第23話

「失礼します」


 保健室の扉を開くと、そこには紫髪の女性がいた。


「おや、君は……美空翔子か」


 黒いスーツをきっちりと纏った女性が、思い出したかのように翔子の名を口にする。


 見覚えのある女性だ。しかし、名前が出てこない。

 そんな翔子の心情を見透かしたかのように、女性は微笑した。


「大和静音だ。この学院の理事長を務めている。……君のことは娘から聞いているよ」


 名を聞くと同時に思い出した。入学式の時、壇上にいた人物だ。


「娘?」


「おや、聞いていないのかい? 大和綾女は私の娘だ」


 初耳だ。驚愕する翔子に、静音はクスクスと笑みを浮かべた。


「保健室に何か用かね。生憎、今は担当者が不在なようだが……私も特自の関係者だ。簡単な怪我の処置くらいならしてやれるぞ」


「ああいえ、怪我ではなく、少し相談があって……」


「相談?」


 少々予定とは異なるが、相手は天防学院の理事長だ。相談してみるのも良いかもしれない。


「実は――」


 翔子は簡潔に、自分の容体について説明した。

 陸上部だった頃に足を怪我してしまい、走れなくなったこと。その状態で《ステップ》を使用していいのか疑問に思っていること。

 全ての話を聞いた静音は、腕を組んで考える。


「成る程、足の怪我か。……少し触診させてもらっても?」


 翔子が頷く。静音は翔子に、ベッドへ腰掛けるよう促した。

 静音は膝をつき、翔子のふくらはぎと膝を両手で指圧した。


「痛みは?」


「大丈夫です」


「ふむ。あまり酷い症状ではないようだが、油断はしない方がいいな」


 そう言って、静音は翔子の足から手を離す。


「君が懸念した通り、《ステップ》は空中を走るテクニックだ。地上を走れない君が、安易にそれを使うべきではないだろう。今後は使用を控えたまえ」


「……分かりました」


 残念なことだが、仕方ないだろう。


「しかし……まさか初の飛翔でアーツを使用するとは。末恐ろしいルーキーだな」


「……そうですかね」


「アーツは浮遊島に十年以上住んでいる者でも、その殆どが使用できないテクニックだ。特務自衛隊でもアーツを使える者は、それだけで一目置かれる。……もっと自信を持つといい。君ならば特務自衛隊や特区警察でも、エースになれる可能性がある」


 似たようなことを花哩も言っていたな、と翔子は思う。

 だが、その称賛は翔子にとって息苦しかった。


 ――エース。


 その単語に、胃の内側が痛む。

 その肩書きには――あまりいい思い出がない。


「さて、他に用はないかい? 転入組の君にひとつ注意を促しておくが、EMITSとの交戦が確認された日はなるべく寄り道しないで寮に帰るといい。きっと今頃、私の娘も君の帰りを待っている筈だ」


 静音は冗談交じりに言う。

 立ち上がった彼女へ、翔子はふと疑問を口にした。


「あの。EMITSって、何処から来てるんですか?」


 EMITSの出現はいつも唐突だ。先日の抜き打ち訓練は映像だったが、二ヶ月前に襲われた時は、サイレンが響くと同時に急にEMITSの姿が見えた。

 あの恐ろしい化物たちは、何処から来ているのだろうか。


「それはまだ解明されていない。恐らく空気中に存在するエーテル粒子が、何らかの作用によってあの形に凝固し、意思を持つのだろうが……詳しいメカニズムは不明だ」


 静音は顎に指を添えながら答える。


「EMITSが浮遊島を襲う理由については、知っているかい?」


「授業で教わりました。EMITSはエーテル粒子を糧にするから、粒子が集まっている浮遊島を襲うと。……海中の塩を餌にする動物が、製塩プラントを襲うようなものですよね」


「面白い表現だ。君はのんびりしているように見えるが、実は考えることが得意なタイプだね」


「どうも。……あんまりそんなことは言われませんが」


「得意ではあるが、説明するのは面倒臭いんだろう? だから口数は少ない方だとみた。あっているかね?」


 さぁ、と翔子は適当に相槌を打った。

 ほんの少しだけ――不快感を覚える。

 無遠慮に踏み込んでくるその視線と言葉を、翔子は苦手に感じた。


「君は私の娘と似たタイプのようだな」


 静音はどこか面白そうに言った。


「話を戻そう。……先程の表現には一点だけ誤りがある。浮遊島は別に粒子を製造しているわけではない」


 人差し指を立てて静音は言う。


「エーテル粒子は一定以上の高度でしか効果を発揮しない。そのため、EMITSも地上に近づけば近づくほど弱くなる。これは知っているな? ……ならEMITSが最も猛威を振う高度は、どのくらいだと思う?」


「それは……多分、浮遊島よりも高い場所ですよね」


「そうだ。最新の研究によると、高度2万メートルほどだと言われている」


 EMITSはいつも浮遊島の上から来る。

 下から昇って来た例は過去に一度もないそうだ。


「つまり、だ。EMITSはエーテル粒子を喰うためとは言え、態々自分たちが不利になる高度まで下がって来ているんだ。……製塩プラントは地上に作るものだ。海中の動物が地上に出てそれを狙うのは、まさに命懸けの所業と言える。これはEMITSと通じるところがあるな」


 そう説明した後、静音は唇で弧を描いた。


「違和感があるだろう? そこまでして浮遊島を襲う必要はあるのか……そう思わないか?」


 まさに翔子は今、そう思っていた。小さく首を縦に振る。


「実は、EMITSが浮遊島を襲う理由については、別の説もある。……そもそもエーテル粒子は人類が生み出したものではなく、発見したものだ。我々はそれをあたかも自然界に最初から存在していたかのように捉えているが……この前提が間違っているかもしれない。エーテル粒子は、もしかすると――何者かの落とし物かもしれないのだ」


 静音の瞳が怪しげに光ったような気がした。


「その何者かが、EMITSだと言うんですか?」


「そうだ。我々はEMITSが偶々落としたものを、偶々拾うことに成功し、それを運用している。EMITSは落とし物を取り返しに来ているだけだ」


 敢えて抽象的な表現をしているのか、それとも翔子には伝えられない何かがあるのか。その答えは、静音の様子からは察することができない。


「もしこの説が正しければ、EMITSは少なくとも好きで浮遊島を襲撃しているわけではない筈だ。EMITSがどこから来ているのかという君の質問に対しても、少なくとも此処ではないという回答を与えることができる。……EMITSは本来なら、我々とは全く別の世界に存在する生き物だったのかもしれない。遥か上空か、それとも違う星か……」


 壮大な話を聞いて、翔子の思考は処理能力の限界を迎えた。

 混乱する翔子に、静音は「ふふっ」と笑みを零した。


「あまり真に受けるな。今のはただの空想だ。説と言っても支持者は少ない」


 そう言って静音は、改めて翔子を見る。


「ところで、足以外に痛む場所はないか?」


「足以外、ですか……?」


「高山病の一種でね、この島に来たばかりの人は、偶に身体の何処かに違和感を覚えることがあるんだ。場合によってはそれが悪化する恐れもあるから、早めに相談した方がいい」


 聞いたことのない症状だが、心当たりがあった翔子は話すことにした。


「そう言えば、少し目に違和感があります」


「目か。どういう時にそれは感じる?」


「空を飛んでいる時です。急に、視界が広がるような……」


 あの時の感覚をどう説明すればいいか、頭を悩ませていると――。


「翔子」


 保健室の入り口から声がした。振り返り、翔子は目を丸くする。


「綾女? どうしてここに」


「帰りが遅いから迎えに来た」


 そう言って綾女は翔子の傍までやって来る。

 綾女が鋭い目で静音を睨んだ。静音はその鋭利な視線に動じることなく、微笑する。


「私も用事があったことを思い出したから、今日はこれでお開きにしよう。……美空。君の目についてだが、そちらは気にする必要はない。悪いものではないから安心するといい」


 静音は保健室の棚から薬品らしきものを取りだし、ポケットに入れる。

 そのまま保健室を出ようとする静音へ、綾女は小さな声で問いかけた。


「……理事長は、また例の場所・・・・へ?」


 綾女は、静音のことを母とは呼ばず、その肩書きで呼ぶ。


「ああ。お前も来るか、綾女?」


「……あんな悪趣味な場所に人を誘うとか、どうかしてる」


 その言葉に、静音は笑みだけを返して保健室を後にした。

 遠ざかる足音がやがて聞こえなくなった頃、綾女は翔子の顔を見る。


「翔子。あの女には、あまり近づかない方がいい」


「あの女って……その、綾女の母親なんだよな?」


「母親らしいことなんて、生まれて一度もされていない。……あの女は紛うことなき奇人。意味もなく人を惑わす悪女。……何か変なことはされなかった?」


 心配そうに訊く綾女に、翔子は少し考えてから答えた。


「身体を弄られた」


「………………」


「すまん、冗談だ」


 身体を触られたことは事実だが、医療目的であるため変なことではない。

 綾女の瞳に殺意が込められたので、翔子は瞬時に謝罪した。

 直後、脛を蹴られる。


「言っていいことと悪いことがある」


「……申し訳ない」


 脛を擦りながら翔子は改めて謝罪する。


「で、《ステップ》は使えるの?」


「いや……保健室の担当者が不在だったから理事長に相談したんだが、《ステップ》の使用は控えた方がいいとのことだ」


「……あの女は、そういうとこでは嘘をつかない。癪に触るけど信じた方がいい」


 険悪な仲と思わせつつも、なんだかんだ綾女は母のことを理解しているようだ。

 そのまま二人で保健室を出たところで、翔子の万能端末に通信が入る。

 花哩からだ。


『翔子? ちょっと訊きたいんだけど、ラーラを見てない?』


「ラーラ? いや、見てないが……何かあったのか?」


『買い出しに行ったんだけど、中々帰ってこないのよ。……あの子、気弱なわりに目立つ見た目をしているし、トラブルに巻き込まれることもあるから、少し心配なのよね』


「……分かった。寮に戻る前に、少し探してみる」


 通信を切断し、翔子は綾女の方へ向き直った。


「ラーラが買い出しから中々帰ってこないみたいだ」


「……この歳で、迷子とは」


 やれやれといった様子で綾女は肩を竦める。


「翔子は西側を探して。私は東を探す」


「了解」

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