第39話
同時刻。浮遊島の外周にて。
花哩は、自らを無視して浮遊島に向かう蝗たちに、大きく舌打ちした。
「……最悪。飛翔外套がこんなに脆いなんて、聞いてないんだけど」
怒りと諦念を綯い交ぜにした感情を吐き出し、花哩は己の飛翔外套を一瞥した。
真紅の外套は、EMITSの攻撃によって右半分が大きく引き裂かれている。この破損が原因でまともな飛翔ができずにいた。
今の花哩はその場で浮くことで精一杯だ。
(この状況で襲われたら即死ね。幸いEMITSは、浮遊島への襲撃を優先しているみたいだけれど……それもいつまで保つか)
亜種を除いたEMITSは人間よりも浮遊島を優先的に襲撃する。幸い蝗型はその特徴が如実に表れる類だ。群れの出処を探るべく浮遊島から遠くに来たことも功を奏し、今の花哩はEMITSの標的にならずに済んでいる。
その時、悲鳴が聞こえた。
「いや、誰か――っ!?」
遥か前方で、特務自衛官と思しき人物が蝗の群れに応戦していた。
だが形勢が悪いのか、今にも蝗の軍勢に押し潰されてしまいそうだ。
「く――っ!? 間に、合えッ!!」
花哩の身体が反射的に動く。痛む全身に鞭打って、狗賓の引き金を絞り続けた。
放たれた灰色の光線は、狙い通り蝗を貫通する。
間一髪で危機を免れた特務自衛官は、放心した後、花哩の存在に気づいた。
ひとつの命が救われたことに、花哩は達成感を覚える。
同時に――己の死期を悟った。
狗賓を使ったことで、花哩は周囲の蝗たちに、一斉に敵と認識された。
脇目も振らずに浮遊島を目指していた化物たちが、四方八方から花哩へと襲い掛かる。
「危ない!」
先程助けた自衛官が、こちらに向かって手を伸ばした。しかし、蝗たちの群れによってその姿は瞬く間に見えなくなった。……折角助けた命だ。どうか無事に生き残って欲しい。
「ったく……勿体無いわね。ここから、面白くなりそうだったのに……」
思い浮かべるのは、美空翔子という少年だ。
未練があるとすれば、あの男の行く末がもう見られないこと。美空翔子の存在は花哩たちに様々な影響を齎した。その変化による結果を、もうこの目にすることができない。
翔子が来てから、ラーラは歪な形とは言え異性との会話ができるようになった。綾女は以前と同じに見えるが、ここ最近はどこか楽しそうに過ごしているようにも思える。そして花哩もまた、翔子の怠惰な性格や才能に、一喜一憂したものだ。
自分たちは今、変化の最中にある。ここ数日で何度もそれを実感した。
だからこそ、その途上で死ぬのは残念で仕方ない。
「あとは、任せたわよ」
誰に言ったのかは分からない。綾女でも、ラーラでも、翔子でも。……信頼できる相手なら誰でもいい。
最後に人助けができたのだ。未熟な自分にしては上出来な結末だろう。
黒い顎が迫り来る。花哩は覚悟を決め、目を瞑った。
だが、その時。
放り出された花哩の掌を――暖かな何かが掴んだ。
「――大丈夫か?」
瞼が閉じる寸前。
細められた花哩の瞳に、翡翠の影が映った。
「……え?」
見覚えのあるシルエットに、花哩が微かに声を漏らす。
硬直した花哩の身体は次の瞬間、逞しい両腕に抱えられ、素早く運ばれた。
「嘘……」
瞬きをしている間に、EMITSの包囲網を抜け出していた。
目の前にあるのは青々とした空のみ。
化物の群れは、直下で一様に首を傾げている。
「翔、子?」
自らを抱えるその人物の顔を、花哩は見つめた。
翡翠の外套を身に纏い、古倉花哩の体躯を抱えるその少年は、普段通りの無気力な瞳を小さく揺らす。翔子はその表情に疲労感と、僅かな安堵を浮かべていた。
「な、なんで、あんたが、ここに……」
花哩は知っていた。
翔子は空を飛ぶことは好きだが、EMITSとの争いには消極的だ。
美空翔子にEMITSと戦う理由はない。
だからこそ花哩は翔子を置いて戦場へ向かったのだ。
だというのに、この男は何故ここにいるのか――。
「――馬鹿! なんで来ちゃったのよ!」
折角、遠ざけたのに――その思いが花哩の感情を暴走させる。
「花哩を助けるためだ」
翔子は当然のように告げる。
次の瞬間、その眦が鋭くなる。
「バランスが取りにくいから背中に回ってくれ」
そう告げられ、花哩は翔子の首に手を添え、背後に移った。
瞬間、翔子は飛翔した。
十年近く飛翔外套を使用している花哩と遜色ない滑らかな軌道。無駄のない動きで蝗の包囲網を抜け、そこで再び停止する。
狗賓を落とさないよう注意を払いながら、花哩は眼前の戦域を眺めた。周囲にも蝗は無数に飛び交っているが、浮遊島付近には更に数が多い。
「出雲に避難する」
翔子は短く告げた。
「……危険よ。浮遊島に近づけば近づくほど、敵の数は多くなるわ」
「でも、あそこしか安全な場所はないだろ」
その通りだ。EMITSはエーテル粒子を追う習性を持つ。浮遊島への侵略を諦めたEMITSが、次に翔子たちのITEMが放つエーテル粒子の臭いに引き寄せられないとは限らない。安全に生き残るためには浮遊島に行くしかない。
「あんたに、できるの?」
「知らん。でも――やるしかない」
迫り来る蝗たちを前に、翔子の無気力な黒い眼が、深く沈む。
黒い塊が視界を埋め尽くすと同時に、翔子は大きく曲線を描いて飛翔した。
退避している最中、塊の奥から更に無数の蝗が顔を覗かせる。
このルートでは避けられない。そう判断した翔子は――瞬時に他の道を選び、それに従って進行方向を変える。
翔子はそのまま、蝗たちの群れの合間を縫うかの如く、全身を捻って飛翔した。
「……凄い」
思わず、花哩が感嘆した。
翔子の飛翔は、既に花哩では実現できない軌道を幾つも描いていた。その節々から翔子の才覚が伝わってくる。
「所詮、俺は偽物だ」
だが翔子は、冷めた目で化物たちを見据えながら言う。
「以前、俺が陸上部にいたことは話したよな?」
唐突に何かを語る翔子に、花哩は困惑しつつも頷いた。
「エースという肩書きを押しつけられた時は、本当に辛かった。誰も助けてくれないし、皆が敵のように見えた時すらある」
羽音を響かせて接近するEMITSを冷静に回避して、翔子は言う。
「でも、今になって思うことがある。……本物のエースがいれば、あんなことにはならなかったんじゃないかって」
翔子は真っ直ぐ前を見ていた。
だがその頭は、きっと過去を想起しているに違いない。
「期待に押し潰されず、注目にも物怖じしない。そんな本物のエースがいれば、俺のような名ばかりのエースが生まれることも、きっとなかった」
翔子は、背中に乗っている花哩を一瞥する。
「だから……花哩。頼んでいいか?」
絞り出したような声で、翔子は告げる。
「本物のエースになってくれないか?」
花哩を見つめる翔子の目は、尊敬と不安が滲んでいた。
頼んでいいか? ――エースが背負うべき重責を。
告げられた言葉の裏には、翔子の助けを呼ぶ声が隠されていた。
それに気づいた花哩は、小さく笑みを浮かべる。
「……ふん、言われるまでもないわ」
花哩は堂々と……今までと同じように、真っ直ぐ翔子に告げる。
「私は、この空のエースを目指す。あんたみたいな偽物とは違う、本物のね」
花哩の覚悟を聞いて、翔子は静かに微笑んだ。
「……そうか」
目の前には無数のEMITSがいる。
だが、翔子は清々しい気持ちに包まれた。
「なら――――俺は安心して飛べそうだ」
恐れるものは何もない。
四肢を縛っていた鎖から解き放たれたかのように、翔子は全身で自由を感じていた。身体も頭も軽い――――軽すぎる。集中はかつてないほど研ぎ澄まされた。
以前、花哩と仲違いして和解した後、翔子は違和感を覚えた。
本当にこれでいいのか? その疑問に今なら答えられる。
このままでいいはずがなかった。
花哩は、翔子のことを知って変わろうとした。しかし翔子は何も変わろうとしなかった。相手に要求だけして自分は怠惰なまま過ごそうとしていたのだ。
――花哩を助ける。
それが、重責を背負ってくれた少女に対する誠意だ。
理解してくれた仲間に対する覚悟だ。
翔子は安堵に満ちた瞳を浮かべ、EMITSの大群と対峙する。
その瞳が、広大な空を見渡すべく、静かに見開かれた。
「行くぞ」
翔子は飛んだ。
出雲に近づくにつれ蝗たちの密集度は増していく。現状、最も危険な空域は障壁付近ではなくその手前だろう。自衛官と蝗たちの乱戦が繰り広げられているそこは、下手に突っ込めば双方から巻き込まれる可能性がある。
今――最も熾烈な戦いが繰り広げられている領域へ突入した。
特務自衛官が暴れるこの空域では、蝗たちも明確な敵意を持って行動している。一匹一匹が翔子を標的に見据え、襲い掛かってきた。
横合いから飛んで来る蝗の巨体を、翔子は軽々と回避した。
その直後、今度は正面と、背後から別の個体が飛来してくる。
「翔子、後ろッ!」
焦燥に駆られた花哩が叫ぶ。
「大丈夫だ。――俺の眼を信じろ」
刹那、翔子が右足で空を踏み抜いた。
甲高い音が響くと同時、前方に飛翔していた翔子の身体が、ぐん、と直上へ跳ねる。その真下で二匹の化物が頭蓋を衝突させた。
「………………嘘」
背負われている花哩は、ただ呆然と、先程の一部始終を頭の中で反芻する。
飛翔外套のアーツを用いたことも十分驚愕に値するが、それ以上に――。
――今、翔子は後ろを見ていたか?
見ていないはずだ。なのに、どうして反応できた?
この男の眼には、一体何が映っている?
「……『空の眼』」
震えた声で花哩が呟いた。
初等部の頃から、『空の眼』の話は都市伝説として何度も耳にしてきた。
だが今、確信する。
『空の眼』は間違いなく実在する。
しかし、そこで花哩は――見過ごせない事実に気づいた。
「ば、馬鹿! 《ステップ》は使っちゃ駄目なんでしょ!?」
「そんなこと、言ってる場合じゃないだろ」
四方から蝗が迫り来る中、翔子は回避するための経路を探す。
狭い隙間を幾つか見つけて、その一つに身体を滑り込ませた。
隙間を抜けた先では、まるで待ち構えていたかのように大量の化物がこちらを向いている。通常の方向転換では間に合わない。
翔子は再び《ステップ》を使用する。
大きく右に跳んだ後、追跡を避けるため、更にもう
「――っ」
翔子が苦悶の表情を浮かべる。やはり足が痛むようだ。
このまま無茶を続ければ、翔子の足は歩くことすらできなくなるかもしれない。それが如何に残酷であるは、健常者である花哩にも容易に想像できる。
これ以上、《ステップ》を使わせたくい。
なら――。
「翔子。《ステップ》はできるだけ使わないで」
「だから、そんなこと言ってる場合じゃ――」
「代わりに、他のアーツを教えるわ」
忘れてはならない。
美空翔子は、空を飛ぶことに関しては天賦の才を持っている。
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