第37話
『緊急警報発令。緊急警報発令。現在、浮遊島出雲にEMITSが接近しています。住人の皆様は速やかに避難して下さい。繰り返します――』
ディスプレイが次々と展開され、誘導経路が表示される。
急降下を止めた翔子は、眼前の画面を呆然と眺めつつ、達揮にも目を配った。達揮もまた翔子と同じように、狼狽を露わにしている。
「二人とも、模擬戦は中止。今すぐ避難するわよ」
落ち着いた彼女の声色に、翔子と達揮は安堵と共に首を縦に振る。
模擬戦によって、三人は訓練空域でもかなり端の方にまで来てしまっている。避難先である浮遊島出雲とは相当な距離があった。
緊急用の誘導ラインに従い、飛翔しようとしたその時。
再び警報が鳴る。
『警戒レベル三が発令されました。現在、浮遊島周辺の空域にいる皆様は、誘導員の指示に従って避難して下さい。繰り返します。警戒レベル三が発令されました――』
「――は?」
二度目の警報に、花哩が驚愕の声を発す。
「警戒レベル三って、嘘? どういうこと? 警備隊はどうしたの?」
その混乱に満ちた声音が、事の緊急性を表わしていた。
特務自衛隊が所轄する航空団は討伐隊と警備隊に分割される。前者はEMITSの発見に伴い、その対処を任される組織だが、後者は敵の発見や市民の救出、及び航空機などの護衛や周辺警戒のためにある組織だ。
警備隊は、発見から討伐までの間の戦線維持の役割も担っている。
警戒レベル三は、その戦線をEMITSが突き破ったことによって発令されるもの。――つまりEMITSは、既に間近まで迫っていることになる。
「あれは……っ」
達揮が、浮遊島とは真逆の方向を見て目を剥く。
そこには真っ黒な雲があった。いや……その雲は凝視すれば、無数の粒の塊であることが分かる。それらは一つ一つの生命として蠢いていた。
浮遊島出雲で、警戒レベル三が発令されるのは滅多にない。
だが、花哩は瞬時にそれが、警備隊の怠慢によるものではないと理解する。
「そっか……今は、常磐の方に人手を割いているから……」
浮遊島出雲が誇る戦力は現在、金轟を筆頭に、その二割近くが浮遊島常盤に出現したEMITSとの戦いに出向いている。
当然、その程度で使い物にならなくなるほど出雲の防衛力は低くない。平常時と比べれば航空団全体の火力は落ちるものの、本務には影響がないと上も判断した筈だ。
しかし、まさか。
出雲までもが
「
統率固体のいない、群れによる襲撃を得意としたEMITSの一種。
荒れ狂う嵐の如く、或いは浮遊島に対を成す大城の如く。漆黒の群衆は一丸となって迫り来た。
あれを一掃するためには高い火力が必須だ。しかしその火力だけは、今の出雲に欠けているものだった。
「なんだよ、あれ……」
僅か十数秒で、大雲の粒は肉眼でも捉えられる距離となった。
頭部には二本の触覚と真っ黒な瞳。細長い胴からは折れ曲がった脚と羽、そして節くれだった腕が伸びる。黒みがかった緑の外皮を擦り合わせ、群れは接近する。
全長は三メートル程。シミュレーションでは感じ得なかった、生物としての存在感に翔子は肌を粟立てる。――見ればわかる、紛うことなき化物だ。
「あんな奴らが、僕たちの島に来るというのか……!!」
恐れと怒りを綯い交ぜにしたような声で、達揮は言う。
その時、幾重もの光の帯が黒雲を切り裂いた。
「自衛隊……助かった、か?」
「駄目、あんなのじゃ止まらない――っ!!」
特務自衛隊の奮闘に翔子が安堵するも束の間。
花哩の言う通り、EMITSの大群は全く足を止めることなくこちらに向かっていた。
黒雲からボロボロとEMITSの死骸が落下する。だが数が違いすぎる。撃ち出される光線は、深い闇に飲み込まれるように消失していた。
「――そこの三人、聞こえるかっ!?」
切羽詰まった男に、三人が振り向く。
そこには黒一色の外套を纏った男がいた。
「警備隊だ。これより君たちを安全な場所へ誘導する。ついて来てくれ」
簡潔な物言いだが、粗野とは感じない。この男にも余裕がないのだ。
黒い外套を翻し、男は翔子たちを先導する。空に敷かれた黄色の誘導ラインに沿って飛翔するが、その最中、絹を裂くような悲鳴が後方から聞こえてきた。
「今、悲鳴が――っ!?」
「口を閉ざせ」
男が達揮に対し、語気を強くして言う。
「奴らが傍を通過する。絶対に、刺激しないように」
その一言が発せられた直後、無数の羽音が耳朶を揺らした。
悍ましい蝗の大群が、目の前を通過する。
一秒、二秒と経過しても、まだ最後尾が見えない。
(これは……っ)
これは――戦って、勝てるものなのか?
戦いが成立するのだろうか。蟻が巨大な象を前にして、いちいち「戦い」なんて言葉を用いるだろうか。
人間一人ではどうすることもできない、災害としか言いようが無い光景だ。
「標的にされないためにも、少し迂回して浮遊島に近づこう」
黒い雪崩の中に、巻き込まれた数人の特務自衛官の姿が見えた。
身体を丸めて衝撃に備えているが、その効果は薄い。蝗たちの突撃に彼らは容赦なく吹き飛ばされる。
眼前の大群は、真っ直ぐ浮遊島に向かって進んでいた。
「有事の際、浮遊島はエーテル粒子の障壁を展開する。その内側に入りさえすればもう大丈夫だ。蝗型は人の張った防衛線には強いが、物理的な壁には弱い。……安心しろ、君たちに被害が届くことはないさ」
三人の心理状態を危惧してか、男は笑いかける。
「……安心なんて、できないわよ」
「何?」
「私たち民間人を助けるために、どれだけの人員を割いたの? ただでさえ常磐の襲撃で人手が足りていないのに……本当はこれ、結構危ない状況でしょ」
特務自衛隊のエースを目指す花哩は、日頃から実戦を想定して訓練を受けている。
だから分かった。浮遊島は今、危機的状況にある。
「何か、手伝えることはありますか」
達揮が飛翔を止め、男に言う。
「学生の出る幕ではない」
「僕の適性は甲種です。多少は役に立つと思います」
「……役に立ったところで関係ない。余計なことは考えるな」
僅かに、男が揺らいだ気がした。
適性甲種はそれだけ魅力的らしい。
「篠塚三等空尉と、アミラ三等空尉は、学生でありながら浮遊島を救ったわ」
「彼女たちは特別だ。君たちとも……俺たちとも違う」
もしこの場に金轟や銀閃がいたら、目の前の大群を消し飛ばしてくれたかもしれない。だが今、彼女たちはこの場にいない。
しかし、ここにはその特別の弟がいた。
「僕は――篠塚凛の弟です」
その一言に、男は見開いた目で達揮を見た。
英雄の名はそれだけ価値があるのか、頑なだった男が明らかに動揺している。
適性甲種。英雄の弟。
男も、本音を言えば協力して欲しいに違いなかった。
今もまた、一人の自衛官が濁流に飲まれた。
無数の羽音に混じって、掠れた悲鳴が聞こえる。
その光景が――達揮の中にある、巨大な正義感を爆発させた。
「失礼します―ッ!!」
「な、待てっ!?」
達揮が男の隣を抜け、狗賓を片手に飛翔した。
男の制止に耳を貸すことなく、達揮は蒼の外套を靡かせながら、EMITSの波に攫われた隊員の救助へ向かう。
「翔子、これ借りるわよ」
「え?」
花哩が、翔子の腰から狗賓を奪い取って達揮の援護に向かった。
あまりに唐突過ぎて、翔子は反応が遅れる。
咄嗟に、花哩を呼び止めようと前に出るが――。
「――あんたは来ないで!」
花哩が言う。
こちらを振り向いた花哩は、優しく微笑んで告げた。
「ここから先は、あんたが一番嫌いな世界よ」
そう言って、花哩は達揮と共に黒雲に飲み込まれていった。
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