第38話

「くそっ、これだから最近の学生はッ!! 君はそのまま浮遊島に行きなさい!!」


 悪態をつき、自衛隊の男は慌てて二人を追いかけた。

 一人取り残された翔子は、波に巻き込まれていく三人を無言で眺めていた。

 あんたは来ないでと、花哩に告げられた言葉が何度も頭の中で反芻される。


 ――どうすればいい。


 目の前の黒雲に足を向けようとすると、急に全身が重たくなった。

 しかし、出雲の方に近づこうとしても身体が重くて動かない。


 黒雲は遂に浮遊島へ到達した。島が展開する障壁に巨大な蝗が群がる。障壁に張り付いて蠢く黒い塊が、生理的嫌悪感を催した。

 その時、万能端末が綾女からの通話を受け取る。


『……翔子、無事?』


 聞き慣れた声が耳に届く。


「ああ、なんとか」


『……よかった。ラーラも島にいるから問題ない』


 綾女とラーラの無事を聞いて、翔子は僅かに安堵した。


『花哩は? 花哩はどこ?』


 綾女の問い掛けが、翔子の胸に鋭く突き刺さった。


「……悪い、止められなかった。花哩は達揮と一緒にEMITSを倒しに行った」


「……あの馬鹿」


 綾女が悪態をつく。


『追って』


 綾女が告げた。

 その指示に翔子は声を震わせる。


「追うって……俺が、か?」


『そう』


 問い返す翔子に、綾女は即座に肯定する。


『浮遊島は今、内側から外には出られないよう障壁で封鎖されている。……私とラーラは暫く動けそうにない。今は、翔子だけが頼り』


「……自衛隊に頼んだ方が確実じゃないか?」


『自衛隊も万能じゃない。多分、民間人の誘導はもう終わってる。……今頃は警備隊も討伐に駆り出されている筈。こうなったら、救助要請は暫く届かない』


 現に翔子も今、単独で避難している状況だ。警備隊の人手不足は明白である。


『それに、翔子が一番適任』


「……なんで、そう思う」


『才能。ラーラから聞いた。翔子には『空の眼』があるって』


「……都市伝説を持ち出すなよ」


 気が抜けた。

 同時に、堪えていた憤懣が溢れ出す。


「お前は俺に、あんな化物の大群へ突っ込めと言うのか? ……それは、俺に死ねと言ってるようなものだぞ」


『――本当に?』


 だが、綾女は間髪を入れずに問いかける。


『翔子は本当に、自分が死ぬと思ってる?』


 綾女の問いに――翔子は即答できなかった。

 夥しい化物が集うその空は、とても狭苦しく、飛んでいて気持ちいい筈がない。けれどその中を飛べるかと問われると、不可能ではないような気がした。


 ――おかしい。


 何故、自分がこんな感情なのか分からなかった。

 これほどの恐ろしい光景を前にしても、全く恐怖が湧かない。


 刻一刻と脅威が迫っている実感はある。

 先程からずっと、誰かが命を削って戦っていることも理解している。

 それでも――。


 ――どうしても、死ぬ気がしない。


 道 が 視 え る・・・・・

 二ヶ月前、篠塚凛に助けられた時のように。ラーラを抱えて不良たちから逃げていた時のように。先程、達揮と戦っていた時のように。

 あの黒雲の中にも、まだ飛ぶための道はある。


『翔子……貴方の才能を、使わせてほしい』


 才能。

 それは翔子にとって好きな言葉ではなかった。

 だが、綾女は続ける。


『心配しなくてもいい。……ここは、翔子がいた陸上部とは違う』


 綾女は普段通りの淡々とした声音で言う。


『翔子には才能がある。でもこの空は、翔子が思っている以上に広い。……翔子にどれだけの才能があっても、そう簡単にエースになれるほど、この空は浅くない』


 それは、翔子の心情を完全に見透かしてないと、出てこない言葉の数々だった。

 だから綾女の言葉は、翔子の胸に真っ直ぐ届いた。


『それに――エースになるべき人は他にいる』


 綾女は普段よりも強い語気で言った。

 その言葉を聞いて、思い浮かぶのはただ一人。


「……花哩」


『そう』


 綾女は肯定した。


『貴方がエースの肩書きを背負う必要はない。この空には、貴方よりもエースの座を求めている人がいる』


 重たかった全身が、軽くなった。

 たった一人の少女を思い浮かべるだけで、全身を縛っていた枷が消えた。


『だから、お願い。花哩を――未来のエースを守って』


 枷が消えた今、その願いを拒絶する理由はどこにもない。

 眼前に鎮座するEMITSの群れを見据え、翔子は――応えた。




「――任せろ」




 翡翠の外套を翻し、翔子は戦場へ飛び立った。

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