永遠の贖罪

早見羽流

贖罪の理由

 ──村が燃えていた。


 恐らくは賊に襲われたのだろうが、流浪の女騎士がその村を訪れた時、賊の姿はどこにもなく、ただ彼らが放っていったと思われる炎が小さな家々を焼き尽くさんとしているのみだった。


 場数を踏んでいたのだろうか、女騎士の行動は早かった。彼女は村に足を踏み入れるや否や、辺りを見回し、耳を澄ませ、燃え盛る家々の残骸をかき分けて生存者を探した。

 未だ勢いの衰えぬ炎が彼女の身体を焼いていくが全く動じる様子はない。それどころか、彼女はすすんで炎の勢いの強いところへ向かっているようにも見える。


 妙齢の女性らしからぬ膂力で瓦礫をどかし、家具やら死体やらが散乱する上を飛び越えながら身軽に捜索を続けていた女騎士は、ふと動きを止めた。目を閉じ、僅かな声を聴き取ろうとする。

 数秒が過ぎ、突如として彼女は一点を目指して駆け出した。その先には今まさに炎によって崩れ落ちようとしている一軒のボロ家があった。


 彼女が扉を突き破って中に入ると、ちょうど家の中央付近に崩れた家具によって火の回っていない場所があり、そこに一人のみすぼらしい身なりの子供が立ち尽くして泣き喚いていた。


 女騎士は目にも止まらぬ素早さで子供を抱え上げると、炎から子供を庇うようにしながら反対側の窓を突き破って家の外へ連れ出す。──と、同時に轟音を上げながらボロ家は崩れ去った。

 ほっとした様子で子供を地面に下ろした女騎士は一言


「危なかったな」


 と呟いた。あんな危険な場所に取り残されていた子供にというよりも、子供を間一髪助けることができた自分自身に対しての言葉のようだった。

 いつの間にか泣き止んでいた子供は、美しい金髪の女騎士を見上げる。子供の瞳に映った女騎士はまさしくこう表現するのが妥当だっただろう。


「……神様?」

「はぁ?」


 女騎士は気の抜けたような声を出した。それが何故か可笑しくて、子供はクスリと笑った。


「なんでもない」

「笑うな」

「ごめんなさい」


「……お前、家族は?」


 女騎士の問いかけに子供は首を振る。


「そうか……悪かったな」


 女騎士の口調から、家族を助けられなかったことに対する後悔の念を感じ取った子供はすぐさまフォローした。


「ううん、助けてくれてありがとう。もうね、ダメかと思ったんだ」

「別に、気にするな。気まぐれでやった事だ」


 純粋な尊敬の眼差しを向けられた女騎士はバツが悪そうに目を逸らした。そして話題を変えるように続ける。


「お前、名前は?」

「アリッサ」

「女の子なのか?」

「見えない? 失礼ね」

「いや……」


 女騎士は面食らってしまった。確かに、アリッサと名乗った少女はそのみすぼらしい身なりのせいか、一目では性別が判断できない。

 しばし呆然としていた女騎士だったが、気を取り直してアリッサにこう言葉をかけた。


「よしアリッサ、お前が一人前になるまで面倒みてやろう」

「……いいの?」

「でないとお前みたいな子供はすぐに野垂れ死んでしまうからな」

「お姉さん、優しいね」

「お姉さんではない。私の名前はフレイヤだ」

「フレイヤ……」


 女騎士──フレイヤは黙って頷いた。まるで、アリッサの面倒を見るのが当然とでも言わんばかりだった。


「──よろしくね、フレイヤ!」


 アリッサが差し出した煤で汚れた小さな手を、フレイヤは少し躊躇った末に握り返した。

 こうして、流浪の女騎士フレイヤと、みなしごのアリッサという奇妙な二人組の旅が始まったのだった。



 ◇◆◇



 フレイヤは村から村へ、国から国へと渡り歩き、人助けをしてその見返りとして民から施しをしてもらいながら生活していた。決して裕福な暮らしではなかったが、この世界には争いごとや不幸や災厄に満ちている。幸か不幸かフレイヤの仕事が無くなることはなく、アリッサを育てるのに十分な食い扶持も確保することができた。


 人助けの合間に、フレイヤは己の身につけた武術や読み書きなどの『生きる術』を少しずつアリッサに授けていった。

 やがて、アリッサはフレイヤに負けず劣らずの美しい女戦士に成長し、フレイヤと共に人助けを行うようになった。


 ある日、フレイヤはアリッサにこう切り出した。


「この道をまっすぐ行けばやがてこの国の首都に辿りつく。お前はそこで騎士として貴族にでも雇ってもらうといい」


 アリッサは首を傾げた。


「フレイヤは?」

「私はここまでだ。お前に教えるべきことは全て教えた。あとは自分で生きろ」

「……?」


 アリッサはフレイヤの言っている意味がわからないというように首を傾げたままじっとパートナーの顔を覗き込む。


「聞こえてたか? お前とはもうお別れだと言っている」

「でも……」

「心配するな。お前ほどの強さがあれば雇ってくれる貴族なんぞ掃いて捨てるほどいるだろう。それにアリッサ、お前は見た目も良い。きっと縁にも恵まれ──」


「──嫌だ」


「は?」


「嫌だ、って言ったの。フレイヤのバカ。貴族なんてどうせ民衆から巻き上げたお金で贅沢してるだけでしょう? そんな汚いお金貰って生きていくなんてワタシは嫌!」


 アリッサの毅然とした態度に、フレイヤは少なからずたじろいだ。


「そうか、だったら王宮騎士団はどうだ? お前の腕前ならば──」

「だから、嫌だって言ってるの! 貴族も王宮も、富を独占してる人たちじゃない!」

「わがままを言うな」

「わがままを言ってるのはどっち? なんでフレイヤはワタシを手放そうとするの? ワタシはフレイヤとずっと一緒にいたいのに!」


「それは……」


 どう説明したものかとフレイヤは頭を悩ませた。

 確かにアリッサは優秀なパートナーだ。強く美しく機転も利く。アリッサのおかげで首尾よく解決できたという場面も少なからずあった。

 だが、フレイヤにはアリッサといると苦痛に感じる時があった。というのも、この過酷な世界に生きながらもアリッサは常に前向きだった。村を焼き家族を殺し、自分を不幸に陥れた盗賊や、試練を与えた神を恨むことなどただの一度もなかった。

 フレイヤ自身、旅をしながら様々な人々に巡り会ってきたが、ここまで前向きな人物はほとんど見かけなかった。一部の富裕層を除いて皆、この災厄の渦巻く世界で藻掻きながら、細い蜘蛛の糸のような生を手繰り寄せているのだから。それは、アリッサの村を襲った盗賊も同じだろう。彼らも自分たちの生活のために略奪を働いたに違いない。


 ──ここはそういう世界なのだ。


 そんな前向きなアリッサがフレイヤの瞳には眩しく映り、翻って自分の行いを思い返した時、自責の念で胸が痛むのだった。



「私が旅をしている目的は何度も話しただろう?」


 フレイヤはなんとかしてアリッサの説得を試みた。


「贖罪のためでしょう?」

「そうだ。極めて個人的な理由だ。それにお前が付き合う必要は無い。お前はお前の幸せを探すべきだと言っている」

「……幸せならもう見つかってるよ。ワタシ、フレイヤといるのが一番の幸せなの」

「何故……」


 フレイヤにはどうしてこのパートナーがそこまで自分に固執するのか分からなかった。他でもない大きな過ちを犯してしまった自分に──。


 いくら説得しても聞き入れてもらえないだろうと悟ったフレイヤは、アリッサにある一つの質問を投げかけた。この返答如何によってはこの先旅に同行させるのはやぶさかではなかったし、もしかしたら……この少女と過ごすうちにフレイヤの贖罪は果たされるかもしれない。──そう思った。


「アリッサ……もしこの世界に災厄と渾沌をもたらした神がいたとして……その神が目の前にいたとして、お前はどう思う? どういう言葉をかける?」

「……?」


 アリッサは可愛らしく首を傾げた。

 すぐに返事は返ってきたが、それは質問に対する答えではなかった。


「フレイヤはいつも『神なんて居ない。いたらこんな世界を作るはずがない』って言ってたよね?」

「もし、仮にいたとして……の話だ」

「仮に……かぁ」


 今度は、アリッサは真剣な表情で考え込む。腕を組み、天を仰ぎ、地面を睨みつけて、もう一度顔を上げた時、彼女の中で答えが出たようだった。



「──分からない」


「分からない?」

「だって今までそんなこと考えたことなかったもの。いきなり目の前に神様が現れたとしてもどういう感情が生まれるのか、ワタシにもわからないよ」

「怒りとか憎しみの感情ではないのか?」

「さぁ? どうだろう? 確かにこの世界は色々大変だけれど、それをもたらしたのが神様なのだとしたら、何か考えがあるんだろうし。私が神様を責めたところで、何か変わる訳でもないでしょう?」

「それはそうかもしれないが……」


 アリッサの前向きな──というより能天気にも近い発言に、フレイヤの胸はまたしてもチクリと傷んだ。だが、やはりアリッサの返答はフレイヤが覚悟していたものとは異なっていた。心のどこかで、フレイヤが安堵していたのは確かだった。


「じゃあどうかな? その答えが見つかるまでは貴女の傍にいるっていうのは?」

「見つかるまで……か」

「そう、じゃないと貴女は納得した答えが得られないのでしょう?」

「……」

「そして、その答えが貴女の贖罪と関係があるのでしょう?」

「うっ……」


 鋭い。とフレイヤは舌を巻いた。時折このパートナーの洞察力には驚かされる。

 フレイヤは素直に負けを認めるしかなかった。


「──わかった。好きにしろ。その代わり、答えが見つかったらその時は……」

「うん、わかった。それまでは貴女の贖罪の手助けをするってことで」


 フレイヤの大切なパートナーはそう言いながら太陽のような笑顔で笑った。見ているフレイヤも少し頬が緩んでしまうほどの眩しさだった。


 こうして、流浪の女騎士と、孤児の少女の贖罪の旅が再び始まったのだった。しかし、フレイヤはアリッサが傍にいる時間が長ければ長いほど、自分の罪がより深くなっていくような気がしていた。──ただ、同時にフレイヤはアリッサの底抜けの明るさに救われていることが多々あるのだと悟ったのだった。



 ◇◆◇



 フレイヤとアリッサは困っている人々を救い続けた。村を荒らす賊を捕え、人を襲う魔獣を退け、貴族の不正を暴き、時には民衆と共に支配者と戦った。

 彼女たちは間違いなく英雄であったが、それでもこの世界の平穏は訪れることはなかった。彼女たちの手の届かない場所で、無数の民衆が虐げられ、苦しめられているのだ。それでもフレイヤとアリッサは諦めなかった。一人でも多くの人が幸せになれるように、彼女たちは人助けを続けた。

 彼女たちが弱音を吐かなかったのは、ひとえにお互いの存在があったからであろう。アリッサはフレイヤを姉のように──時には母のように慕い、彼女を必要としていた。フレイヤもまた、どんな時でも前向きで、自分を必要としてくれているアリッサの存在がいつの間にか得がたいものになっていた。初めはすすんで追い出そうとしていたのが嘘のようだった。



 ──そんな過酷ながらも満ち足りた時間は永遠ではなかった。



 アリッサは薄々と気づくようになる。──フレイヤが自分と同じ人間ではないのだろうということに。

 なぜなら、フレイヤはどんなに熾烈極まる戦いの中でも一切の傷を負わなかった。そして、長い間共に過しているというのに、彼女は一切歳をとることがなかったのだ。


 ただ、それはアリッサにとっては些細な問題だった。最愛の人物と一緒にいれるということに代わりはないのだから。



 フレイヤは自分のパートナーが年老いて戦えなくなってしまうと、山奥に小屋を建ててそこでのんびりと暮らすようになった。下界の混沌からは距離を置いて二人きりの時間が増え、フレイヤとアリッサはかつてないほど幸せな時間を過ごすことができた。

 しかしそれは、二人の別れが近いということも意味していた。


 ベッドの上で日に日に元気を失っていくアリッサを眺めながら、フレイヤは一旦は忘れていたチクチクとした胸の痛みに気づいた。運命というのはどうしてこうも残酷なのだろうと。そしてそれに抗えない自分を呪った。


 フレイヤが以前にアリッサと別れようとしたのは、いつかこういう未来が訪れてしまうことを恐れていたからかもしれない。



 ある日、フレイヤがアリッサの世話をするために部屋にやってくると、アリッサは珍しく起き上がって窓の外を眺めていた。窓からは爽やかな春の日差しが差し込んできているが、目の光をほとんど失ってしまったアリッサに、どの程度見えているのか定かではない。


 しばらくその様子を眺めていたフレイヤは、パートナーの姿に何か常ならざるものを感じたものの、意を決して話しかけた。


「アリッサ……」

「……?」


 彼女は振り向いて首を傾げる。その様子は若かった頃とほとんど変わっていない。フレイヤに話しかけられるのを待っていたかのような喜びが滲み出ていた。


「何を見ていた……?」


 少し間を置いて、アリッサは答えた。


「……未来かな」

「見えるのか?」

「少しだけ、ね」


 息をついてベッドに横たわったアリッサの傍らにやってきたフレイヤは、そっと彼女の髪に手を触れた。元の艶やかな黒髪は今や眩いばかりの白髪に変わり、神々しさすら感じられる。

 フレイヤに触れられると、アリッサは安堵したように頬を緩めた。


「何が見えた?」

「そろそろお迎えが来るってこと」

「……それだけか?」

「うん」


 アリッサの答えはフレイヤを満足させるようなものではなかったらしく、フレイヤは「そうか……」と呟いて黙り込んでしまった。

 暫しの沈黙の後、それを破ったのはアリッサだった。


「フレイヤ、貴女人間じゃないでしょう?」

「今更か?」

「ワタシに話してくれないのはなにか深いワケがあるのかなって思って聞かないでおいたけど、貴女まだまだワタシに隠してることあるよね?」

「……すまない」


 フレイヤは確かにアリッサに話していない秘密──というより誰にも伝えていない秘密がいくつかあった。それは、最愛のアリッサでさえ──最愛のアリッサだからこそ伝えていないことでもあった。伝えることで関係が崩れてしまうのではという恐怖からなのだが、今となってはそれが正解なのか否なのか分からない。


「──このまま秘密にしておくつもり?」

「……それは」


 言葉に詰まったフレイヤだったが、その様子にアリッサは落胆してしまったようだ。


「そっか……」

「すまない、知らない方が幸せなこともある」

「ワタシ、フレイヤのことはなんでも知りたいのに……それでフレイヤのこと嫌いになることなんてないのに……」


 これは収まりがつきそうにないと思ったフレイヤは、「その代わり……」と人差し指を立てた。


「いいことを教えてやろう」

「えっ、なになに?」


 アリッサは少女のように目を輝かせてくる。そんな様子にもフレイヤは少しだけ胸が痛む。


「──私はお前が好きだった。……ずっと」

「『だった』?」

「好きだ。今も」


 好きという言葉を繰り返して言わされたフレイヤは顔を赤らめて目を逸らした。アリッサがクスリと笑う。


「なーんだそんなことかぁ。──知ってたよワタシは」

「そうか」

「ちなみにワタシもフレイヤのことが好き」

「それは私も知っていたぞ」

「なんだ。じゃあお互い様だね」


 アリッサは少し疲れた様子で目を閉じた。フレイヤも一旦彼女の部屋から退散して考えをまとめることにした。──彼女に真実を打ち明けるべきかどうか。



 ◇◆◇



 その昔、まだこの世界が平和だった頃、人類を見守っていた女神は思った。


 ──つまらんな、と。


 平和で争いごとなどほとんどない世界では、人類の技術の進歩は遅遅として進まず、眺めていても取り立てて見どころもない。痺れを切らした女神は人類に『試練』を与えることにした。

 女神は人の心にどす黒い『欲』を植え付けた。そして、天変地異を起こし、凶悪な魔獣を解き放って大地の恵みを取り上げた。すると、たちまち人々は残された僅かな恵みをめぐって争い始めた。強い者が弱い者を虐げ、食い物にするようになった。


「いいぞ、愉快だ。もっと争え、殺し合え!」


 今までのほほんと暮らしてきた人々の苦しむ姿、それでも無情に襲い来る絶望。女神は満足だった。こうでなくては面白くない。『試練』の中でこそ人類は成長するものだと──。


 だが、そんな傍若無人な女神の行いはたちまち『正義の女神』の知るところとなった。


 人々を苦しめて楽しむ女神のもとに『正義の女神』が現れる。


「汝の行いは秩序を乱している。──そんなに『試練』が好きなのであれば、その身をもって味わってくるがよい」


『正義の女神』はそう告げると、女神から神の力を取り上げて地上に追放した。──他でもない女神自身が作り上げた『試練』の中に放り込んだのだ。

 不老不死である以外は取り立てて特徴もないただの人間に成り下がってしまった女神に、『試練』は容赦なく牙を剥いた。飢えや渇き、搾取や暴力、それらに晒されながらも不老不死ゆえに女神は死ぬことはなかったが、それが逆に彼女の苦しみを永遠のものにしていた。苦しみの果てに何度も自殺を試みたが死ぬことはできない。終わりのない生き地獄。


 しかし希望はあった。そんな彼女に手を差し伸べてくれる人々も少なからずいたのだ。彼らはもちろんこの世界の災厄の元凶が彼女であることは知る由もなかったが、苦しむ彼女に迷わず救いの手を伸ばしてくれる。自分も苦しいはずなのに、同じように苦しんでいる相手に手を差し伸べる。そんな、純粋な善意がこの世界に残っていたとは女神は思いもしなかった。

 ……女神はその事実に戸惑い、同時にある決意をしたのだった。


 彼らの善意に報いようと。


 神の力を奪われた彼女にできることは限られている。が、手の届く範囲、目の届く距離に苦しむ人々がいれば彼女は迷わず救った。自分もそうされてきたように。



 そして、女神──フレイヤはある少女と出会うことになる。──それがアリッサだった。

 フレイヤは、アリッサに問いかけた質問の答えをずっと待っていた。もしかしたら自分の罪をアリッサが許してくれるのではないかと思った。それほどまでに彼女は前向きであり、フレイヤの心の支えだったのだ。



 夜になった。



 フレイヤはもう一度アリッサの部屋を訪れた。

 アリッサは寝ているのか物音はしない。朝日が差し込んでいた窓からは、今は月明かりが差し込んでいる。フレイヤはしばらくその場に立っていた。特に何かを待っているわけではなかったが、なんとなく去り難かったのだ。一種の予感に近いものがあったのかもしれない。


 しばらくすると、気配を感じたのかアリッサが静かにフレイヤを呼んだ。


「フレイヤ? そこにいるの?」

「……どうした?」


 フレイヤがベッドに近づくと、アリッサはパートナーの姿を求めて右手をゆらゆらと動かした。


「どこ? よく見えないの」

「ここにいるぞ」


 フレイヤはアリッサの皺だらけの手を握り、寄り添う。すると安心したのか、月明かりに照らされたアリッサの表情は和らいだ。


「よかった……」

「安心しろ、私はずっとアリッサの傍を離れない」

「……でもワタシが死んだ後は?」

「……」


 思いがけない問いかけに、フレイヤは返答に窮した。


「ワタシが死んだら、貴女はどうするの?」

「それは……贖罪の旅を続けることになるだろうな……」

「フレイヤの贖罪はいつ終わるの? いつまで続けるつもり?」


 それはフレイヤにも分からないことだった。だが、彼女が今まで救ってきた人々よりも、彼女が傷つけ、命を奪った人々のほうが遥かに多い。そして、今こうしている間にも彼女のもたらした災厄の残り火は、人々を着実に苦しめているのだ。


「──私の犯した罪は重い。きっと一生をかけても終わらないだろうな」

「そんなに……でも、一生をかけてでも償おうとするフレイヤはすごいと思う。ワタシたちよりもずっとずっと長生きしてるのに……」

「私が救える人は限られている。私の手の届かないところ、目の届かない場所で数えきれない人々が救われていない。その分罪は増えていくわけで。決して、償いきれるものじゃない」


「──許すよ。ワタシは許す」

「……?」


 突如としてアリッサが口にした言葉は、フレイヤにとってまさに青天の霹靂だった。


「フレイヤがどんな罪を犯したのだとしても、ワタシは許す。だって、フレイヤはワタシを助けてくれたもの」

「そんなの……それ以上に私がお前に救われているさ……」


 そう言いつつも、フレイヤには目の前のアリッサが天使のように見えた。あの時、燃え盛るボロ屋に駆け込んでアリッサを救ってよかったと、死に別れることが辛いから一度手放そうとしたものの、思い直してよかったと、心の底から思った。


「……少しは気が楽になった?」

「ほんの少しな。ありがとう」


 フレイヤが礼を言うと、アリッサは照れくさそうに笑った。光を失いかけた目を閉じ、喜びを噛み締めるように息を吐く。そして、再びゆっくりと口を開いた。



「あの質問の答え、もう見つかったかも」

「あの質問?」

「そう、『もし神様がいたら』ってやつ」

「今更か、もういいぞそれは。気にしていない」

「嘘つき」

「……っ!?」

「フレイヤは嘘をつくと少し手が震えるの。だから分かる」


 やれやれ困ったものだとフレイヤは肩を竦めた。フレイヤの右手はアリッサの右手にしっかりと握られたままだ。床に伏せっているアリッサにどうしてそれほどの力が残っているのか、フレイヤは少し不思議だった。


「……死ぬ前に、伝えておかなくちゃって」

「……」


 アリッサは声のトーンを落とした。その切実な様子にフレイヤも黙って聞かざるを得なくなった。アリッサは既にもう自分の命の灯火が消えかかっていることを悟っているのかもしれない。


「もし、この世界に混沌をもたらした神様がいたとして……その神様が目の前にいたとしたら……ワタシはこう言うかな──」



 アリッサはフレイヤの身体を抱き寄せると、耳元で一言呟いた。



「──ありがとう」


「っ!!」


 フレイヤはドキリとした。アリッサの行動、声色、台詞、表情、その全てが彼女の感情をかき乱していった。とても、言葉を返すことができなかった。


「神様のおかげで、フレイヤに出会えて、たくさん楽しい思い出ができて、死ぬ時も大切な人に見守ってもらえて旅立てるのだから、ワタシは幸せだよ」

「……私も」


「だから──ありがとう」


 もう一度そう言うと、アリッサはフレイヤの身体に身を預けてくる。

 フレイヤは彼女を力いっぱい抱きしめたが、同時に彼女の身体から力が抜けていき、温もりが失われていくのを感じた。



「……アリッサ? おい、アリッサ!」



 もう、彼女が返事をすることはなかった。


 フレイヤは熱を失ったアリッサの身体を静かにベッドに横たえる。月明かりに照らされた彼女の頬に、ポツリと水滴が落ちた。彼女の寝顔はとても穏やかだった。


「あれ……わ、私はなんで……」


 冷たくなっていくアリッサの身体に熱い雫が滴り、止まらなくなった。

 普段は冷静沈着なフレイヤはこの時ばかりは感情を抑えることができなかったのだった。

 神として今まで数えきれないほどの人々を殺戮しても、なんとも思わなかったフレイヤは、このちっぽけな一人の人間の命が散ったという事実に激しく心を揺さぶられている。今までこんな経験はなかった。

 それはフレイヤが『変わった』なによりの証なのかもしれなかった。


「私も……お前に出会えて幸せだった。アリッサ……」


 そう呟いたフレイヤはそれ以上は何も言わず、朝になるまでひたすらパートナーの亡骸の傍らに寄り添っていた。



 ◇◆◇



 翌朝、フレイヤはアリッサを小屋の前に丁寧に埋葬した。墓を作ろうかと思ったが、アリッサはそれを望まないだろうと思い直し、アリッサを埋めた場所にオリーブの苗木を植えた。


『太陽の木』と言われ、平和や勝利、生命を象徴するオリーブは、アリッサにピッタリの木だとフレイヤは思った。


「さて、そろそろ私も発つか……」


 フレイヤは山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今日も太陽の日差しは温かく、小鳥の歌声はフレイヤの旅立ちを祝福しているかのようであった。


 一人でも多くの人々を救うため、フレイヤの旅は道半ばなのだから。


 オリーブの実が実る頃にまたここを訪れようと心に決めたフレイヤは、オリーブの苗木に軽く手を合わせる。


「アリッサ、どのくらいかかるか分からないが私は必ず贖罪を果たす。どうかそこで見ていてくれ」


 フレイヤはそう口にすると顔を上げた。もうその顔に涙の跡は残っていなかった。

 前を向き、フレイヤは永遠の旅路へと足を踏み出す。



 ──もう、迷うことはなかった。大切な人から大切なものを授かったのだから。

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永遠の贖罪 早見羽流 @uiharu_saten

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