第2話

 ザラザラと音をたててグラノーラを春のパン祭りでもらった真っ白なボールに入れる。私はこのグラノーラとお皿が立てる音が好きだ。食べるぞという感じがする。

「死にません?」

「はぁ?」

「いつも、これですよね」

「おいしくて、早く食べ終わるからね」

 サトウくんの器に向かって傾けていたグラノーラの袋のチャックをしめる。食べたくないんだったら、食べなくてもいい。私は食事に文句を云う人間が嫌いだ。だったら自分で用意しろと思う。

 サトウくんとの関係は相変わらずダラダラと続いていた。もう一か月近く経つのではないだろうか。私にとってサトウくんの存在が非日常から日常の一部に変わりつつある。それがほんの少しだけ面白くない。

 サトウくんは時々(だいたい一週間に二度の割合ぐらいで)私の部屋の前に座っている。たいがいスマートフォンをピコピコと操作していて、私の帰宅に気づくと、おかえりなさいと笑うのだ。私はきっとその笑顔に絆された。だから毎度、私より大きい彼の身体のぶんまでドアを大きく開けてしまう。

「ねぇ、これ」

「欲しいんだったらあげるけど」

「いや、そういうわけじゃない、けど」

 私は、サトウくんの手のなかから、口紅を抜き取って、それをそのまま自分の唇に塗った。鏡を見ずに完璧に自分の唇の形に紅をのせていく女の姿を彼はどういう気持ちで瞳に映しているのだろうか。私にはわからない。

 ティッシュを咥えて、薄桃色に染まったそれをくず入れに投げ入れたとき、興味はないんだけどなぁ、と後ろでため息とともに吐き出された呟きに肩をすくめた。

 サトウくんの好きな人は男の人らしい。

 そのことに関して詳しくは知らない。彼ははじめて会ったそのとき以来それについて何も云わなかったし、それに、私も聞こうとはしなかったから。

 私で自分の性癖と自分の好意を試し、見事破れたこの男のことを私はそれなりに気に入っていて、甘やかしている。決して可愛がっているわけじゃない。だって、この甘やかしは彼にとってなんらプラスに働かないことを私は知っているからだ。だから「甘やかし」ている。

 そして、簡単にもらえる感謝と与えてやっているという快感は私を立派な人間の形にとどめてくれるボンドみたいだった。

 つまり、私は自分が満たされるために彼を使っているわけだ。だけど、彼もまた、そんな私に甘えたし、そして私の行為を真似るように私を甘やかした。たぶん、彼のなかの空洞を埋めるため。そのおかげで私は、自分が満たされていることにあまり罪悪感を抱かずに過ごせることができたのだった。

 そんなサトウくんと私の甘えた関係は、至らない所ばかりでちょっと愛らしい。それこそ高校生のころのなんともない友達との出来事を思い出してクスクスと笑いだしてしまうような、そういう可愛らしさがあった。



 電話の鳴り響く音と誰かが文句を云う声。ため息と啜り声で紡がれる弱音。

大きな窓から日の光がさんさんと差し込んではくるけれど、オフィスの空気はいつも濁っていて、酸素がとても薄いのか息がしづらい。大きく息を吸ってはみるけれど、まるで空振りをしたかのように、酸素は肺には到達せず、胸骨のあたりがキュッと痛く軋むだけだ。

「ヤマダさん」

 私より三つ上の上司のカキヌマさんが、早口でベラベラと要件を伝えてくる。電話のベルの音と誰かの怒鳴り声とため息と―—。

「すみません。もう一度お願いします」

 あんた、耳が悪いんじゃない。一回病院行って来れば。

 イライラしたように吐き捨てられたその言葉に、そうですね、なんて返す私はなんだかすごく情けない生き物みたいだ。カキヌマさんが大きな声でゆっくりと繰り返してくれた要件を綴った字が少し揺れていた。それに気づかないふりをして、パソコンの画面を睨みつける。

 酸素がたりないような気がして大きく息を吸う。やっぱり地上十三階のこのオフィスの空気は少し薄い気がした。


 マナーモードにしていた携帯が震えて、その震え方がメール通知だったことに憂鬱になる自分を思いながら嫌らしく笑う。

 そっと着信を見ると、思っていた通りの差出人で、絶望して、それから安心した。バラバラの思考はない交ぜになって期待へと変わっていく。

 ラインができないこの人の―—社内チャットを使わない神経質なこの人の少し節が目立つ指だけを思い出しながら、自分の柔らかいだけの指先で左の手の甲を撫でてみる。不健康そうな血の気のない白い肌に浮かぶ青色の線をなぞって、それからネイルで整えた爪先で引っ掻いてみたけど、何も感じない。

 何も感じないから、きっと私は、今日もあの人と寝るのだ。あの人じゃなきゃダメなんだ。



 真っ白なシーツはまるで貝殻みたいだと思う。

 小さい頃、よく家族で海へ行った。太平洋の灰色なビーチのなかで目立つ白い滑らかな貝殻を小さな私は、真っ白で綺麗な石だと誤解した。暗い闇の中、月の明かりに照らされてヘンゼルとグレーテルを導く、あの石のようだったからだ。

 それが、海に削られて貝殻の形を保つことができずにただただ丸くなってしまった貝殻だったと知ったのはいったいいつだっただろうか。

 揺らされた拍子に舌を噛まないように注意しながら、弱い照明に照らされてぼんやりと白く輝いているシーツを舐めてみた。

 なんだかしょっぱい気がして、やはりこれは貝殻で、今、私は貝殻の中身にいるんだと錯覚する。

 私には激しくなるとシーツをつかんでしまう癖があるから、この行為が終わったら、この貝殻も私の手元でくしゃくしゃに丸まって石ころになってしまうだろう。そうなったとき、この石は私をいったいどこへ導いてくれるのだろうか。

 エノキさんは、私より十ほど年上の営業部のお偉いさんで、ローンで購入したらしい彼のマンションには高校二年生になる可愛い男の子と中学一年生の頭の良さそうな女の子と、美人でしっかり者の賢い妻がいる。エノキさんは奥さんのことをすごく愛しているし、奥さんもよくは知れないけどきっとエノキさんのことが好きなんだろうと思う。彼のアイロンのかかったワイシャツとかクリーニングの札がちゃんととられた隙のない格好が私にそう見せるのだ。

 あぁ、くるな、という冷たい予感とともに、思考の外で身体が痙攣するのを感じた。

 それが気持ちのいいものかどうかよくはわからないけど、癖になるな、とは思う。

 だから私は、そのほんのちょっとばかり名残を残す感覚のために今ここにいるのだ。

 私は、エノキさんのことがそれほど好きなわけじゃない。この人と一緒になりたいなんていう願望もない。だから、エノキさんの家族からエノキさんを奪おうなんて少しも思ったこともなかった。

 そもそも、エノキさんはまったく私のタイプではなかったし、彼の神経質は私をすごく傷つける。「好き」でいうんだったら、上司のサイトウさんや同僚のキミジマくん、――、例えば、サトウくんの方がずっと好きだ。

 だけど、私はどうにもエノキさん以外とセックスをすることが考えられない。いや、やろうと思えばできるのだ(元にサトウくんのことを私は誘ったのだから)。だけど、私のなかで私を抱く男はやはりエノキさんで、他の男とセックスしたとしてもやっぱりそれは変わらない。とても不思議なことだけど。

 私が気に入っているエノキさんの色っぽい呻き声みたいな言葉じゃない声が背後から聞こえてこの行為の終わりを知った。彼の言葉はあまり好きじゃないけれど彼の声を私はとても好ましいと思っている。

「今何時?」

「十一時半です」

 だいたい一時間。この一時間のために、私たちは、世間から非難されるような関係に収まっている。前に一度聞いたことがある。

 どうして?と。

 どうしてだろうね、不思議だよ。

 私もたいがい頭が悪かったし、神経質で危ない橋を渡りそうにないこの男が、不思議の一言でこの行為をあらわすことが面白かったからその時はすごく笑った。たぶんエノキさんも笑っていた。そのころのエノキさんは、私に柔らかい言葉をたくさんくれたから。もしかしたら私は彼のことが好きだったのかもしれない。そして彼もまた私に対してあたたかい気持ちを持っていたのかもしれない。

 次に会う約束を「愛してる」だとか「好き」だとかそういう言葉を交えてすることが快感だったことに気づいたのはもう少しあとになってからのことだった。

「ヤマダさんの企画提案書、書き直してもらってもいいかな。もうひと押しほしい」

「わかりました」

「ごめんね。あともしかしたら、明日ヤマグチがそっちに今度のフェアのサンプル持っていくと思うけど、」

 私がクシャクシャになったシーツの上でぼんやりしている間に、スラックスに足を通し、ワイシャツにネクタイを締ながら仕事の話をするエノキさんはなんだか変な生き物みたいだといつも思う。でも、おかしいな、という思いよりもこういう行動をとってしまうエノキさんが可愛いとも思う。

 彼は私が怖いのだ。

 だから、こうやって、仕事の話で私を繋ぎとめて閉じ込めようとする。

 私が、携帯についている末の女の子の七五三の際にとった家族写真のストラップに向かって「可愛いお子さんですね。幸せそう」と云った瞬間、彼の中の平穏はきっと音を立てて壊れてしまったのだ。

 神経質で、大切なものがあるくせに「不思議」に魅せられてしまったエノキさんがとても可哀想で私はついつい大声で笑いだしたくなる。



 エノキさんと別れた後の夜はいつもどこか明るい気がする。だけど空っぽの明るさだから、笑っていないといけないような気持ちになってしまう。独り言を云って、勝手に笑う。自覚的な奇行に他者の視線を感じて、さらに笑う。もうおかしくなってしまうくらいずっとずっと笑い続けなくちゃいけない。

 私の気持ちにそっくりな明るいだけのコンビニに入って、飲料の冷蔵庫をあけるときに肌を撫でる優しい冷気にも笑いたくなる。一つの缶を取ると、重みで手前にセットされる缶ビールを抜いていくのが楽しくなって、気が付いたら私はレーンに収まっていた缶ビールを全て籠のなかに入れていた。

 レジをしていたバイトの男の子となかなか目が合わないことに吹き出しそうになって、重いビニール袋を途中で軽くしながら帰宅したら、部屋の前に、男の子がいた。

「あっ、おかえりなさい。今日、遅かったですね」

 サトウくんは、弄っていたスマートフォンをポケットに入れると、私の手のひらに食い込んでいる重みを軽々と手にとった。

 重みがなくなった手のひらがジンジンと痛んでなんだか熱をもっている気がする。

「どうしたんですか?」

「なんでもない」

 ずっとなんでもない気でいたのに、どうして気づかされてしまったのだろう。いや、気づいていたけど、それを受け止めるのはとても疲れることだったから目を背けていた。

 やっぱり、若さはそれだけで凶暴だ。

「ビールいっぱい買ってきちゃったから、一緒に飲まない?飲めるよね?」

「はい、でもあんまり得意じゃないかも」

「よし、じゃあ、潰しちゃおう。吐いてもいいよ。トイレならね」

 文句を云うサトウくんの手を引いて私の空間へ足を踏み込んだ。サトウくんの手首は湿っていて、その下に筋肉があって血管があって、生きている人間という感じがしてとても好ましい。

 だけど、きっと私は、またエノキさんと会うのだろう。

 笑いだしそうになった唇を噛むと、思っていたより柔らかくて、銃弾で胸を打ち剝かれた兵士ってこんな感じなのかな、なんて思った。

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アンぶれラ 草下萌乃 @kusaka-moeno

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