9-2

「私の目のことを知っても「へーそうなんだ」で済ますような人。最初はなんて常識のない人なんだと思ったけど、それが彼女の良さだってだんだんわかってきた。でもね、私の父は社長で、誉の父はそこの従業員だったの。普通に考えれば社長の娘を持ち上げるために従業員の娘が頑張っているんだなと思うわ。でも彼女は違うって思いたかった。遠慮もなくズケズケと言いたいことを口に出して、気を使おうという気概も感じられない。出会ったことがない人だった。それこそが彼女にとっての配慮だったんだって、ある日気がついてしまった。遠慮されること、気を使われること、哀れんだ目を向けられること、そういうのを嫌っている私を気づかってくれてたんだってわかってしまったから。だから、私から関係を壊したの」


 ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。プールの水ではない、彼女の涙だった。


「それが『一色周』なのよ。そういう人間なの」


 まるでそうあるべきだ、そうでなければいけないと言っているようだった。


 いつだってそうだ。彼女は自分で自分を決めつけて縛り付けてしまっている。


 それならば俺ができるのは、一色の気持ちをちゃんと表面に浮き上がらせてやることだ。できるかどうかはわからないがやれることはすべてやる。


「いつまで涼しい顔を顔面に貼り付けてるつもりだよ。今みたいに感情を表に出したっていいだろ。自分で自分を決めつけんなよ。たまには、ワガママだって言っていいんだ。俺もお前もまだ子供なんだから」

「いつまでも子供ではいられないのよ。大人になる準備をしなくちゃ、いつか人は独りになる」

「でもそれは今じゃなくてもいいだろ。準備ならこれからしていけばいい。それに涙を流すくらい苦しかったんだろ。天羽のこともそうだ。彼女が大事だったんだろ。周りにどう思われるとか、もう気にしなくていいんじゃないか? 少なくともお前は「普通の女の子」に見えるぞ」

「普通? 私が? 無表情で無感情で、色が判断できなくて、夢を追うこともできない女が普通? どうかしてるわ」

「夢、あるのか?」


 しまった、というように口を押さえたがもう遅い。それを彼女もわかったのだろう、俺のしつこさも理解しているはずだ。


「絵本作家に、なりたいのよ」


 夢を諦めるというくらいだから目に関することだとは思ったがそういうことか。どれもこれも目のせいだ。どれもこれも自分のせいだ。俺の推測でしかないけど、彼女はきっとそうやって生きてきた。


「諦めるならやってから諦めたらどうだ」

「簡単に言わないでよ」

「なんでやる前に諦めるんだよ。諦めるなら、自分の力が及ばないんだってことがわかるところまでやってみろよ」

「アナタにはやっぱりわからないわよ。そこまでいってしまったら、きっと私は壊れてしまう。だってそれは私が夢を放棄したわけじゃないんだもの」

「それのなにが悪いんだよ。人より劣ってると思うならそれを盾にして突き進めよ。自分にしかないものを見つけて突っ走れよ。劣ってるから努力するんだって、諦めが悪いんだっって、ホントにやりたいならしがみついて見せろよ」

「だから簡単に言わないで」

「簡単じゃねーのはわかってる。俺はお前じゃない。お前の苦しみはわからない。でも必死に取り組んでる姿をみたら誰だって協力するだろ。夢を夢のままで終わらせたくなかったら使えるものはなんでも使えよ。みっともなくたっていいんだ。それも『一色周』だろ」

「そんなこと、今更できるわけない。私はそんな生き方してきてない。夢のことも誉のことも、もうどうすることもできない」

「諦めるなよ」


 彼女の肩を強く掴んだ。


「夢のことも天羽のこともこれから変えていけばいいだろ。何度も転べばいいじゃねーか。それで何度も立ち上がれよ。そしたら誰かが必ず手を差し伸べてくれるはずだ。俺だってそうだった。千歳さんがいなきゃ、俺は落ち込んだままだった。お前にだって、きっとできる」

「今更どうやって彼女に近付いたらいいの? 私の身勝手で、私自身が関係を壊したのよ。誉がどれだけ不快な気持ちになったかなんてわからない。それでも今更かける言葉なんてあるはずないじゃない。あっちゃ、いけないのよ……」

「そんなことない!」


 そのとき、大きな声が廊下を突き抜けた。


 少し離れたその先には天羽誉が立っていた。


「誉……」


 一色が絵本を抱きながら立ち上がった。


 天羽はしかめっ面でこちらへと歩いてくる。そして、一色の目の前に立った。


「私はずっと周のこと考えてたよ。自分のことを忘れさせようとしてたんだっていうのはわかってたよ。でもそれを言ったら、言っちゃったら、周はまた自分の殻に引きこもっちゃうと思ったんだよ。周に気を使いたくなかったんだよ! 周と、対等でいたかったんだよ……」


 天羽の目にも涙が浮かんでくる。それは頬を伝い、地面に落ちた。


「取り返しのつかないことをした。もうどうすることもできないと思った。誉のことを考えると辛くなるから考えないようにしてたの」

「でも考えてくれたんでしょ?」


 一色が小さく頷いた。


「周はどうしたいの? それを叶えるためになにができると思うの? できると思うことをやらないの?」

「それをやっても時間は戻らないわ」

「失った時間はたくさんあるけど、そこから始められることもあるんじゃない? 始めようと思わない?」


 天羽が一色の右手を取った。


「どうするの?」


 一色は細かく浅い呼吸を繰り返していた。だから俺は彼女の背中を叩き、天羽との距離を縮めてやった。


 彼女が俺の目を見た。


「全部含めて「普通の女の子」に見える」


 一色は息を呑み、そして天羽へと向き直る。覚悟が決まった、ということだろう。


「私と、友達になってほしいの」


 天羽の目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。しかし天羽は満面の笑みを浮かべていた。その笑顔は手をかざしてしまいそうなほどに眩しく見えた。


「どうしよっかな」


 なんて天羽が言うものだから、一色は泣きながらおろおろとしはじめてしまった。袖で涙を拭いながら「うう……」とうめき声まであげている。


「お前あんまりイジメんなよ」

「私のことこんなに待たせたんだからこれくらい当たり前よ。でもいいよ。友達か」


 突風が吹き抜けていった。天羽が一色に抱きついたのだ。


「ありがとう、誉」

「こういうことはもう二度とごめんだからね」


 体を離した二人は嬉しそうに笑い合っていた。胸のつっかえが取れて俺も安心だ。


 教師に対してトイレ宣言をする前、天羽にはメッセージを送ってあった。「一色が水泳から戻らない。今から探す」と。きっと天羽ならばなにかしらの方法で抜け出してくるだろうと思ったが、ここまで上手くことが運ぶとは思っていなかった。


 しかしこのままというわけにもいかない。


 一色の制服は乾きはじめているがまだ教室に帰るのは難しいだろう。一色を保健室に送り、俺と天羽は教室に戻ることにした。


 その後、教室に戻った俺が教師に怒られたのは言うまでもない。なにせ廊下であんなことがあったのだ、見ていた生徒もそれなりに多く、瞬く間に学校中の噂になった。


 二年生の男子、二股をかけるもその女子二人にフラレて女子二人がくっつく。完全に俺が悪者なのだが人の噂も七十五日という。放っておくのが一番だ。

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