテクノちゃんに電話したくなる。テクノちゃんは、高校時代の同級生で、県内の私立大学の理工学部に進学した。テクノロジーに強いからテクノちゃん、という安直なあだ名。

 彼の印象を端的に表すと、柔らかい理系という感じだ。私は理系の人の理屈っぽいところが苦手だったけど(これは酷い偏見だということが今ならわかる)、テクノちゃんは理詰めをしては来ない。会話をしても、筋の通った理論が、空中にふわふわ浮いている感じ。絶対にそれらは、人を攻撃しようとしないのだ。

 長い夜に揺られている間、電話したくなるのはいつだってテクノちゃんだ。親友のゆみでも、同僚のあいちゃんでも、幼馴染のれんれんでもなく。

 一度、間違って通話ボタンを押してしまったことがある。私はたいそう慌てたのだが、すぐに切るボタンを押すことができなかった。もしかしたら出てくれるかもしれない、という淡い期待が、私の指を画面から1センチのところで止めていた。3コール、5コール……10コールのところでやっと、居た堪れなくなって通話を切った。翌日、「ごめん寝てた。何かあった?」というメッセージがきて、私は「間違えただけ。ごめん」と返信した。

 もし今、テクノちゃんの声を聞けたらどんなだろう、と、想像する。意外と高い、たまにひっくり返る、あの声。ついでにくしゃくしゃの髪の毛や、よれよれのシャツも思い出しておく。

 傍にいてくれたらいいのに、という気持ちが、恋愛感情なのかどうかはわからない。なにせ他に男友達はいないし、テクノちゃんのことは大好きだし、でもそれが、ゆみやあいちゃんやれんれんに対する友情とどう違うのか、私にはうまく説明ができない。同じなような気もするし、違うような気もする。そして同じじゃない理由は、異性だからということに他ならない。

 私は観念して窓辺から離れ、リモコンで電気を点けた。混沌とした部屋。いくつもの舟がひっくり返って、転がっている。箪笥の上に置いていた籠から鉤針と編みかけの毛糸を取り出し、手持ち無沙汰に編んでいく。何かを作っているわけではなく、ただ毛糸の輪っかに毛糸を通して、編んで、編んでの繰り返し。そうするといつの間にか夜が明けている。編み目はぐちゃぐちゃで、列の長さもバラバラだ。でも、毛糸玉が小さくなった暁には、マットレスぐらいにはなるだろうと思われる。

 集中できる時はとことん集中できるのに、今日は駄目だったらしい。もう一度籠に手の中のものを戻し、突然その籠ごと捨ててしまいたくなる。籠だけでなくて、部屋にある全ての小舟。ゴミ箱の中に死屍累々。

 結局マットレスもどきがゴミ箱に落ちることはなく、そうなると今度は持て余した感情をどこに向けたらいいのかわからなくなる。知らず知らずのうちに、スマホを探る。最高に悪酔いする乗り物を。

 SNSを少し覗いた。たくさん、たくさんの投稿。夜が海ならこれは川だ。すいすいと流れていく。綺麗な写真やおもしろい呟きや、仲良しこよしの動画。みんな漂流者のくせに。

 タブを閉じて、何個かゲームをタップしたけど、どれも追加ダウンロードが必要で、面倒になってしまった。

 本当は知っている。夜に浮かぶ一番大きな船は、睡眠だ。安定して、朝まで運んでくれる。それに乗れなかった私は、小舟を浮かべては転覆して、藻搔いている。

 結局、電話のアイコンに指が触れた。寝ていれば、スマホをサイレントモードにしているテクノちゃんは出ない。10コールまでに出なかったら大人しく引き下がろう。

 1コール、2コール、3コール……

「はい」

「テクノちゃん?」

 まさか出るとは思わなくて、声がひっくり返ってしまった。

「うん。どうした?」

 対するテクノちゃんは、突然の電話にも落ち着いている。

「なんとなく、誰かと話したくて」

「うん、そっか」

「何してたの?明日休み?」

「ゲームしてた。明日も仕事なんだけどさ」

「そうなんだ。何のゲーム?」

「最近発売されたやつなんだけど……」

 それから本当に他愛のない話をした。ゲームのこと、仕事の愚痴、高校時代の思い出話、最近ブームの食べ物の話。

「ごめん、そろそろ寝るけどいい?」

「うん。遅くまでごめんね」

「いーよ。大丈夫そう?」

「え?」

「寝れそう?」

 一瞬口を噤んだ。

「うん、寝るよ。ありがとう」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 電話が切れると、私は全身だらりとソファにもたれた。目を閉じると、とろりとした眠気が、瞼の裏に満ちている。

 私はのろのろと起き上がって、ようやっと歯を磨いた。電気を消して、布団に入る。冷たい布団が温くなる頃、ふっと意識を手放した。


 夢を見た。私は大海原に漂っていて、海面に浮いている何かに捕まろうとするけど、それらは私が触れるともろもろ砕けたり、沈んだりしてしまう。

 すると、一艘の小舟が流れてくる。銀色の、小さな舟だ。それは触れても、上に乗っても、壊れたりしなかった。

 小舟は進んでいく。その先に大きな船があった。私はそれにとび移る。

 無人の銀の小舟は、陽の昇り始めた水平線に向かって、悠然と進んでいく。

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銀の小舟 絵空こそら @hiidurutokorono

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