9-5
青沙ちゃんは顔を伏せ、静かに泣きはじめてしまった。きっと俺のせいなんだろうなと思いながら、けれど俺は声をかけられなかった。自分でも最低なことをしている自覚があったからだ。罵倒されても殴られても青沙ちゃんを責めることなんてできない。
「言っておくけど、私は朱音をやめるつもりなんてないから」
顔を伏せたまま彼女が言った。
「青沙ちゃんがそう決めたんなら俺は反対しない。このことを口外するつもりもないし、今まで通り朱音ちゃんとして接する。演技とかじゃなくて、たぶん青沙ちゃんはちゃんと明るく社交的になってると思うから」
「でも、もし辛くなったら話くらいは聞いてよね」
「そのときは尽力するよ」
「ホント、ミハルって偽善者だね」
顔を上げた彼女は満面の笑みで泣いていた。どういう感情なのかを察するのは難しかったが、少しでも気が軽くなったなら嬉しい。
「偽善者じゃなかったら、きっと俺は俺じゃなくなると思うよ」
しない善よりする偽善、という言葉もある。他人の目には偽善に映ろうが、たとえ問題が解決しなかろうが、俺が正しいと思ったことをして、それで誰かが幸せに近づけるのならそれでいい。
「私、帰るね」
「送ってくよ」
「いいよ、隣だし。それに別れづらくなっちゃうから」
彼女は「バイバイ」と手を振って俺の部屋から出ていった。遠くの方で玄関のドアが閉まる音がして、そこでようやく安堵の息が漏れた。生まれて初めて心臓に悪いという経験をした気がする。
どうしてそこまでして青沙ちゃんに「七楽青沙である」ということを認めさせたかったのか。正直なところよくわからない。ただこのままじゃいけないと思ったのだ。このままでは「本当に青沙が死んでしまう」と思った。
ドッと疲れがやってきて、俺は横になって目を閉じた。
両親と弟の最後の記憶が蘇ってきた。三人の遺体が横たわるところも思い出した。気分は最悪だし、思い出したくもない記憶だ。でもそのときは寂しくも悲しくもなかったんだ。なにが起きたのかわからなかったから。俺が泣いたのは千歳さんに引き取られて、独りで眠るようになってからだ。もう誰もいないんだって気付いて、泣いたんだ。
辛かったし、悲しかった。独りの布団は広くて、冷たくて、寂しかった。誰かに助けてほしかったんだ。それが憐れみでもなんでもよかった。側にいて、慰めて、温めてほしかった。そんなときに俺を抱きしめてくれたのが千歳さんだったんだ。今まで会ったこともない女の人だったけど、温かくて、優しくて、柔らかくて。毎日俺を抱いて寝てくれたんだ。千歳さんだってそんなことをするのは抵抗があったはずだけど、それでも俺を抱きしめてくれたんだ。
『悪いな、ママじゃなくて』
たしかそんなことを言っていた。
『悪いな、こんなことしかしてやれなくて』
そんな言葉を耳にしたこともある。
『悪いな、私はお前の心の穴を埋めてやることができなくて』
千歳さんはずっと「悪いな」と言っていた。その「悪いな」の意味が当時の俺にはわからなかった。でも今ならわかる。千歳さんは俺に対して、そして千歳さん自身に対して後ろめたさを感じていたんだ。今まで会ったこともない子供を引き取るなんてそんなのは偽善に他ならない。それで子供が喜ぶわけがない。周りの人間だって奇異の目で見てくるに違いない。
ではどうして俺を引き取ったのか。
この前千歳さんが言っていた通りだ。なにかをしてやりたかった、これに尽きるのだ。
それはきっととんでもない偽善で、ワガママで、身勝手だ。だって生活能力のない子供には選択権はないんだから。それでも言えることが一つだけあるんだ。
俺は千歳さんに引き取られて幸せだ。幸せにしてもらってるんだ。彼女のワガママで、思いつきで、憐憫で、そういったものの上に今の関係が成り立っているとしても、俺は間違いなく千歳さんに感謝してるのだ。
だから俺は、千歳さんと同じことをしたいんだ。嫌がる人もいるだろうし、拒否されることだってきっとある。それよりも俺はなにもしないことの方がイヤなんだ。
千歳さんの育て方は間違ってないんだぞって、誰にでも言えるようにしたいから。
「おーいミハルー」
そのとき、玄関から声が聞こえてきた。
「な、なになに」
急いで起き上がって玄関に向かった。
玄関には紙袋にビニール袋にたくさんの荷物が置かれていた。というか完全に通路を塞いでいる。
「なに、これ」
「なんかしばらくゆっくりできるみたいだし、ここらでぱーっと鍋でもやろうかなと思って」
「それにしては多くない? あと鍋の材料だけじゃないように見えるけど」
野菜、肉、魚、豆腐だけじゃない。お菓子やらジュースやらもある。
「ごろごろして過ごすために買ってきた。アイスもいっぱいあるからさっさと冷凍庫に入れてくれよ。溶けちゃうだろ」
「溶けちゃうだろって、買ってきたの千歳さんじゃないか……」
「通路が塞がってるだろうが。これを片付けられるのはお前だけなんだ」
「塞いだの自分じゃないか……」
「文句を言うな文句を」
バシっとなにかが投げつけられた。ちょっと大きめの紙袋でやたらと固い。
「なにこれ」
袋の中には袋にピッタリ収まるくらいの紙箱が入っていた。重みはそこそこあるし角張っているのでぶつけられれば当然痛い。
「お前にやるよ。いいからさっさと片付けな。片付けるまでここから動かん」
俺は口を押さえて笑った。
「わかったよ。玄関に座ってればいいさ」
食材を片付ける前に、箱が入った紙袋を自室に持っていった。自分でも忘れていた。今日は俺の誕生日だったんだ。ぶっきらぼうだけど、やっぱり俺はアナタに育てられてよかったと思うよ。
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