霊柩
平凡ノ助
霊柩
甲高いサイレンの音によって、とりとめのない雑念がかき消されたそのとき。私は雑踏に混じり、駅前の大路を横断するところだった。両の手は外套にしまい、やや俯きながらぼうっと、信号が変わるのを待っていた。隣に佇むスーツ姿の男も、疲れを滲ませながらやはりぼうっとしていた。しばらくして、夕闇に光った青を合図に、私たちはいっせいに歩み出した。かく語るもくだらない日常、いや日常として切り取ることすらもないような一幕に向かって、それはやってきた。
ぴーぽーぴーぽー。しばしば擬音でそう表されるその音は、書き起こすと間が抜けることこの上ないが、いざ至近にて耳にすると、ああなんとふざけていることだと思わされる。それは、まちがっても、「ぴー」だか「ぽー」だとか、阿呆な音には起こされない。もっと緊迫さを帯びた、身の毛がよだつような音で表さなければならないだろう。
私を含めた雑踏は、否応なしにやかましいその音を聞かされた。それでも、雑踏は歩みを止めなかった。私の足ももれなく、歩みを止めなかった。ただしそれは、あえてのことではない。サイレンに気を取られた結果、ひとたび巻いたぜんまい仕掛けがしばらく止まらないように、私は止まれなかったのである。ついさきほど、「歩く」というねじを巻いたのだから。はたして、雑踏の者どもが私と同じ玩具であったのかはわからないが。
いま、私はぜんまい仕掛けであったと言ったが、それは実に的確な例えであった。ほどなくして、私の歩む勢いはすぼんでしまったのである。ねじの巻きが甘かったからか、はたまた奇怪なサイレンにあてられたからか、私の足どりは乱れてみせた。そうしているうちにも、救急車は横断歩道へ差し掛かろうとしていた。このときようやく、私は焦燥とともに考えを巡らせ始めた。たしか、緊急車両については、道をあけなければならないのではなかったか。それは、歩行者にも適応されるのだったか。適応されるのだったら、あの救急車は信号を無視して我々のいる横断歩道を強行してくることになる。そうであるなら、いま私がとるべき行動は何だ。急いで対岸に渡ることか。それとも、大路の中央で立ち往生することか。私はひどく惑った。
私は焦りながらも、雑踏を観察した。先ほど隣にいたスーツの男は、既に対岸に着こうとしていた。他の者も似たような様であった。なるほど、彼らはどうやら、ぜんまい仕掛けの玩具などではなかったのである。しりすぼみになる私の歩みとは異なり、自律を以てその歩みを速めていたのである。私は雑踏の中にいながら、雑踏になりきれなかった。気づけば、私は歩行者の最後尾にいたのである。疎外された私は我に返り、遅ればせながら小走りを速めた。
思えば、この選択こそが誤りであった。歩みを速めたせいで、このまま進めばちょうど、私と救急車が接触するのではないかという懸念に襲われたのである。そう思ったが刹那、私はたちまち歩みを遅らせた。すると、救急車も減速し、ほぼ停止してみせた。私に呼応して停止してしまったのかと思ったが、私のやや前方にいた数人の歩行者に配慮した結果のこととも思えた。だが、こうなってしまってからには、大路を渡り切らねばなるまい。当然にそう思い至って、私は走った。
渡り切った私は、自らの行動を顧みた。不意のことであると、人はよろしく動けないものであると、ありふれた訓示をあらためて噛みしめた。繕っても、悪しき行いだったと恥じた。その折だった。私は背後から、右肩を軽く二回ばかり、叩かれた。
振り返ると、背の低い婆さんが立っていた。婆さんは険しい顔をすると、私にこう言ってのけた。
「よけなきゃ、だめでしょ。」
何のことかはすぐに分かった。先のことだ。この婆さんは、見ていたのだ。いや、すべてを見ていたのかはわからない。そのとき婆さんがどこにいて、何をしていたのかもわからないが、ひとつだけ確かなのは、先の私の狼藉を観測していたということだった。
私は言葉が出なかった。胸中には、自省の念に追随するかのように、どこからか強い不安がやってきた。婆さんは、数いる雑踏の中から私を選び抜いて、責めた。それはつまり、あの救急車は私の愚行によって「停まった」のだと、私に知らしめたことに他ならなかった。あのとき、私の目前にいたと思われる数人ではなく、この私こそが、車を停めたのだと。そう叱責してきたのである。対岸に「渡る」という行為をまるで集合知かのように選択した雑踏ではなく、雑踏からあぶれた私のことを。婆さんは、立ち止まらなかった雑踏の選択を責め立てるわけではなく、私の逡巡した行動だけを責めた。あの雑踏の責任を、私に求めたのである。もしかすると、婆さんは始終をよく見ていなかったのかもしれない。ただ、どうやら歩行者が邪魔で、救急車が停まらざるを得なかったということはわかったのだ。そうして、おそらく私が問題だったのだと目星をつけたということかもしれない。あるいは、婆さんはぼうっとしていた私にはじめから目をつけていて、ああほら案の定愚行をはたらいたものだと合点して、私に話しかけたのではないか――
真相はわからないが、私はこうも思った。婆さんは、私が人命を殺めたのだと、非難しているのではないかと。あの車の中に、はたしてどのような者が乗っていたのかということは知るすべがない。救急の者が乗っていたことは違いないが、その急く程度はわからない。「一刻を争う」というが、この「一刻」という慣用な字句が個別具体的な状況において示す時間の尺度については、概して語ることができない。もし私のせいで救急車が停まったとして、その停まった時間はおよそ一秒ほどであっただろう。再び速度を取り戻すまでに要する時間を鑑みれば、その損失はさらに伸びる。そうだとしても、平生に生きる我々の尺度からすれば、わずかと言って差し支えない時間である。しかし、そのわずかな時間は決して蔑ろにされていいものではないと、私は知っている。それこそが、「一刻を争う」という言い回しが意味するところであるし、「救急」という事態の本質なのである。すると、私はどうしても、私が損失させた刹那のせいで、人命が失われてしまったかもしれないという一抹の可能性を排除できない。――いやここで「一抹」と片付けてしまうことこそが、私の愚かさを物語っているのだろう――もし本当に私のせいで、患者が惜しくも助からなかったとするなら。考えたくもないが、そうだったとするなら。あの車は、私を前にしたあの瞬間、霊柩を乗せていたのではないかと、思ってしまうのである。
霊柩 平凡ノ助 @heibonnosuke
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